mrmaxの城めぐり 茨城県1 (水戸城)


水戸城は徳川御三家の一つ、水戸藩の居城で、 那珂川と千波湖にはさまれた台地の先端に築かれた連郭式の三階五階の御三階櫓の 城である。  平成十八年(2006)には、日本100名城(14番)に選定された。
偕楽園は日本三名園の一つで、梅の名所として有名である。 


かうんたぁ。




水戸城

平成二十八年(2016)八月十日、日帰りで水戸を訪れた。  
水戸城は、北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀とし、 丘陵の上に築城された連郭式平山城である。 

「 初代藩主・徳川頼房は城と城下町を拡充し、 本丸の西側に二の丸を配し、居館を構えたが、 天守は造らず、破風などの飾りのない三階櫓(内部は五階建て)を二の丸に建造し、 その西側に三の丸が配し、それぞれを空堀で仕切った。 
水戸城の城郭には石垣がなく、全て土塁と空堀で構成されたこと、 櫓や多聞(長屋)も極端に少なく、塀を多用したのが水戸城の特色で、 この質朴さが水戸徳川家の家風をよく表しているといわれている。 」

JR水戸駅から県道232号を北に向い、三の丸ホテルを過ぎると、 左右が高台になっている切り通しに出る。 
右側の石段を上っていくと、土塁に柵が設けられていて、 右に向って進むと、  「茨城百景 弘道館と水戸城址」と書かれた大きな石碑が建っていて、 その先に水戸市教育委員会による「茨城県指定史跡 水戸城跡(塁及び濠)」の説明板がある。

説明板「茨城県指定史跡 水戸城跡(塁及び濠)」
「 水戸城は、平安時代末期頃、常陸国大掾国香の子孫、馬場資幹(すけもと)が、 この地(水戸一高)に館を構えたことに始まり、後に常陸国大掾となって府中(石岡市)に本拠をもったことから、 水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾氏の族が栄えたのである。  十五世紀のはじめ、応永二十三年(1416)、藤原氏の族、河和田城主、江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。  それまでの本城の外に、宿城(のちの二の丸、現在、茨城大学附属小、水戸二中、水戸三高)を築くなど、 城郭を拡張して、約百六十余年間、水戸地方を支配したが、 太田地方を本拠として常陸北半を領した源氏の族、佐竹氏は、天正十八年(1590)、 豊臣秀吉の小田原城攻めに功績が認められと、一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。  こうして、五十四万余石を領する佐竹義宣の本城になり、城郭も一段と拡張させ、 城下町も太田から移された商人によって栄えた。  ところが、秀吉の死後、義宣は石田三成と組んで家康に抗したため、慶長七年(1602)、秋田に国替えを命じられ、わずか十三年間で水戸を去った。  その後は家康の子、信吉、頼宣が一時期封せられたが、慶長十四年(1609)に、第十一子頼房が藩主(二十五万石)、 第三代綱條の時から三十五万石となってから、代々その子孫が継いた。  頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り、三重の濠と土塁を巡らして、武家屋敷や商人街を整える一方、 徳川御三家として幕府を助けたが、第二代光圀以来、尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。 」 

県道を跨ぐ大手橋の手前には 「大手門跡」の説明板がある。

「 大手橋に接してここにあった二階造りの大手門は、 佐竹義宣が慶長六年(1601)に建てたものであったが、 徳川氏の代になっても水戸城の入口の門で、前に下乗の札、後に番所があった。  楼上では太鼓または鐘を打って知られたこともあったが、明治初年にとりこわされた。 」

水戸城は明治維新後、ほとんどの建物はとり壊され、解体を免れた三階櫓は国宝に指定されていたが、 第二次大戦の水戸空襲により焼失したので、城跡を示すものはこの周辺に残る土塁と濠跡のみである。 
標高約三十二メートルにあった本丸が水戸第一高校、東二の丸が第一高校のグランド、 二の丸が水戸第三高校、第二中、茨城大付属小、三の丸が三の丸小というように、ほとんどが学校の敷地になっている。 
水戸第二中の前に「大日本史編纂之地」と書かれた大きな石碑、その左下に「彰考館跡」の石碑がある。

「 水戸第二代藩主義公光圀は、明暦三年(1657)に、大日本史(412巻)の編集を始めた。  寛文十二年(1672)に、その編集所を彰考館と名付けた。  最初は江戸小石川の藩邸内にあったが、元禄十一年(1698)に水戸城内に移した。  その場所は現在の第二中学の一角といわれ、明治四年(1871)の廃藩置県までの百七十二年間続いた。 」 

本丸と二の丸、三の丸の間には堀があり、橋が掛けられていたが、 明治期に二の丸と三の丸の間の堀は、道路(県道232号市毛水戸線)として、 本丸と二の丸の間の堀は、鉄道(JR水郡線)として転用された。 

「茨城百景 弘道館と水戸城址」
     大手門跡      彰考館跡
「茨城百景 弘道館と水戸城址」の碑
大手門跡
彰考館跡



三の丸には水戸藩藩校だった弘道館(国の重要文化財、特別史跡)がある。 

説明板「弘道館」
「 弘道館は、第九代藩主徳川斉昭が四十一才の天保十二年(1841)に、創設した藩校である。  創設時、正庁、至善堂を中心として、文館、武館、医学館、天文台等が配置され、 梅林の中には鹿島神社、孔子廟、八卦堂、、学生警鐘(鐘楼)等があり、 藩士に文武両道の修練を積ませようと、武芸一般はもとより、 医学・薬学・天文学・蘭学など、幅広い学問を採り入れた、いわば総合大学というべきものだった。 
明治元年(1868)の弘道館戦争の際の兵火により、文館、武館、医学館等を失った。  その後、広大な敷地は県庁、三の丸小用地として割譲され、規模は縮小、 昭和二十年(1945)の戦災で残っていた鹿島神社、孔子廟、八卦堂が焼失したが、 正庁、至善堂、学生警鐘(鐘楼)は奇跡的に戦災から免れた。  昭和二十八年(1953)から八卦堂、孔子廟の復元、正庁、至善堂の修理を行い、弘道館公園として現在に至る。  明治五年(1872) 藩校としては閉館されたが、同八年 公園となり、大正十一年(1922) 史跡、 昭和二十七年(1952) 特別史跡、十一月 弘道館として、 昭和三十九年(1964) 正庁、至善堂及び正門が国の重要文化財に指定させた。 」  

幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。 
元治元年(1864)、天狗党が筑波山で挙兵する天狗党の乱が起る。  この対立は明治維新まで続き、戊辰戦争の明治元年(1868)、水戸城下で戦闘が行われ、 弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。 この際、城内の多くの建物が焼失した。 
入口で観覧料を支払い、入館すると、国の重要文化財に指定されている本瓦葺き四脚門の正門がある。 
これは戊辰戦争の際、燃失を免れたものだが、城側から撃たれたと思われる弾痕の跡が残っている。 
その先にある門をくぐると、その先にあるのが正庁、至善堂である。 
正庁は弘道館の管理棟で、玄関の戸や板壁に弘道館戦争の傷跡が残っていた。 
正庁の東北に位置する四室は至善堂と呼ばれ、藩主の控え室、その子弟の学習の場として使用されたという。 
襖や壁には和歌の扇面を掲げたといわれるが、現在の襖には要石歌碑の碑文を記した掛け軸が掲げられていた。 
学生警鐘(鐘楼)は、弘道館内の時刻を知らせるためので、 背面には、斉昭の「 物学ぶ 人の為にも清かにも 暁告げる 鐘のこえかな 」 の自筆があるという。 
学生警鐘(鐘楼)は昭和二十年(1945)の戦災を免れたが、現在鐘のコピーが作られ、弘道館内に展示されている。 
なお、慶応三年(1867)の大政奉還の後、徳川慶喜は江戸から至善堂に移り、謹慎したとある。 
敷地には、約六十種八百本の梅が植えられており、偕楽園とともに梅の名所となっている。 
三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしていた。 

弘道館正門
     弘道館正庁      要石歌碑の碑文
弘道館正門
弘道館正庁
要石歌碑の碑文






徳川ミュージアムと偕楽園

水戸駅前から徳川ミュージアムに向う。 

「 徳川ミュージアムは、水戸徳川家十三代当主徳川圀順が、 伝来の大名道具や古文書類を寄贈して設立した公益財団法人徳川ミュージアム(旧 財団法人水府明徳会)の博物館として開館されたもので、 自然な風景の中にモダンな建物が建っていた。  所蔵品は、徳川家康の遺品(駿府御分物-すんぷおわけもの)を中心に家康公の子で初代頼房、 二代光圀公ら歴代藩主やその家族の遺愛の什宝約三万点に及ぶ。  敷地内にある彰考館文庫収蔵の『大日本史』草稿本や、 その編纂のために全国から集められた古文書類約三万点からも史料が展示される。 」 

訪れての感想としては、比較する相手がわるいが、名古屋の徳川美術館を知っているので、 入館料と展示物にギャップがあり、訪れる人が少ないのは分る気がした。 
徳川ミュウジアムの北東にあるのが、天保十三年(1842)に水戸第九代藩主徳川斉昭が開園した偕楽園である。 

「 偕楽園の名称は中国の古典「孟子」にある 「 古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり 」  という一節からとったもので、「偕楽園記」では 「 是れ余(斉昭)が衆と楽しみと同じくするなりの意なり 」  と述べている。 」

日本三名園の一つである偕楽園は梅の名所と知られ、季節になるとJRの偕楽園前の駅が臨時に開かれる。 
小生は三度梅の花を撮影に出かけたが、その時は人が多くごったかえしていたが、 今回はシーズンオフなので、人はほとんどいなかった。 
園内にある好文亭(こうぶんてい)は、徳川斉昭自らが設計したもので、 木造二層三階建ての好文亭本体と木造平屋建ての奥御殿から成り、各所に創意工夫と洒脱さを感じさせる建物である。 
現在の建物は昭和になって復元されたものであるが、 斉昭はここに文人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や慰安会を催したといわれる。 
自ら考案したとされる一階と二階に手動のエレベーター(食事を運ぶ装置)が設けられていて、 斉昭は科学者や発明家の才があったのだろうと感じた。 
二階からの展望はすばらしく、眼下の梅林はもちろん冬には白鳥が飛来する千波池が目の前に見える。 
公園で好きなところは孟宗竹の竹林。 心がなぜか穏やかになる。 
このあたりは昔から湧水の多かったところで、斉昭は偕楽園造成に当たり地形の高度差を利用して集水し、 造園上の景観を考慮した白色の井筒を据えた湧水泉を設置した。

「 吐玉泉(とぎょくせん)と命名されるもので、この水は眼病に効くといわれ、 好文亭の茶室何陋庵の茶の湯にも供された。  現在の泉石は四代目で、常陸太田市真弓山の大理石で、寒水石ともいわれる。 」

偕楽園の東隣にあるのが常磐神社である。 

「 明治初年、義公(徳川光圀)、烈公(徳川斉昭)の徳を慕う人達によって偕楽園内に祠堂が創建され、 明治六年(1873)には勅旨をもって常磐神社の社号を賜った。  昭和二十年、戦災により本殿など焼失したが、昭和三十三年(1958)に現在の社殿が完成した。  祭神は徳川光圀と徳川斉昭である。  常磐神社の摂社としてあるのが東湖神社。  東湖神社は水戸学を代表する藤田東湖を祀る神社で、昭和十六年の創建である。 」

徳川ミュージアム
     好文亭      常磐神社
徳川ミュージアム
偕楽園好文亭
常磐神社



水戸城へはJR常磐線水戸駅から徒歩約10分  
水戸城のスタンプは弘道館(水戸市三の丸1−6−29)料金所入口にて




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