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中には「赤穂四十七士の笠間(藩)生まれの義士たち」の説明板があり、 その奥には笠間藩浅野家の家老だった大石良欽の邸宅跡の 「大石邸址」の石柱が立っていた。
説明板「赤穂四十七士の笠間(藩)生まれの義士たち」
「 分家浅野氏の初代長重が元和8年(1622)12月に真壁藩から笠間藩に入封し、
二代長直が寛永9年(1632)10月に藩主を相続して、
正保2年(1645)6月に赤穂藩に転封しました。
浅野氏の笠間藩在任は約23年でした。
堀部弥兵衛金丸は、寛永4年(1627)生まれで、父は笠間藩士の堀部弥兵衛です。
19歳の時、赤穂に移ったので、義士の中では、唯一の笠間藩士でした。
赤穂では300石取りになり、足軽大将を勤め、江戸留守居役に任じられました。
文武の道を志し兵法に通じ、長槍の達人と伝えられています。
中山安兵衛(堀部安兵衛武庸)に懇願し、養子に迎えており、父子で義士になりました。すでに隠居の身でいましたが、江戸の急進派の若い同志を励まし、
討ち入りの時は表門を守り、老巧な心理作戦で本懐を遂げました。
吉田忠左衛門兼亮は、寛永17年(1640)に笠間藩士の吉田助兵衛の嫡子として出生しました。
赤穂に移転の時、兼亮は6歳で、後に200石取りとなり、
藩の足軽頭兼郡奉行を勤めました。
刃傷事件の後、大石良雄の参謀として、
城の明け渡しから江戸の同志の連絡や統制なあどに尽力しました。
討ち入りでは、吉良を見つけるために、叱咤激励しながら、裏門隊の采配をしました。義士の吉田沢右衛門兼貞は、兼亮の嫡子、
貝賀弥左衛門共信は実弟です。
間喜兵衛光延は、寛永12年(1635)に出生し、父は笠間藩士の間左兵衛です。
赤穂へ移転の時、光延は11歳で、藩に出仕して、
100石取り、勝手方吟味役になりました。
勤直で寡黙、古武士の風格があったと伝えられ、山鹿流軍学を学びました。
討ち入りの時は68歳。 裏門隊に配属、吉田忠左衛門や小野寺十内と本部を作り、
脱出する吉良方を念仏を唱えながら、槍を突き付けて戦いました。
討ち入りには、長男の間十次郎光興と次男の間新六光風と一家三人で加わりました。
間瀬久太夫正明は、権太夫といい、寛永18年(1641)に正明が生まれました。
赤穂に移転の時、正明は5歳で、赤穂藩では大目付役で200石を給わりました。
人柄が非常に厳格で、義挙には嫡子の間瀬孫九郎正辰と父子で加わり、
また同志の小野寺十内は従兄弟にあたり、
中村勘助正辰は正明の姉の娘の夫で、義理の甥であり、一族で参加しました。
討ち入りでは、半弓を手に最後まで大石良雄の側を離れず、司令部として働きました。
小野寺十内秀和の父の又八は、浅野長重に仕え、
秀和は寛永20年(1643)に出生し、3歳の時、赤穂へ移転しました。
赤穂藩150石取りで、京都留守居役を勤めました。
資性温厚で文学に富み、経学を伊藤仁斎に学び、和歌が堪能で優れた歌を詠んでいます。 討ち入りの衣裳に 「 忘れめや百に余れる年を経て仕えへし代々の君がなさけを 」 と書き付けて、吉良邸へ出向きました。
養子の小野寺幸右衛門秀富も義士でした。
笠間市 」
その隣は笠間日動美術館である。
三叉路の先の左側に鎌倉時代に笠間氏と争った、真言宗の佐白山正福寺がある。
入口に「坂東二十三番札所 正福寺入口」の案内板があったが、
時間が早いので、門は開かれていなかった。
右側には笠間稲荷神社外苑駐車場がある。
このあたりから上り坂になる。
道は右に左にカーブするが、左にカーブし始める左側に神社と鳥居があり、
その右側の植栽の中に「歌手坂本九の歌碑」を見つけた。
「上を向いて歩こう」はアメリカですきやきソングとして一世を風靡した坂本九が、
笠間の人とは知らなかった。
地元の人の話では、彼の実家がこの付近でお店を営んでいた、とのこと。
その先で左に大きくカーブするが、この道の左の小道もその先で合流する。
更に行くと、左側の坂道に「笠間つつじ公園」の看板が道の上にある。
ここから約900mの所に公園の展望台があるようである。
この交叉点に「城跡公園→」の石柱があり、笠間城跡は右折する。
右折したところには「笠間県立自然公園特別地域」の看板がある。
かっこう急な坂道で、上って行くと道の左側に飛び出したような形で、
大きな岩が鎮座している。
岩の裏側にまわると「大黒石」の説明板があった。
説明板「大黒石」
「 鎌倉時代の初め、佐白山の僧兵と、七会の徳蔵寺の僧兵がその勢力を争って戦った。 佐白山の僧兵は戦いに敗れて佐白山頂近くまで逃げのび、
山頂にあった大黒石をころがした。
徳蔵寺の僧兵は、ころげ落ちる大黒石の下じきになり多くの死者が出たため、
佐白山の僧兵は、あやうく難をのがれることができた。
大黒石は、そのときここまでころげ落ちて止まったといわれています。
この大黒石の中ほどに小穴があり、大黒のへそといわれ、
このへそに小石を三度つづけて投げ、そのうち一つでも入れば、
幸せがあると伝えられています。
環境庁 茨城県観光物産課 」
このあたりから傾斜がきつくなるが、かっては黒門があったと、
伝えられるところである。
更に登って行くと左側に「笠間百坊旧蹟」の石標があり、
その奥に石段があるが、この一帯が正福寺跡で、
前述のように、正福寺の僧兵がここに詰め、徳蔵寺の僧兵と、
そして、最後は笠間氏と戦った、ということである。
この三叉路を右折すると、千人溜駐車場があり、一段高くなったところに 「史蹟千人溜り跡」の石標が立っている。
「 千人溜は、かって、出陣する武士が隊列を整えた的場丸という曲輪である。 」
かなり広い駐車場で、奥の山麓に「笠間市指定史跡 笠間城跡」の説明板がある。
「 笠間城は、笠間氏の初代、時朝の築城伝説を持ち、
中世は笠間氏の居城として使用されました。
天正18年(1598)に笠間氏が没落すると、宇都宮氏家臣の未生氏が、
慶長3年(1598)には、蒲生郷成が城主になりました。
この蒲生郷成が笠間城を近世城郭として変貌させたと考えられます。
近世は笠間藩の居城として機能し、
政務の利便性のために下屋敷が建設された後も、山城部分は維持されました。
茨城県では唯一本格的な石垣が築かれており、
当時の姿を見ることができます。
(以下省略) 」
説明板の左手に道があるので入り、右側に続く道を進むと、
左側に「史蹟 笠間城大手門跡」の白い標柱がある。
右側の道路の下には石垣が残っている。
これは蒲生氏時代に築かれたもので、江戸時代の牧野氏の時代に風雨で崩落した
石垣や堀の修復が行われたようである。
この石垣の裏側に古びた石段がある。 この石段を上るとショートカットするが、
車道を進むと道は右に180度カーブし、カットした石段の道と合流する。
ガードレールで囲まれた地の南側には帯曲輪があったようである。
つづれ折の車道を上っていったが、右側は石垣と山膚であるが、
その奥にニの丸があったようである。
小生は気が付かなかったが、180度カーブした先の右側に「二の門下の石段」があり、
その道をいくと本丸の玄関門跡に出るようである。
車道を進むと右側は竹林、その先は木が茂る林であったが、右側には石垣が続いていた。
「 笠間城は佐白山山頂の天守曲輪を中心に、
東から北に掛けての山腹に郭を重ねた城で、
天守曲輪および大手道には関東の城郭には珍しく、石垣が多用された。
主郭部は天守曲輪から本丸、二の丸、大手門に掛けての曲輪群により構成されるが、
北方の谷に面した尾根上にも横堀を伴う複数の曲輪が存在した。
また、本丸南方にも横堀が存在し、東端は竪堀となって山麓に向けて下る形になっていた。 」
車道を進むと本丸虎口(裏門)に出て、その先に本丸がある。
「 本丸の広さは三百平方メートルなのでそれ程広くない。
本丸には八幡台櫓、宍ヶ崎櫓に御殿があり、城門で守られていた。
今は古びて字が読めなくなった「笠間時朝」の顕彰碑や歌碑や佐白山の紹介板が立っていた。 」
八幡台櫓は、本丸の南部の三メートルほどの高さの高台にあった物見櫓である。
「 八幡台櫓が建っていた高台に階段で上ると、台地の南東に
「史蹟 笠間城八幡櫓跡」と書かれた新しい石柱があった。
この角に建てられていたのだろうか?
八幡台櫓は市内の真浄寺に移築されて、現存し、
「笠間城櫓」として茨城県の文化財に指定されている。
この高台の奥には東屋があったが、周囲に木が多くあり、見晴しはよくなかった。 」
本丸の西側に宍ヶ崎櫓が建っていたようで、
ここには麓の下屋敷から続く遊歩道がきている。
本丸の奥(東)に向うと、草むらに「笠間城について」という説明板と下の方に
「史蹟 笠間城本丸」の石柱があった。
その奥には「笠間城跡」の大きな石碑と「ちとせまつ」の碑があった。
本丸を出ると尾根道で、下は空堀になっていた。
今は明治以降に掘ったと思えるトンネルがある。
空堀を渡ると、天守曲輪で、
穏やかそうな本丸跡から、山城の様相が変わり、
急な石段の道になる。
石段は天守曲輪の石段で、左側に「笠間城天守跡」の石標がある。
この石段を上っていく。
その先の天守曲輪跡石段は極めて急であるが、両側の石垣は残っている。
ロープが張られた石段をよいしょよいしょと上っていくと、
頂上に神社の社殿がある。
上る石段も崩れていて、社殿には苦労して辿りついた。
「 天守曲輪は、慶長三年(1598)の蒲生秀行の宇都宮城移封に伴い、
蒲生郷成が笠間城代になり、石造りの近代城郭へ改修された際、造られたとされる。
かっては、天守台の上に二重の天守が建てられていたが、
今は佐志能神社の社殿が建っている。 」
本丸まで戻ると、「←天守跡 まんさく」の道標があり、反対側は折れてしまい、
失われている。
近くにある「佐白山の案内板」に表示されているハイキングコースは、
「 千人溜りから(車道ではなく)、直登の道を歩き、 車道を数回横断するコース 」 が紹介されていて、 帰りは 「 宍ヶ崎郭跡から佐白山麓公園に下るコース」 が紹介している。
帰りはこのコースを進む。
「 宍ヶ崎郭跡を過ぎ、左側の階段を下ると、
車が通れる道に着く。
数歩左に行き、右手の階段を降りる。
下屋敷跡まで続く階段を降りて行くと、佐白山麓公園へ到着する。
本丸から下屋敷まで、森の中を下るコースで、途中の車道を出た所が迷いやすいので、
注意。 」
佐白山麓公園は浅野長直が藩庁として建てた笠間城下屋敷跡に造られている公園である。
下に降りたところには治功神社の社殿と鳥居が建っている。
本丸からここまで約780mである。
忠魂碑の左手に「駐蹕遺跡」と「明治天皇笠間行在所」の石碑があり、
明治天皇が訪れた際、休憩されたようである。
また、旧笠間町立美術館の建物があった。
「 明治三十三年(1900) 近衛師団の機動小演習が行われた際、
その視察のため、明治天皇が十一月十五日から十七日までの三日間笠間に行幸された。 明治天皇の宿泊所が当時の西茨城第一高等小学校の校舎で、
その後、「行在所」として、今の山麓公園に保存されていた。
笠間町はこの建物の一部を現在地に移築改修し、笠間町立美術館とした。
美術館の入口には彫刻家の平櫛田中の揮毫による「笠間美術館」の看板を掲げた。 」
公園の中央部に「時鐘」の標柱と説明板があり、建物が建っている。
また、その先には「史蹟 笠間城主下屋敷跡」の標柱が立っていて、
城主の居館が佐白山の北東山麓に置かれたことが確認できた。
説明板「時鐘」
「 時鐘は、笠間藩があ寛文二年(1662) に正福寺の梵鐘を借り受け、
大町の極楽寺(現在の八坂神社)に鐘楼を設け、鐘を撞いたことが発端である。
その後、藩は鐘楼を下屋敷の一角に移して、鐘撞人三人を雇い、時鐘を撞かせた。
この時鐘は三代目で、安永七年、笠間藩真壁郡田村(桜川市真壁町)の鋳物師小田部家が
鋳造した。
(以下省略) 」
鐘楼は昭和四十五年(1970)に佐白観音寺(現正福寺)に移されていたが、
平成十三年(2001)に現在地に新築移転した、とある。
公園を右折し、坂を下ると日動美術館前の三叉路に出るので、左折する。
大石邸前を通り、左折すると井筒屋がある。
佐白山麓公園から井筒屋までは約450mである。
井筒屋の通りを右に国道50号方面に進み、郵便局前を通過し、
ENEOSのガソリンスタンド手前で右折すると日蓮宗の真浄寺がある。
寺に入っていくと、正面の小高いところにあるのが現在は七面堂となっているが、
笠間城本丸から移築された八幡台櫓である。
明治維新後に笠間城の建物は壊されたが、
この建物と薬医門形式の城門二棟が市内の民家に移築され、現存する、という。
なお、井筒屋から真浄寺までは約720mの距離である。
笠間城所在地:茨城県笠間市笠間3616他 JR水戸線笠間駅から徒歩1時間
続日本100名城のスタンプはJR笠間駅から徒歩20分のかさま歴史交流館井筒屋にて
住所:笠間市笠間987 TEL: 0296−71−8118 9時〜22時 月休
笠間稲荷神社
井筒屋より徒歩で門前通りを抜け、笠間稲荷神社本殿まで、約330mで徒歩6分程度
である。
かさま歴史交流館井筒屋の発行する「笠間城跡めぐり案内」には
「 笠間時朝が麓城と呼ばれる居館を構えた場所は、 笠間稲荷神社周辺とされ、ここが笠間城の始まりとされ、 ここを拠点に笠間氏は活動を開始した。 その後、建武四年(1337)頃に、山上に城郭を築き始めた。 」 とある。
佐白山の山頂にあった正福寺の僧兵と戦い、正福寺を征服し、 その後、それより高い山頂に笠間城を築城した訳である。
「 笠間稲荷の創建は白雉二年(651)と古く、その後、
寛保三年(1743)には時の笠間城主、井上正賢により、社地社殿が拡張され、
延享四年(1747)、牧野貞通が城主になると、先例により祈願所と定められ、
境内地や祭器具などが寄進され、以来、歴代藩主の篤い尊崇を受けた。
明治維新で藩の後ろ盾を失ったが、日本の三大稲荷の一つとして、
関東一円から参拝者が集まってくる。 」
楼門は「萬世泰平門」といい、重層入母屋造で、昭和三十六年の竣工である。
拝殿は昭和三十五年十月の竣工で、神社建設の粋を集めた豪壮かつ華麗な建物である。
その奥にある本殿は江戸時代の末期に造られたもので、
国の重要文化財に指定されている。
八重の藤とある藤棚は樹齢四百年の二株の藤で、国の天然記念物に指定されている。
内の一本の八重藤は花がブドウの実のように集合して咲く珍しいものである。
拝殿でお参りをして、その後、御朱印をいただき、笠間の旅は終了した。
笠間神社へは笠間駅からバスで7分
笠間駅から徒歩で25分