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市内中央一丁目にある三菱UFJ銀行の前に「旧町名 本町」の標柱が建っている。
「 由来 東崎分集落の中心として、 その名のごとく中城と共に土浦宿の代表的な町人町で、 二つの本陣(山口家、大橋家)もここにあった。 問屋も中城と本町の問屋が交代で努めた。 また、川口川を通じ、霞ヶ浦水運の要で、船宿もあり、水陸交通の要衝であった。 」
中城町は本町の南にあった町で、今は中央二丁目になっている。
江戸方面から土浦城の大手門をくぐると、中城町である。
通りの街灯には「中城商店街」の看板があった。
立田町にある浄真寺は、浄土宗の寺院で、その創建は不詳であるが、
松平信一が土浦に三万五千石で入封し、土浦藩を立藩した際、自ら開基となり、
真誉一諸上人を招いて中興開山した、とある寺である。
「 松平信一は、藤井松平家の二代目で、 家康からの信頼があつかったといわれる。 浄真寺は松平家の菩提寺として庇護され、境内には七堂伽藍を備えたが、 文政十三年(1816)と文久三年(1861)に火災に遭い、 現在の本堂は安政二年(1855)の再建で、入母屋造、瓦葺、梁間6間、正面向拝付きで、 寺門には三つ葉葵が掲げられている。 」
境内背後の土盛は、土浦城の土塁で、外郭に残されているものとして最大規模である。
土浦城の本丸と二の丸跡が明治三十二年(1899)に亀城公園になり、
北西側には昭和(六十三年(1988)に土浦市立博物館が建てられた。
車の場合は、博物館の駐車場に入れればよい。
JR土浦駅西口から国道125号を北西に行くと、約千二百メートル、
徒歩25分で亀城公園に到着する。
続日本100名城の土浦城のスタンプは市立博物館に置かれているので、
博物館の入口でスタンプを押したた。
内掘に架かる橋を渡ると、左側に石段があり、再建された西櫓が建っている。
階段を降りると、正面にある広場は本丸跡である。
「
本丸はやや東西に長い長方形の形をし、周囲に水をたたえた堀をめぐらせ、
堀に接する内側には土塁をめぐらせ、土塁の上に塀を建てていた。
本丸には本丸御殿、西櫓、東櫓、櫓門(太鼓門)、霞門(搦手門)、鐘楼等が建てられたが、天守は建てられなかった。
本丸跡には、本丸正門の楼門(太鼓門)と霞門(搦手門)が現存し、
茨城県で唯一、江戸時代からの現存建物遺構の存在する城となっている。
本丸御殿は明治に郡役所として使用されたが、火災により消失した。 」
階段の隣の小高くなったところに西櫓がある。
説明板「土浦城 西櫓」
「 由来 本建造物は、十七世紀初頭元和六、七年頃、城主西尾氏の時代に、
本丸土塁上に東西の櫓が建立されたとされ、西櫓はその一方の櫓である。
土浦城は、その後、土屋氏の居城として明治の廃藩置県に至るまで幕藩政治における
土浦の中心、象徴として存在していた。
土浦城内の建造物は、明治以降、本丸館を始め、多くの建物が火災や移築、
取り壊しにより失われ、昭和・戦後に至り、
本丸には、太鼓櫓、霞門、西櫓を残すのみとなった。
そして、この西櫓も老朽化と昭和二十四年のキテイ台風により、小破し、
昭和二十五年に復元を前提として解体された。
その後、復元を見ず、今日に至り、土塁上には礎石のみが残され、
僅かに往時をしのばせるのに過ぎなかったものを、
市民の浄財をもとに復元したものである。
平成四年七月 土浦市教育委員会 」
西櫓の右手には永く土浦城主であった土屋氏を祀る土屋神社がある。
「 土屋神社は武田氏の家臣であった土屋氏の祖先を祀る神社で、
亀城公園が出来たとき、市内からここに移されたとある神社である。
土屋忠直は、武田勝頼に殉じた土屋昌恒の子で、徳川家康に見出され、
秀忠の小姓となり忠の字が与えられ、上総久留里藩主となる。
その次男が数直で、家光の近習に任じられ、寛文二年(1662)に若年寄、
寛文五年には老中となり、常陸土浦藩四万五千石の大名になる。
その子、政直が家督を継ぎ、駿河田中藩主となり、老中就任とともに土浦藩に復帰。
加増を受けて、最終的には九万五千石となる。
五代将軍綱吉から吉宗までの四代の将軍に仕え、老中職を三十年も努めた。 」
空地になった本丸跡を反対側に向って歩くと、 東櫓が再建されて建っている。
説明板「土浦城東櫓
「 東櫓は、平成10年(1998)に江戸時代の建築技術を活かして復元され、
博物館の付属展示館として茨城県指定史跡「土浦城跡及び楼門」を紹介しています。
開館時間 午前9時〜午後4時30分 休館日月曜日、祝日の翌日(
祝日が土日の場合は開館、年末年始(12月28日〜1月4日)
入館料 一般 105円 児童・生徒 50円
東櫓・博物館ともに入館できます。 」
東櫓の左手にある門は江戸時代より残る霞門(搦手門)である。
東櫓の右に続く土塁の上には土塀が復元されている。
その先にあるのは、江戸時代に建立された楼門・二階建ての太鼓櫓門で、
この門が土浦城の正門である。
太鼓櫓門をくぐると、二の丸になり、「土浦城跡および櫓門」の説明板が建っていた。
説明板「土浦城跡および櫓門」
「 土浦城は、一名亀城(きじょう)とも呼ばれ、平城で、
幾重にも巡らした濠を固めとする水城であった。
城は、城跡に指定されている本丸・二の丸を中心に、三の丸・外丸のほか、
武家屋敷や町屋を含み、北門・南門・西門を結ぶ総構えの規模をもつものであった。
江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門・裏門の霞門、
二の丸と外丸の間に移築された旧前川門(高麗門)があり、
復元された建物としては東櫓・西櫓がある。
戦国時代には、城主は若泉氏、信太氏、菅谷氏と変遷し、
織豊期には結城秀康の支配下に入った。
江戸時代の城主は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、
松平(大河内)氏と変わったが、土屋政直が再び入城して、
以後明治維新に至るまで土屋氏(9万5000石)の居城となった。
明治以降、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、自治会館などに利用されたが、
現在は二の丸跡の一部とともに亀城公園となっている。 」
「土浦城跡および櫓門」の説明板の右側には「二の丸跡」の石標があった。
「 二の丸の東南側には米蔵や厩、南西側には仕切門や馬場、 北西側には兵庫門や武具蔵、北東側の亀井郭には長屋や楯蔵、稲荷などがあったが、 明治維新後にこれらの建物は取壊しや払下げにより姿を消した。 」
外丸と二の丸の間には二ノ門があった。
「 外丸は巽郭の一部で、十七世紀後半に造られた。
外丸には外丸御殿が建っていて、
明治維新後は新治郡裁判所として使われたが、明治三十八年(1905)、放火により、
焼失した。 現在は水戸地方裁判所土浦支部となっている。 」
二ノ門があった場所には旧前川口門が建っている。
説明板「土浦城旧前川口門」
「 この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門である。
高麗門は城郭の門として建てられた形式の門の一つで、
この門も武家屋敷であった多計郭(たけくるわ)と町屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている。 江戸時代末期の建築である。
明治十八年(1885)に土浦戸長役場(のち町役場)の門として、
さらに大正九年(1920)には田宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後、
寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口にあたる「二之門」のあったこの位置に、
昭和五十六年(1981)移築されたものである。
平成二十四年(2002)三月 土浦市教育委員会 」
聖徳太子堂があった。
説明板「聖徳太子堂の由来」
「 この御堂は、日本文化と日本仏教の元祖である聖徳太子を祀る。
境内の聖徳太子報恩日は、昭和十一年に土浦の有志により桜川畔に建てられ、
次いて昭和四十年、土手の改修工事の為、移される事になり、(中略)、
この場所に移し、御堂を建て、太子御尊像を奉納した。 (以下略) 」
本丸の北西側の曲輪が三の丸で、乾郭とも呼ばれた。
炎硝蔵が設置された時期もあるが、空間地として利用が主だった。
今は二の丸と三の丸の間の水堀も外丸周囲の水堀も姿を消し、民家などが建っていて、
昔の面影は残っていない。
外丸前の道が外丸通りと命名がされているだけである。
土浦城所在地:茨城県土浦市中央1丁目13
土浦城はJR土浦駅の北西千二百メートルに位置し、
駅西口から国道125号を北西に行くと本丸、二の丸跡を利用した亀城公園に出る。 徒歩25分
土浦城のスタンプは土浦博物館( 9時〜16時30分、月休、年末年始休み)の入口にある
休館(月曜日)の時はまちかど蔵大徳(9時〜18時)にて