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北虎口の石垣の左手に赤松小三郎記念館と招魂社があった。
「真田忍者の活躍」という説明板がある。
「 真田幸隆(幸村の祖父)は武田信玄に仕え、砥石、岩櫃、沼田の城を次々に手に入れました。 跡を継いた昌幸は真田忍者集団を作りました。 この真田流忍法は甲陽流と呼ばれ、真田一族の根津神平が家元になりました。 神平は海野宿の近くで、歩き巫女を養成し、くの一忍びとして活躍させたと言い伝えられています。 昌幸は上田城をつくり、長男信之(幸村の兄)は沼田城主となりました。 上田と沼田を結ぶ道は真田街道と呼ばれ、街道の山々には砦が作られ、忍者達が守っていました。 徳川軍が二度攻めてきました。 第一次上田合戦では徳川の大軍に対して真田忍者はゲリラ作戦で大活躍しました。 第二次上田合戦で関ヶ原の戦いに向う徳川軍を上田に足止めにしたことにより、 真田の名が天下にとどろきました。 真田忍者たちは、徳川に仕えた兄信之(上田城と沼田城の城主)のもとを行き来し、 変装して徳川の動向を探っていました。 大阪の陣が始まると、各地にいた忍者は幸村の下に集まりました。 冬の陣が始まると、幸村は真田丸を築いて活躍し、徳川の武将を驚かせました。 しかし、翌年の夏の陣で、真田忍者は幸村とともに勇ましく戦い討死しました。 真田忍者の活躍ぶりは十勇士の物語を生んだのです。 上田城と沼田城を治めていた信之は、1622年松代に移され、上田の真田家は40年間で幕を閉じました。 真田家に仕えていた忍者たちは松代と沼田に分かれました。 現在でも、真田忍者の子孫の多くが吾妻地方で暮らしています。 伊能采女の子孫は甲陽流忍法を伝えています。 忍者頭横谷左近の十代目は上田に住んでおり、秘伝の巻物を所蔵しています。 」
招魂社を出ると目の前にあるのが本丸を守る水堀である。
上田城の堀は素掘りで掘り上げた土をその内側へ堤状に積み上げて土塁にしている。
本丸の北西の角には隅櫓が建っていた。
右側は野球場で、正面に小泉橋がある。 その左手は花木園になっているが、
江戸時代には二の丸掘だったところである。
花木園の先は絶壁になっていて、そこには西隅櫓が建っている。
説明板「二の丸隅櫓台と煙硝蔵」
「 二の丸にあった3箇所の虎口には櫓台が東西に各1箇所、土塁上には6箇所に設けられていました。
現在、遺構が保存されているのは東虎口の1箇所と、土塁上の2箇所のみです。
櫓台の存在から、上田城復興に着手した仙石忠政は二の丸の各虎口にも櫓門と櫓を構築する予定だったことが分かりますが、
寛永5年(1628) 忠政が病死したため未完成に終わりました。
また、仙石氏在城以降の絵図には、二の丸南面部に煙硝蔵が1棟描かれています。
煙硝蔵は仙石氏が上田城主だった貞亨3年(1686)に新設され、本丸内の櫓に保管されていた煙硝(火薬)を移しました。 」
西隅櫓は尼ヶ淵の河岸段丘上に築かれた本丸隅櫓で、屋根は入母屋造で、本瓦葺き、
外壁は板張り(下見板)とし、その上から軒の部分までを塗篭としている。
これは寒冷地の城に多く見られ、初期城郭建築の様式ともいわれる。
また、格子窓に突き上げ板戸が付いた武者窓や矢や鉄砲を放つための小窓「矢狭間」「鉄砲狭間」も設けられた、
二層二階、桁行五間、梁間四間の妻入りの櫓である。
西隅櫓の脇には急な石段があり、下りて行くと芝生広場と上田城跡駐車場があるが、
ここは尼ヶ淵の跡地である。
当時、城の南には千曲川が流れ、緩やかで深みのある流れが天然の堀となっていた。
この場所を尼ヶ淵と称したことから、上田城を尼ヶ淵城と呼ばれていたという説もある。
西隅櫓の虎口であった石垣をくぐると、本丸である。
本丸の南部分にあるのは真田神社である。
「 明治維新による廃藩置県で上田藩が廃止され、 国に接収された上田城は民間に払い下げられ、城跡は桑園や麦畑などに姿を変えていった。 そのような状況の中、旧上田藩士や旧領内有志により、旧藩主松平氏への報恩のため、 初代忠晴、二代忠昭、三代忠周 (上田入封初代)を祀る神社を上田城跡に建立しようとの声が起こり、 上田城本丸跡を所有していた丸山平八郎氏の篤志により、その南半分の地が神社用地として寄附され、 明治十二年(1879)、松平神社が建立された。 その後、本丸の残りの地も丸山平八郎氏 から松平神社付属の公園用地として寄附された。 昭和二十八年(1953)、上田の発展に寄与した真田氏と仙石氏、松平氏の歴代全城主を合祀し、 松平神社から上田神社に改称されたが、市内には同名の神社があったため、紛らわしいこともあり、 昭和三十八年、初代城主の真田氏の名を冠した眞田神社に再び改称した。 」
真田神社には真田氏の家紋の六文銭の表示があり、松平の葵もあるが、
真田氏ということでお参りする人が多いのではないか?と思った。
境内には真田信繁(幸村)が身に着けたといわれる巨大な鹿角脇立朱塗の大兜がある。
眞田井戸は、上田城内で唯一の大井戸で、本丸唯一の井戸で、直径二メートル、
深さは十六・五メートルに達する。
この井戸には抜け穴があり、城北の太郎山の砦や藩主居館に通じていたとの伝説がある。
真田神社には六文銭の幟が立っている。
「 真田家の家紋として名高い六連銭は六文銭とも呼ばれるが、仏教説話の六連銭に由来する。 銭六文を死者の棺に入れ、六地蔵に供える風習にのっとり、 不措身命を唱える武士にとってふさわしい旗印だった。 東信濃の古代以来の豪族、滋野(海野)氏の代表家紋であり、 その流れをくむとした真田氏もこれを用いた。 」
その北側は前回訪れた時は整備されていなかったが、今回訪れると盛土で小高くなっていて、
上ると「史跡 上田城跡本丸跡」の石柱が建っていた。
更に紅葉になっている木の下をすすむと広々とした広場が広がり、
南西部には上田城の歴史が書かれた大きな石碑があった。
本丸には天守は建てられず、七基の二層隅櫓と二十基の櫓門が建てられたことが絵図と発掘調査により、
確認されているが、現在は櫓三基と楼門一基が残るだけである。
下に降りて西に進むと見えてくるのが北櫓である。
北櫓の右側にあるのは東虎口櫓門、その隣は南櫓である。
「 正面の東虎口櫓門と袖塀は平成六年に復元されたものである。
左右の隅櫓(北櫓、南櫓)は明治十一年に移築され、遊郭で使用されていたが、市民の寄付金により買い戻し、
昭和十八年〜昭和二十四年にかけて、もとの場所に移築し、復元したものである。
北隅櫓と南隅櫓の構造は、西隅櫓と同じで、二層二階、桁行五間、梁間四間の妻入り形式である。
屋根は入母屋造で、本瓦葺き、外廻りは白漆喰塗壁大壁で、腰下見板張り、内部は白漆喰塗の真壁である。
窓は突き上げ板戸が付いている白漆喰塗の格子窓である。 」
櫓門の中で、真田氏、仙石氏、松平氏の展示が行われている。
東虎口櫓門を出て振り返ると、右側の石垣に大きな石があり、「真田石」の説明板がある。
「 大手門の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。
真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持って行こうとしたが、
微動だにしなかったという伝承がある。
現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、真田氏に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。 」
二の丸の土橋の上にいたのは「おもてなし部将隊」の二人である。
撮影の合言葉は 「 さなだっ、じゅうゆうしっ!! 」 のようである。
正面は空地で、道は左折、左側には紅葉に彩られた水堀があり、
本丸を東、北、西の三方を取囲んでいる。
水堀と別れ、右折すると左奥に上田市博物館と別館がある。
ここは二の丸跡で、日本100名城のスタンプが置かれている。
直進するとその先には二の丸橋という土橋がある。
土橋の手前には、上田城の二の丸大手門があり、両側に武者立石段と呼ばれる石積が設けられ、
本丸大手口としての格式を示している。
石橋の上には頭文字のようにみえる標柱が建っているが、ここに書かれているのは「二のマルハシ(二の丸橋))である。
下に降りると遊歩道になっている。
ここは上田城の二の丸の堀だったところで、昭和二年から昭和四十七年までけやき並木歩道にに軽便鉄道が通っていた。
二の丸橋の下には公園前駅(旧公会堂下駅)があった。
二の丸橋を出ると、信号交叉点の対面に上田市観光会館があるが、そこでも日本100名城のスタンプが押せる。
大手町にある商工会議所前の枡形のところに江戸時代には上田城の大手門があった。
この前に巾三十二米、南北の長さ二百米余の堀があり、その内側が三の丸だった。
三の丸を大手門より二の丸に向って一直線に伸びる通りは、大手通りで、新参町と呼ばれていた。
江戸時代に入ると上田は城下町であると同時に北国街道の宿場町にもなった。
鍛治町、紺屋町、鷹匠町など、城下町の名残を伝える町名が連なる上田城下は宿場町としても繁栄し、
江戸時代の後半からブームとなった善光寺参りにより、街道は善光寺街道とも呼ばれるようになり、
参拝者ではあふれる宿場になった。
今も紺屋町、柳町などにその面影をしのぶことができる。
海野町には「北国街道上田宿 本陣問屋跡」の石柱が建っていて、
説明板には 「 上田宿の本陣は柳沢家が務め、問屋も兼ねていて、屋敷も広大なものだった。
客殿の東側に高札場も掲げられていた。 」 とある。
城下町は、町人町と侍町との境に木戸や番所が設けられていた。
海野町から南の侍町に入る道は、右手の海野町口のみで、
江戸時代の絵図では道の両側から互い違いに土塀が突き出して見通しを悪くし、
次に木戸を建て、その奥に番所が置かれ、通行人を監視していた。
江戸時代、海野町市神角には「諸国煙草問屋名葉刻品々卸小売上野屋嘉左衛門」の店があった。
現在、小さな小さな社の「高市神社」があり、境内で野菜を商う出店があった。
「 真田昌幸が、天正十一年(1583)、上田築城の折り、
城下町の元町として海野宿から商人を移住させて作ったのが海野町である。
また、商いの守護神として請招されたのが高市神社である。
海野町は、原町とともに市場に指定され、市場を開く日は1と6のつく日、
後に原町と市日の間隔が均等になるよう、3と8、さらに3と5のつく日に変更された。 」
市商いの繁栄を祈って、その跡に市神が祀られている。
市の祭である祇園祭はお船の天王、山車、練りなどが出て盛大に行われる。
お船の天王は今も横町伊勢宮の船倉に納められている。
横町は海野町が発展するにつれて旅籠屋、商家、職人などが増加し、
海野町から南に折れ街道脇にできた横の町で、そのため横町と呼ばれた。
この町は北側まで延びて鍛冶町に続いた。
横町と鍛冶町は寺が多く、城下町防備のため、並べられたともいわれる。
以上で、上田城と城下町の見学は終えた。
(御参考) 「上田合戦」
◎第一次上田合戦
「 徳川軍七千余を撃破し、威名を天下に轟かせた合戦である。
戦国時代の終わり頃、徳川家康は対立していた北条氏直を和睦し、和睦の条件として、
上州沼田を氏直に引き渡すよう真田昌幸に指示した。
しかし、昌幸は「沼田は自分の力で得た領地、北条に渡す謂れはない。」と拒絶した。
怒った家康は上田城への攻撃を決意、徳川の先陣約七千人が佐久から八重原に集結し、陣を張った。
一方、昌幸は城下に千鳥掛(城外に向けて八の字に開いた柵)の柵をかけ、
五百人の兵とともに籠城した。
天正十三年(1585)閏八月二日、徳川軍は八重原を出て、依田川の長瀬河原から猫ノ瀬(子この瀬)を渡って、
信濃国分寺方面へ向う。 これに対し、昌幸は息子の信之と幸村に兵を与え、
国分寺の北の神川近くに陣を構えさせた。
真田勢(信之と幸村の軍)は神川を渡ってきた徳川軍を信濃国分寺近くで迎え撃ち、小競り合いをしながら、
誘うように退却。 徳川軍は誘いに乗って信之・幸村軍を追撃。
追撃させた信之・幸村軍は上田城三の丸の横曲輪に逃げ込んだ。
徳川軍は大手門を突破して二の丸へ攻撃を仕掛けた。 その時、昌幸は五百の兵で二の丸から打って出た。
これと併せ、信之・幸村も横曲輪より側面攻撃を開始すると同時に町家に火を掛けた。
不意を突かれた徳川軍は慌てふためき退却を開始したが、退路を千鳥掛の柵にさえぎられ、多くの兵を失なった。
さらに、退却する徳川軍は昌幸の追撃と信之・幸村による側面攻撃を受け、神川まで追い詰められ、
水かさが増していた神川を渡ろうとした徳川軍は更に兵を失った。
その後、神川周辺で両者は一進一退を繰り返し、夕暮れを迎えて、真田軍は兵を引き上げた。
翌三日、八重原に退却した徳川軍は上田城を直接攻撃するのは難しいと判断し、
真田方の支城・丸子城の攻略に変え、陣場山・柴宮砦に移動。
それを見た真田勢も、市の砦と尾野山城に移動。 丸子河原で激しく戦ったが、
城を落すことが出来ずに、にらみ合いが続くこととなった。
九月十三日、家康の命を受けた井伊直政ら五千人の軍勢が着陣したが、
徳川家康の重臣・石川数正が豊臣方に寝返ったため、十一月十一日、徳川軍は丸子の河原付近を焼き払い、
小諸城に真田の抑えとして大久保忠教を残して引き揚げた。 こうして、三ヶ月に渡る第一次上田合戦は終わった。 」
◎第二次上田合戦
真田城は、秀忠の徳川軍主力三万余を翻弄した戦いで、その結果、秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
「 豊臣秀吉が亡くなって二年目の慶長五年(1600)の春、 徳川家康は会津の上杉景勝が謀反を企てているとして会津征伐に向った。 真田昌幸と信幸・幸村の父子も徳川勢に加わり関東に向った。 その途中、石田三成が京都で挙兵し、昌幸にも誘いの書状が届いた。 これを受けた、父・昌幸と弟・幸村は石田方に、兄・信幸は徳川方につくことになった。 世に言う犬伏の別れである。 昌幸と幸村は沼田城下を通り、上田城に戻った。 沼田城では信幸の子(昌幸の孫)に会いたいと申し出て、入城を断られている。 八月二十四日、徳川軍の本隊を率いた徳川秀忠は、下野国の宇都宮を出発し、 上田城を攻め落としてから、西軍を討伐する家康と合流する予定であった。 総勢約三万八千人が中山道を上野国から信濃国に入った。 江戸に戻った家康は、九月一日に西に向った。 九月二日、秀忠は小諸城に到着し、昌幸に上田城を明け渡すよう、 本多忠政と真田信幸らを使者に送った。 会見は信濃国分寺にて行われたが、昌幸は返事を数日延ばし、 城の普請など戦いの準備を進めた後、西軍の三成に加勢することを告げた。 九月四日、激怒した秀忠は小諸を出発し、信濃国分寺の北西、染屋台に陣を進めた。 兄・信幸と戦うことを避けた真田幸村は砥石城を捨てて、上田城に入った。 九月六日、徳川秀忠は上田城への攻撃を開始した。 迎え撃つ真田の軍勢は約三千人である。 昌幸と幸村は城外に出て徳川軍を挑発し、小競り合いを繰り返しながら、上田城へ退却を装った。 追撃してくる徳川軍に上田城から真田軍が出撃し、戦っては退き、退いては出撃し戦った。 虚空蔵山の伊勢崎城に籠っていた伏兵が徳川軍の背後を付き牽制する。 徳川軍は上田城の攻撃をあきらめ、小諸城に撤退し、九月八日、上田城の押さえとして、 仙石秀久・真田信幸らを残して、中山道の木曽路へと軍を進めることにした。 秀忠が、九月十五日の関ヶ原の戦いで東軍が勝利したことを知ったのは、 木曽路を通過している時だった。 秀忠が率いる徳川軍の本隊三万八千人は決戦に間に合わなかった。 」
上田城へはJR長野新幹線上田駅から徒歩約10分
上田城のスタンプは上田城のスタンプは上田市観光会館と上田市博物館にて