|
平成十五年(2003)五月十二日に松代を訪れた時あったのは、城外御殿新御殿(真田邸)のみで、
松代城跡には「史跡松代城跡附新御殿跡」の碑があるだけだった。
今回訪れたら、その南は駐車場、東には市営殿町観光駐車場になっていて、十六年前とかなり景観が変っていた。
再現された土塁の前には「二の丸南門」の表示があり、右側の入口には一部石垣が組まれ、
その付近には松代城の歴史の案内板や100名城のスタンプ設置所の案内図などがあった。
北に進むと、広場になっているのは二の丸跡で、目の前にあるの水堀は本丸を囲む水堀で、
太鼓門前橋の先には橋詰門(高麗門)が建っている。 左右の続塀には鉄砲狭間や矢狭間がずらりと並ぶ。
ここは本丸の大手を固めていた門で、
門の中は次の太鼓門まで右に曲がる枡形虎口(石垣が囲った狭い空間)になっていて、
逃げ場を失った敵兵が一斉射撃を受ける場所になる。 その先にあるのが楼門の太鼓門で、
本丸を守る三つの城門の中で、高さ約十二メートルの太鼓門は一番大きかったという。
二階に時を知らせる太鼓が置かれていたこのからその名が付いた。
太鼓門の先は本丸跡だが、かなり広い空地になっている。 周囲は石垣で囲まれているが、
大小さまざまな石を積み上げている。
本丸の戌亥隅(北西部)に城内に現存する石垣の中で最も高い櫓台の石垣が残っていた。
この櫓は二層櫓だったようだが、城内では一番古い石垣ということで、
さまざまな形の石材が穏やかな角度で積み上げられている。
石段で上れるようになっていたが、当日は工事中で侵入不可であった。
本丸北側の東北部にあるのは北不明門で、隣に「海津城址の碑」があり、説明板がある。
説明板「北不明門」
「 本丸の裏口(搦手)に位置する門で、太鼓門と同様に櫓門と表門(高麗門)の二棟による構成である。
十八世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから、水之手門とよばれたことがある。
絵図史料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元しました。
楼門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。 」
前述の水堀、太鼓門前橋、橋詰門(高麗門)と太鼓門(楼門)、
そして、北不明門は前回訪れた翌年、平成十六年(2004)に復元が完了し、公開されたものである。
下は本丸中心とした地図だが、表題は「よみがえる松代城」で、
古文書の内容と実際の発掘結果を突き合わせて復元したとある。
この地図によると、本丸は本丸御殿が全体の半分を占めていたようだが、
1717年の火災で焼失し、その後、水害がたびたび起きて、御殿は本丸南西の花の丸に移転したという。
また、北不明門は枡形虎口で、本丸の東北部には隅櫓があったように思えた。
その東には細い水堀が続き、左右に復元された土塁が続いている。
北側の土塁の先には百間堀や新堀の水堀があり、西側の便所・管理棟裏の土塁には埋門が再現されている。
このように二の丸を巡っていた長大な土塁が部分的に再現されている。
南を見ると、本丸の東側に水堀があり、そこの橋が架かっているが、その東側が二の丸だった。
今は空地になり、その東には再現された土塁が巡っていた。
二の丸と本丸の間の堀に架かっていたのが東不明門前橋である。
東不明門は復元されていなかった。
これで松代城の見学は終え、二の丸南門から南に向って進むと、旧文武学校があった。
「 文武学校は安政二年(1855)に開校した松代藩の藩校である。 廃藩置県により明治四年(1871)に廃校になったが、その後も松代尋常小学校、松代小学校として、 長きにわたり地域の学問、教育の中心として使用されてきた。 昭和二十八年(1953)に国の史跡に指定された。 」
このあたりは「中の辻」と呼ばれたようで、道標には真田家の家紋が刻まれていた。
真田邸・真田宝物館の方面に向うと、公園があり、童謡の石碑が多く立ち並んでいる。
その中に「恩田木工民親」の銅像が建っていて、 「 恩田木工民親は享保から宝暦時代の
松代藩の家老で、藩の財政再建を行った経世家として名高い。
松代藩は度重なる水害により、藩の財政は窮乏し、足軽の出勤拒否や農民一揆が起こるなど、藩政は混乱していた。
六代藩主、真田幸弘は、宝暦七年(1757)、木工に勝手方御用兼帯を命じ、藩再建の大役をゆだねた。
木工は倹約を第一に、地租改定、荒地の開墾、財政帳簿の管理制度を確立した。 」
その先には真田宝物館がある。 前回訪れた時は同館と池上正太郎の真田太平記館を訪れた。
真田邸は、文久二年(1862)、参勤交代制度の緩和にともい、妻子の帰国が許されたことから、松代城の外に造られた居館で、
花の丸から御殿を移したといわれ、明治以降は真田家の私邸として利用された。
敷地には、蔵、長屋、門、番所、庭園などが残っているが、真田家の質素な暮らしが感じとれる家である。
日本100名城のスタンプはここの受付でいただいた。
松代城へはJR長野新幹線長野駅から川中島バスで「松代行き」で約30分、松代駅下車、徒歩約5分
長野電鉄屋代線松代駅から徒歩約5分
日本100名城の松代城のスタンプは真田邸の受付にある
川中島古戦場
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦は、天文二十二年から永禄四年の十三年にわたる戦いである。
その中でも永禄四年九月に行われた八幡原の合戦は死傷者七千人を数える史上最大の激戦だった。
平成十九年(2007)十一月六日、晩秋の八幡原にある「川中島古戦場八幡神社」を訪れた。
案内には 「 この神社は八幡社といい、これより先は武田信玄が陣構え、御加護を仰いた八幡大神を奉斎する神社の神域で、
正面手前が旧社殿(鞘堂)奥が現在の神殿である。 また、昔よりこの辺り一帯をこの神に因んで八幡原と称している」
とあった。
このあたりは八幡原史跡公園となっていて、訪れた時はNHKの大河ドラマ「風林火山」の放送されていた時で、
NHKのドラマ館が開設されていて、訪れるひとが多かった。
案内板の「永禄四年川中島大合戦図」にはその時の布陣が記されている。
「 永禄四年(1561)八月二十四日、武田本陣は原の北西にある茶臼山に布陣、
八月二十九日に南西四キロの海津城に入城。 上杉本陣は南西の妻女山に布陣した。
この時期、朝霧が出ることが多く、山本勘助はこれを利用して別働隊と挟み打ちする案を提案し、
九月十日実行されることが決まり、
武田信玄は前日夜、武田軍二万の半分以上の一万二千人の兵を山間を通り、妻女山の背後に出るべく、出発させた。
一方、上杉謙信は武田軍の夕食の釜炊きの火が多いことから、戦闘が行われるのを察し、夜明け前まで千曲川を渡って、
本陣を妻女山から八幡原の東側に移動してしまった。
別働隊が到着するところを見計らい、攻撃する予定であった武田軍の本陣八千人は、霧が晴れると同時に攻め込んできた上杉軍にびっくり。
大混乱に陥り、遅れた別動隊の到着で、壊滅は防げたが、武田信繁や山本勘助などの重臣を失った。
この戦いで有名なのが、信玄と謙信の一騎打ちである。
謙信は只一騎愛刀「小豆長光」を振りかざし、武田の本陣に切り込み、
不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという「三太刀、七太刀」もこの処である。 」
ここ八幡原に現存する土盛り跡は、武田本陣枡形陣地である。
頼山陽の「鞭声粛粛夜渡河」で有名な雨宮渡は東側を流れる千曲川の上流約六キロの地点である。
川中島古戦場(八幡原史跡公園)へはJR長野新幹線長野駅からバスで約20分