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高島城碑 | 庭園(本丸跡) | 復興天守 |
天守の南、本丸西側にある門は川渡門で、「三之丸御殿裏門(御川渡門跡)」の説明板が立っている。
「 ここは、かって御川渡御門(御川戸門)があった場所である。 城が湖に面していたころは、ここで湖の船にのることができた。 この門は、三之丸御殿(現在の高島一丁目八番地付近)の裏門を移築したものである。 三之丸御殿は藩主の別邸で、吉凶その他の儀式に使われた。 また、藩主がくつろぐところでもあった。 門は昭和六十三年に所有者から市に寄贈され、この地に移築された。 」
本丸跡は庭園になっていて、紅葉が美しいが、この反対側に「多聞跡」の標柱があり、塀が続いている。
当時の絵図を見ると、本丸書院の東には能舞台があり、その先に東照宮が祀られていたことがわかる。
また、冠木門の左側に角櫓と多聞櫓が続いていた。
冠木橋から外に出て、水堀越しに隅櫓と左右に多聞櫓があるが、これらは多聞門などと共に昭和四十五年(1970)に再建したものである。
本丸石垣などは、築城当時は自然石を加工せずに積み上げた野面積であったが、
天明六年の大規模補修によって大部分は改修されてしまったが、一部だけ今も残っている。
三之丸御殿裏門(御川渡門跡) | 多聞跡 | 水堀側から見た角櫓と多聞櫓 |
下図は高島城城郭図である。
「 築城当時の高島城は本丸@、二の丸M、三の丸Q、衣之渡郭(24番)と、 南北にほぼ一直線上に配置した連郭式の城郭で、三の丸と衣之渡郭の間に衣之渡川(23番)、 二の丸と三の丸の間に三之丸川(P中門川)、 本丸や二の丸などは川を堀とし、西側は諏訪湖、東側は阿原(沼沢地)に囲まれ、 大手門(26番)から27番の縄手(欅並木)だけが城下に通じていた。 」
縄手(欅並木)は現在の並木通りで、神州一味噌のあたりが三の丸跡に思えた。
諏訪湖の水が城の際まで迫り、湖上に浮いて見えることから、諏訪の浮城とも呼ばれ、
また、「 諏訪の殿様よい城持ちゃる うしろ松山 前は海 」 とも歌われた。
二の丸には、家老の二之丸屋敷N、職人が詰めて働く御作事屋、貯米蔵、貯銭蔵、馬場Oなどがあった。
六代忠厚の時に起こった「二之丸一件」で、家老の二之丸屋敷は取り壊され、藩校「長善館」が建てられた。
三之丸には、三之丸御殿、家老の三之丸屋敷(21番)、藩の会計を預かる御勘定所などがあった。
また、八代忠恕の天保3年、凶年の窮民救済のための防米倉庫「常盈倉R」が建てられた。
「冠木門跡」の説明板があった。 本丸に入る門は冠木門で、冠木橋と共に復元されたものである。
「 冠木橋を渡ったところに冠木門があった。 冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことをいうが、 高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼ばれる屋根付きの門であったことがわかる。 おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名勝のみ残されたもの だろう。 」
冠木門の石垣前にある「高島城本丸の堀と石垣」の説明板があり、築城時の困難さを感じることができた。
「 天守閣の石垣と本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、西側と南側の石積みは簡単なものであった。
衣之渡郭、三の丸、二の丸などの石垣も比較的小規模である。
石垣は野面積みで、稜線のところだけ加工した石を用いている。
地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。 」
本丸を囲む内壕Mは紅葉が美しかった。
冠木門 | 冠木門の石垣 | 紅葉の内濠 |
(ご参考) 高島城の歴史
「 高島城の前身は諏訪市上諏訪にある茶臼山にあった茶臼山城である。
茶臼山城は室町時代後期の文明年間(1467〜1487)に築かれたといわれ、
天文年間(1532〜1555)には諏訪満高がこの城を居城とし、高島城と呼ばれていた。
諏訪を攻略した武田信玄は諏訪統治の中心を上原城から茶臼山城に移し、
元亀年間(1570〜1573)頃には諏訪郡代の居城に相応しい城として大改修を行った。
なお、諏訪氏は古くから諏訪神社上社の大祝(おおほうり)を司った家柄で、武芸の神と崇められた存在だった。
武田氏が滅びると織田氏の領地になり、甲斐を与えられた河尻秀隆の家臣、弓削重蔵が入城するが、
天正十年(1582)の本能寺の変後の混乱に乗じ、旧領主の諏訪頼忠が攻略に成功、
旧領を回復して、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点とした。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉による、北条氏滅亡に伴う、徳川家康の関東転封で、
諏訪頼忠は、武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が茶臼山にあった高島城に入城する。
日根野高吉は、文禄元年(1592)から慶長三年(1598)にかけて、
諏訪湖の湖畔に湖水を利用した高島城を築き、茶臼山城を廃した。
築城にあたり、住民には漁業権や賦役免除権などの特権を与え、小和田へ移転させたといわれる。
茶臼山城跡は、住宅団地と用水池に変わり、城跡を示すものは残っていない。
日根野高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で、普請を経験していたことから、
諏訪湖畔に総石垣造で、八棟の櫓、六つの門、三重の天守などが建て並べられた連郭式平城を築城した。
諏訪湖畔という軟弱な地盤だったため、木材を筏状に組み、その上に石を積むなど、
当時の最先端技術が用いられたが、それでも石垣が傷みやすく、度々補修工事を加える必要があったといわれる。
また、七年間の短期間で築城したため、かなり無理をしたらしく、
地元では「過酷な労役に苦しんだ」、「石材を確保するため、金子城の石材は全て持ち出した他、
墓石、石仏も用いられた」などの伝承が残る。
高吉は上原城(茅野市)周辺にいた商工業者を移住させ、城下町を造った。
関ヶ原役後の慶長六年(1601) 、日根野氏は下野壬生藩に転封となり、
譜代大名の諏訪頼水が二万七千石で入封し、その後は諏訪氏の居城になり、
そのまま転封することもなく維新まで続いた。
なお、寛永三年(1626)には、二の丸の南東に南の丸が増設された。
徳川家康六男の松平忠輝を預かる監禁場所として建てられた曲輪で、
南の丸はその後も幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となった。
これらのことから、諏訪氏は幕府の信任が厚かったことがわかる。
また、天明六年(1876)には石垣などが補修されている。
明治四年(1871)の廃藩置県により高島県となり、高島城は県庁舎として利用されたが、
明治八年(1875)、天守以下の建造物は破壊または他に移築され、一部の石垣と堀のみが残り、
翌明治九年、高島公園として一般に開放され、明治三十三年(1900)、諏訪護國神社が建立された。
二の丸と三の丸は開発の手が入り、住宅地などに変わったが、本丸は高島公園として整備され、
本丸の石垣および北側と東側の堀のみが残ているだけだが、
城内といわれる大手門以南の地形はおおよそ昔のままの姿を残している。
建造物としては三の丸にあった城門が本丸に、
どこの門か定かではないが、温泉寺および浄光寺の山門として、それぞれ移築現存する。
また、能舞台が温泉寺本堂の一部として移築されている。 」
高島城へはJR中央本線上諏訪駅諏訪湖口から徒歩約10分
高島城のスタンプは天守閣受付にあるため、入城しないと押すことができない
(9時〜17時(10/1〜3/31は16時30分まで) 12/26〜12/31及び11月第2木曜日は休み )