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龍岡城があったのは、JR八ヶ岳高原線龍岡城駅の南東千三百メートル程の龍岡五稜郭と呼ばれるところで、 敷地の大半は今は佐久市立田口小学校の敷地になっている。
「 龍岡城は北海道函館市の五稜郭と同様、五芒星形の西洋式城郭で、
総面積は五稜郭の半分の約二万坪である。
大給松平氏は、代々「陣屋格」の大名であるため、城を持つ資格がなかった。
天守やその他の防衛施設などを設けることは許されないため、
五稜郭内に造られたのは、下記の図と通り、中央に一般政務用の政庁と藩主の住居を兼ねた御殿の他、
義務付けられている藩士の長屋、番屋、太鼓楼、火薬庫の他、
歴代藩主三名を祀った三社様(祠堂)と稲荷社などがあり、正門、通用門はそれぞれ東北、東南の凹面に、
また、非常門は西北と南南東の凹面に設けられていた。
廃藩後の明治五年(1872)に、建物は解体され、競売された。 堀も埋められたが、
昭和の初期に住民により復元された。
昭和九年(1934) に「龍岡城跡」は国の史跡に指定された。 」
大手門跡の手前の大手橋から右を見ると、水堀と石垣(土塁)が星状に曲がっているのが分かる。
堀の幅は大手橋付近がもっとも広く、九・一メートルあり、他は平均七・三メートルだが、
堀として完成したのは、北・北東・東南の三稜堡のみで、
その他の南西、西側の二稜堡を囲む約二百メートルは未完成のままだった。
五稜郭の建設で、一番の難工事が石垣であった。
「 築城にあたり、伊奈高遠藩より棟梁二人、石工六十人を招き、三年かけて建設している。
五稜郭周辺の山で産出する溶結凝灰岩(佐久石)を使用した。
石垣は、まず、根石の下を厚さ一メートル位の粘土で叩き固めて基礎とし、
砲撃や地震などで狂わないよう緩衝作用をもたせ、かつ、地下水による基礎の土砂浸食での陥没を防ぎ、
石積みの裏込めに、栗石と十分粘土を使用した「はがね巻き工法」が採られている。
石は接着面を成形し、密着させて積む「切込みはぎ」で隙間をなくし、
特に砲座下の石の配列を六角形にした「亀甲積み」はきわめて美しく、
大手橋付近の横目地が通る「布積み」とともに、優れた造形美を見せている。 」
掘の外側石垣は、東南から南へ回るに従い粗末になり、接合部を欠いた「打込みはぎ」から「野面積み」へと変っている。
廃藩後に水堀は埋められ、現在は一部だけが復元されているが、土塁の上から道路を見ると、当時の地形が残っているのが分かる。
「 石垣の高さは、堀底から三・六四メートル、その勾配は頂上と底で二十九センチと直角に近く、 頂上には、板石をもってわずかに堀方向に突出され、石垣をよじ登る敵の侵入を防ぐ武者返しが設けられていた。 石垣上の土塁は幅七・二七メートル、高さは二・七メートルあり、頂上の武者走りは二・二メートル幅で、 土手は芝土手であった。 」
大手門に入ると招魂社がある。
かって三社様が祭られていたところだが、田口招魂社は北越戊辰戦争から太平洋戦争までの地元戦没者の霊を祀っているところで、
三社様はないようである。
堀の未完成の他、内部建物の瓦は全部用意しながら、一割にも満たない使用で、ほとんどの建物は板葺きのままだった。
「 老中格、陸軍総裁に就任した乗謨には、もはや築城に関わる暇はなく、また、つぎ込む金に余裕がなかったからだろう。
稜堡式の形状を取り入れているが、本来ならばすべての稜堡に置かれるべき砲台は西南角に一基しかなく、
また、四〜五間(約7〜9m)の水堀の幅は在来の城と比べても狭い上、
裏山からは城郭が一望できるなど、要塞としては問題を抱える構造だった。
明治五年(1872)に、建物は解体され、競売されたが、大広間が佐久市鳴瀬落合の時宗寺の本堂として、
東通用口の門が佐久市野沢の成田山薬師寺の門として移築され、現存されているという。 」
唯一残った建物は御台所櫓で、最初は農機具倉庫として使用された。
「 明治八年(1875)、御台所櫓には田野口村の尚友学校が移転し、小学校校舎として活用され、
昭和四年(1929)に、築城当時とは反対側にあたる現在地(練兵場跡?)に移築された。
現在は佐久市立田口小学校敷地内のため、自由に見学はできないが、休日開放日が設定され
ている。 」
当日、社会見学で訪れた団体のため、御台所櫓の内部が見られるとのことで、中に入ることができた。
城の模型も置かれていたが、どの程度の正確なものかは分からなかった。
見学後、軽井沢に出て、プリンスプラザで昼食と娘にバックを買ってあげ、高速道路で、船橋に帰宅した。
龍岡城へはJR八ヶ岳高原線龍岡城駅から南東千三百メートル、徒歩約15分
龍岡城のスタンプは佐久市歴史の里五稜郭であいの館(9.30〜16時、火休)にて