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所在地:長野県上田市真田町本原
真田城(真田氏本城)へは上信越自動車道・上田菅平ICから車で15分
JR北陸新幹線上田駅から上田バス「真田行き」または「西菅平行き」に乗り、
25分「長小学校」バス停下車、徒歩20分
海野宿(うんのしゅく)
長野県東御市(合併前は東部町)に国より重要伝統的建造物群に指定された海野宿がある。
宿場の江戸側の入口に「海野氏発祥の地」の石碑が建っている。
「 海野は海野氏が支配した土地で、一族である真田氏にもゆかりのある地である。
海野は奈良時代には存在していて、東信濃の軍事交通の要衝を抑えるこの地に根をおろした海野氏は、
平安時代に京都から国司、牧官等として下った中央の名門である滋野氏を祖と称するほどの実力者となり、
弥津氏、望月氏とともに海野御三家と称されるようになった。
海野氏とその一族は、海野郷を根拠とした豪族で、新張、望月等の牧の管理者となり、
その勢力は東筑摩から安曇方面、北上州まで広がっていた。
平安末期に起きた保元の乱では源義朝の下で活躍した。 」
このあたりは海野宿の入口で、江戸時代には枡形になっていたようである。
その隣にある白鳥神社は 「 日本武尊が東征の際この地に滞在されたことから白鳥神社と称し、
古代から中世の豪族、海野氏の祖といわれる貞元親王、善淵王、海野広道を祭神としている神社である。 」 との
案内がある。
「 記録によると、白鳥神社は寛正二年(1461)に海野氏の氏神として、海野氏幸により、再建されたとされる。
本殿は寛政三年(1791)の再建で、拝殿は明治十四年の建立である。 」
本殿の裏にある新海神社は海野氏居館跡から移されたものとされる。
白鳥神社のご神木とされるケヤキは樹齢七百年とあるので、海野氏幸により再建された当時のものと思われ、
目通り周囲7.3mの巨木である。
ここから少し南の千曲川河岸・海野白鳥河原で、治承五年(1181)、
木曽義仲が挙兵したという「木曽義仲挙兵の地」という説明板があった。
「 治承五年(1181)、木曽義仲二十七才の六月、高倉王以仁王の令旨により平家追討のため、 大豪族である海野氏の根拠地である海野郷白鳥河原で挙兵した。 地元滋野一族を始め、義仲四将の樋口次郎兼光、今井四郎兼平、根井小弥太、楯真親忠の武将を中心に信濃、西上州の約三千騎が集結した。 義仲は、平家の越後国から攻めてきた城氏の大軍六万余騎を横田河原(篠の井)で撃破し、 越中と加賀の国境倶利伽羅峠で平家軍の大軍を破り、寿永二年(1183)七月京都入りした。 翌年の寿永三年(1184)一月、征夷大将軍に任じされたが、その十数日後、宇治瀬田の戦いに敗れ、粟津で戦死した。 この間、海野氏九代の将であり、海野を治めていた海野弥平四郎幸弘と長男は、寿永二年十月の備中水島の海戦で戦死した。 」
義仲の右筆として活躍していた次男の海野幸長(法名覚明)は、義仲の没後、僧籍に入り、
法然や親鸞の弟子となり、親鸞の行状記を著し、その子の浄賀に授けた。
その後、幸長(法名覚明)は海野に戻り、一庵を建て、親鸞は報恩院白鳥山康楽寺と命名し、開基した。
海野幸弘の三男、幸氏は、頼朝への人質として義仲が差し出した義仲の嫡子、清水冠者義高に海野、望月の兵とともに付き添い、鎌倉に出頭した。
源頼朝は、海野幸氏の才能にほれ込み、鎌倉幕府が誕生すると、海野幸氏は鎌倉幕府の御家人となり、弓馬の名手として天下に名を轟かせた。
また、海野郷の領地が与えられ、建長元年(1189)に居城を古城から段丘の地の太平寺に移した。
場所は国道18号の北側、白鳥台団地あたりということである。 また、南側の海野の集落は城下町になった。
「 海野氏は、その後も北条氏に仕えていたが、戦国時代に入ると、信濃国守護小笠原氏の弱体化により、
信濃は諸豪族の分捕り合戦の場となる。
天文十年、甲斐の武田信虎が東信濃の諏訪氏、村上氏の連合軍で海野氏を攻撃。
海野平の合戦と称される戦いだが、一族の弥津氏、望月氏は降伏。
当主海野棟綱は上野国に敗走、嫡子幸義は神川付近で戦死し、その墓は久保地内に残る。
ここで信州の名族といわれた海野家は滅亡した。 」
海野氏の配下で一族である真田幸隆も一緒に沼田に敗走したが、負けた武田氏に仕えて信濃攻略で活躍し、 名門真田氏の発展の礎を築いた。
「 武田信玄の第二子信義(後に龍宝)が、永禄四年(1561)、海野氏を継いたが、
武田信玄が亡くなると、遺領の上野、甲斐、信濃の領地を北条、徳川、上杉の三氏で分割する戦いが始まる。
武田方だった真田幸隆は、北条、徳川、上杉そして豊臣と主君を代え、乱世を乗り切っていく。
天正十二年(1584)、真田本城の城主、真田幸隆は、徳川家康から金を出させて上田城を築き、
海野郷から願行寺、海祥寺、八幡神社等の寺社を移し、海野の商人等の住民を移住させ、上田の城下町に海野町を造った。 」
そのため、ここ海野は本海野町と呼ばれるようになった。
江戸時代に入ると、寛永二年(1625)、北国街道(善光寺道ともいう)の宿場町に指定され、海野宿となる。
「
田中宿と半月交代で伝馬の仕事を務めることになり、人足二十五人、二十五頭の馬が常備された。
当初は、本陣は田中宿のみであったが、寛保二年(1742)の大水害で田中宿が大災害を受けたため、
本陣は海野宿に移り、文化四年(1807)には両宿に本陣が置かれるようになった。
海野宿は東西約六町(約650m)の宿場で、本陣は一軒と脇本陣二軒、
宝永九年(1709)の宿場の人口は五百九十四人、家数は六十二軒であった。
佐渡の金の江戸までの輸送、善光寺までの参拝客や北陸諸大名の参勤交代などで利用され、非常に賑わいをみせた。
また、定期的に市場が開かれるようになり、特に馬の市は活況だったようである。 」
現在でも本陣、脇本陣、問屋、旅籠などの跡が残っている。
宿の東端、白鳥神社より街道のほぼ中央に用水が流れる。
宿の東西には枡形が置かれ、約六町の長さだった宿場時代の建物は多くは旅籠で、
出梁造や海野格子と呼ばれた二階の出格子が今もよく残っている。
元禄四年(1691) 正行院地蔵寺が現在地に移されて再興。
現在は白鳥神社の隣に「旧地蔵院」という石柱が、道祖神碑などと一緒に並び、
門を入ると本尊の媒地蔵(縁結地蔵)が祀られているが、門とともに再現したものという。
明治時代に入ると宿場制度が廃止され、鉄道網の発達により旅籠の利用客が減ったため、養蚕業に変わった。
特に力を入れたのが蚕種紙である。 これは蚕の種を和紙にしたもので、外国へ輸出された。
海野宿の家は養蚕業に転換するため、二階が改造された。
明治時代の養蚕業に用いられた伝統的建造物も残っている。
昭和六十二年(1987)、海野宿が国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
所在地:長野県東御市本海野
海野宿へはしなの鉄道線田中駅または大屋駅からタクシーで5分
東部湯の丸IC[から車で10分