mrmaxの城めぐり 島根県1 (月山富田城・足立美術館)


月山富田城は毛利氏も攻めあぐねた巨大な山城で、日本100名城の第65番の城に選定されている。 
室町時代末期から戦国時代、出雲は尼子氏の時代で安来市の月山富田城(がっさんとだじょう)を本拠に活躍したが、 石見で発見された銀山をめぐり、大内氏や毛利氏との戦を行い、最終的には負けて尼子氏は滅亡した。  その復興を懸けて立ちあがった山中鹿介の話は有名である。 


かうんたぁ。




月山富田城

平成二十八年(2016)十月二十五日(火)、米子鬼太郎空港でレンタカーを借り、安来市にある月山富田城へ向った。 

「 月山富田城は月山の一帯にあり、その規模と難攻不落の城として、歴代の出雲国守護職の居城で、 戦国時代(1396年から1566年)には大名尼子氏の本城になり、以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となった。 
月山富田城は靴のような形をした標高百九十一メートル余の月山(別称吐月峰)の山上に本丸をおく典型的な山城である。 
南東以外の三方は急峻な斜面であり、北側を正面とし、山麓部から山頂部へ郭を連ねていた。
登城口は、北麓の菅谷口(すがたにぐち)と御子守口(おこもりぐち)と塩谷口(しおだにぐち)からの三つのみで、 これらの道は山腹の「山中御殿口」で合流する。  山中御殿からは、「七曲り」と呼ばれる急峻な一本道で、左から右に郭が連なり、山頂部の本丸まで続いていた。  敵は三つの道方向からしか攻められず、城の下段が落ちても、中段の山中御殿で防ぎ、 そこが落ちても主山の月山に登って防ぎ、頂上には空掘を築き、守りを固め、一度も落城しなかったという、 難攻不落の名城である。 」 

月山富田城
月山富田城全体図




広瀬地区の飯梨川のほとりに赤い楼門があり、右側に「富田城跡」の石碑が建っている。 
月山富田城へ向かう道は三つで、その一つが小生が立っている御子守口である。 

「 御子守口は上記の全体図では正面中央から上に登る道で、 富田橋を渡ったところにある御子守社脇を進む道で 搦手道(からめてみち)と呼ばれた道である。 
もう一つの道は南麓の塩谷口からの道。  裏手道(うらてみち)と呼ばれる道で、頂上には勝日高神社が祀られていた。 
大手道は、北麓の菅谷口にある臨済宗の城安寺(じょうあんじ)から南に向う道で、 尼子氏の里御殿があったといわれる。 
城安寺は、正和年間、源翁和尚の開山という寺院で、 堀尾忠晴と共に一時、松江に移ったが、のち広瀬に戻り、さらに広瀬藩陣屋の予定地となったため、 現在地に移された。 境内には広瀬藩九代藩主松平直諒の墓がある。 
尼子氏、毛利氏が城主だった時代の姿は定かではないが、 尼子氏の館(平素の住居)は里屋敷とよばれ、この付近に里御殿があったという。  まわりに侍屋敷を設けたとされる。 
三つの登り口には城門があり、門外は深い堀がめぐらされ、そこから飯梨川までが城の外郭となっていたという。  なお、当時の飯梨川は今より西、二百メートル〜400メートルを流れていた。 」 

赤い楼門中国第31番楽寿観音霊場の巌倉寺の赤門である。 左手に並河太歌碑と石仏群があった。 

「 睡虎山巌倉寺(いわくらでら)は神亀三年(726)、聖武天皇の命により行基が建立したと伝えられる真言宗の古刹で、 本尊の木造聖観音像と脇侍帝釈天立像は国の重要文化財に指定されている。  もとは山佐にあったが、観音様が当時の和尚の夢枕に立ち富田に移りたいというお告げをされたため、 佐々木義清が城内の現在の場所に移動したという言い伝えがある。  境内にある御子守社はインドに起源を持つ出産、育児の神、鬼子母神を、また、太子堂では聖徳太子を祀っている。  月山富田城から松江へ拠点を移した堀尾吉晴は遺言により巌倉寺境内に葬られた。  巌倉寺の奥、西側最下段に位置し、飯梨川に面する御茶庫台(おちゃこだい)に 堀尾吉晴の墓と伝わる巨大な五輪塔と堀尾吉晴の妻の建てた山中幸盛の慰霊碑がある。 」 

巌倉寺の赤門を左に少し行ったところに安来市歴史資料館と道の駅広瀬富田城があり、その駐車場に車を止めた。 
日本の名城100選の65番に選定されたスタンプは歴史資料館にあるのだが、両施設は火曜日は休館日になっていた。 
歴史資料館前には「日本100名城/日本3大山城 月山富田城  尼子十勇士参上 」の垂れ幕があり、そのイラストが 描かれていた。 又、「 尼子燃ゆ 廣瀬町 」などのポスターもあった。  100名城のスタンプは閉められた歴史資料館の入口前の台の上にあったと娘が報告してくれた。 
駐車場から山に向うと下ったところに尼子興久の墓があった。 

「 尼子興久は尼子経久の三男、奉公衆の塩谷氏を継承して塩谷興久(えんやおきひさ)と改名した。  武勇優れ、出雲最大級の経済要地の塩谷郡を経済基盤を背景に尼子宗家を脅かすほどに成長していった。  興久は備後北部の甲山城主山内大和守直通の娘を娶ったため、 その同盟勢力は出雲西部から雲南、備後北辺までの広大な地域のものになった。  父、尼子経久を含む尼子氏としては捨てておけない状態になった。  そうしたとき、興久は領有する塩谷三千貫では不足として原手郡七百貫の加増を父に申し出たものの断られた。  天文元年(1532)八月、父にそむき戦ったが敗れて、妻の父備後甲山城主大和守直通にたよったが、 天文三年(1534)自害し、その首は富田城の経久のもとに送り届けられた。  興久の変わり果てた姿を見た経久は茫然として「あれでもなきが如く」になったとされる。 年三十八才だった。 」 

赤門
     歴史資料館      尼子興久の墓
巌倉寺の赤門
安来市歴史資料館
尼子興久の墓




湿った挟間のようなところから山道が続くので上っていく。 
少し行くと開けたところに出た。  千畳平(せんじょうなり)というところで、北端には尼子神社と櫓跡があり、周囲に石垣が残る。
ここは御子守口の正面に位置し、太鼓壇に続く北側の郭で、城兵集合の場として使われたといわれる。 

小さな社の尼子神社が祀られていて、説明板が立っている。 

説明板「尼子神社」
「 月山富田城跡は、昭和九年六月、史蹟名勝地の指定を受け、地元広瀬町商工会がこの地を買収し、 太鼓壇公園を造り、尼子神社を創建し、尼子三代(経久、晴久、義久)並びに尼子十勇士(山中鹿介幸盛他)の霊を祀った。 」 

千畳平の先にあるのが、千畳平に続く南側の郭、太鼓壇(たいこだん)で、 時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝えられる。 
太鼓壇の跡地には山中幸盛の祈月像が建っている。 
第二次大戦以前の日本では「君子奉公」の教育が行われて、 楠正成や山中鹿介などが国民教育の題材として教科書に採用されていた。 
山中鹿介幸盛の三日月の前立(まえだち)と鹿の脇立(わきだち)のついた冑(かぶと)は山中家の家宝だったようで、 それを譲り受けたことから、鹿介と名を改めたといわれる。 
山中鹿介は、「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話などで知られ、 子供の遊ぶ「めんこ」の絵としても人気があった。 
像の前に、山中鹿介の一生に関する説明板が立っていた。 

「 山中鹿介幸盛は尼子氏の一門である山中氏の出身で、病弱な兄に代わって家督を継承しました。  毛利氏による富田城攻めの際に益田氏配下の武将である品川大膳との一騎打ちで名を馳せ、 尼子氏滅亡後は尼子勝久を奉じての尼子再興戦で中心的な働きを行ない、一時は富田城を包囲した。  しかし、布部、山佐の戦いにおいて毛利軍に敗北した後は徐々に劣勢になり、元亀二年(1571)頃に出雲国から撤退した。  その後は因幡方面で転戦した後、織田信長の配下である羽柴秀吉の軍勢に加わり、 播磨国の上月城守備を命じられていたが、 毛利軍の猛攻により落城。 主君勝久らは自害し、鹿介も捕えられた。  鹿介は備中松山城にいる毛利輝元下に護送されたが、その途上松山城に程近い阿井の渡しにおいて暗殺された。 」

御子守口道
     尼子神社      山中幸盛の銅像
御子守口道
尼子神社
山中鹿介幸盛像




太鼓壇の北側に桜が植えられているところがあり、広瀬の自然と桜を守る会が建てた看板には  「 尼子時代馬乗馬場だったところである。 」 とあった。 
その先、道は下に降りて行くが、真直ぐ進むと戦没者慰霊碑が建っている。
ここは奥書院平(おくしょいんなり)で、奥書院があったと伝えられるところである。 
平らなところを更に進むと、その先は両側が狭まったところにでたが、建物が二棟建っていた。  ここは花ノ壇、別名は宗松寺平(そうじょうじなり)である。 
大手道と搦手道の間、山中御殿平の正面、一段下に位置する場所で、 かつては多くの花が植えられていたことからこの名がついたといわれる。  建っている建物は発掘調査をもとに復元された主屋と侍所である。

説明板「花ノ壇」
「 花ノ壇は敵を監視できることや山中御殿(殿様の居住地)と連絡が容易なことから、指導力のある武将が暮らしていたと思われる。  南側の主屋は武将が暮らしていた家で、北側の家は戦いのと時に兵士達が待機する場所として利用していたと考える。 」 


馬場跡
     戦没者慰霊碑      主屋と侍所
馬場跡
奥書院平
花ノ壇




この先は引き返すか、左側の急な小道を下り、右側の道に出た。 
その道を進むと右手に展望が開き、月山の全貌が見えてきた。 

「 尼子氏は石見大森銀山の支配をめぐり、大内氏、その後、毛利氏と対立する。 
毛利元就は弘治二年(1556年)以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、 永禄三年(1560)、尼子晴久が急死したため、晴久の嫡男尼子義久は足利義輝に和睦を願うも、 元就はこの和睦を一方的に破棄し、永禄五年(1562)出雲侵攻を開始する。 これに対し、晴久の跡を継いだ尼子義久は富田城に籠城し、尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。  しかし、永禄六年(1563)、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。 ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功する。 だが一方で、当主である嫡男、隆元の不慮の死という悲運にも見舞われている。 元就は大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張り巡らした。 当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。 これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。  それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離間策を巡らせた。 これにより疑心暗鬼となった義久は 重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。 義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。  この段階に至って、元就は逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出。  永禄九年(1566)十一月、尼子軍は長期にわたる籠城に武器食糧は欠乏し、戦意も喪失して、 尼子義久は元就からの和睦の申し入れを受け降伏、富田城は落城。尼子氏は滅亡し、 毛利元就は一代にして、中国地方八ヶ国を支配する大名になった。 
その後、富田城は毛利氏の支城になっていたが、慶長五年(1600)から堀尾氏が城主となると、 慶長十六年(1611)、堀尾忠晴が松江城に移ったため、廃城となった。 」 

その先の左側には石垣が数か所残っているが、右手は工事中の看板があり、立ち入り禁止になっていた。 
このあたりは山中御殿平(さんちゅうごてんなり)で、「山中御殿」の説明板がある。 

「 富田城御殿があったと伝えられる場所で、通称山中御殿と呼ばれている。  月山の中腹に位置する山中御殿は菅谷口、塩谷口、大手口という主要通路の最終地点ともなっており、 最後の砦になる三の丸、二の丸、本丸に通じる要の曲輪として造られた。  周囲は高さ5m程の石垣や門、櫓、堀などで厳重に巡らせることによって敵の侵入を防いでいた。 」  

左手の石垣には「多聞櫓跡」の表示があり、正面左の石垣前には「櫓跡」と「菅谷口門跡」の表示板があった。 

「 山中御殿は上下二段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に付属の館があったと伝わる。 
発掘調査によって建物の基礎とみられる石列が確認されたが、時代は特定されていない。
  現存する古絵図では、石垣や瓦葺きの櫓などが描かれているが、これらの古絵図が描かれたのは江戸時代である。  発掘されている石垣が作られたのは関ヶ原の戦い後の堀尾氏による改築と推定されるという。 」 

菅谷口門跡の先は侵入禁止になっているが、覗きこむと「登城道」の標柱が建っている。  又、菅谷口門跡の右側石垣の前には「本丸軍用道コース610m」の表示があった。 
大手道、搦手道、裏手道が合流する山中御殿平の入口には高さ5m、幅15mの大手門があり、 押し寄せる敵を押し返した、と伝わるが崩落して現存しない。 
この大石垣の下には径2m、深さ3mの軍用大井戸があり、現在でも水が湧いているようであるが、 工事中立ち入り禁止で、確認することはできなかった。  
山頂は平地になっていて、本丸、その下に二の丸、三の丸と連なっている筈だが、 ここから先の七曲道に通じる場所は全て工事中で通行できなくなっていたので、今回の城探訪はここで終了となった。 
同行した娘はあの急な坂道を上るの!!と自信なさそうな声を出していたので、上れなくなってほっとしたと云っていた。 

山中御殿平
     櫓跡と菅谷口門跡      七曲道
山中御殿平
櫓跡と菅谷口門跡
七曲道遠望




月山富田城へはJR山陰本線安来駅からイエローバス「広瀬ターミナル行き」で約30分、市立病院前下車、徒歩約10分   
月山富田城のスタンプは安来市立歴史資料館(9時30分〜17時、火休) にて



足立美術館

月山富田城の本丸まで行けなかないことで時間が出来たので、飯梨川の反対側にある足立美術館を訪れることにした。 
足立美術館は横山大観の絵を収蔵していることと庭園のすばらしいことで、有名である。 
横山大観の絵を見たのは昭和五十三年に名古屋博物館で開かれた横山大観展で、そのスケールの大きな絵に目を奪われ、 また、富士の姿に感動した。 その後、横山大観の絵が展示されている美術館を見付けると二人ででかけていた。  足立美術館の存在は今から二十年位前に知ったが、出雲は遠いので先送りしているうち、妻は心臓の病で亡くなってしまった。  今回の旅行は亡くなった妻と訪れようと約束した松江城と足立美術館を訪問することにもあった。 
館内に入ると白砂青松庭が目に入ってきた。  美術館を造った足立全康氏が借景になる山を買い取った話や滝を人工的に造った話を思い出しながら眺めた。  見事の一言である。 

庭園
足立美術館白砂青松庭園



庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など六つに分かれていて、面積は五万坪に及ぶという。 
全康自らが全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたといい、窓を額縁に御立てた部屋もあり、見てもあきない庭になっている。  専属の庭師や美術館スタッフが毎日手入れや清掃を行っていて、 「庭園もまた一幅の絵画である」という全康の言葉通り、絵画のように美しい庭園には言葉を失った。   妻の遺影を庭に向けて、二人で見たかったと一人ごとを言った。 
横山大観の絵がほとんどかと思って訪れたが、大観の絵は特別室のみで、名古屋で見た画には出逢なかったのは残念だった。  その代わり、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画壇の巨匠たちの絵が展示されていて、そちらの絵の方が 迫力があった。 
北大路魯山人と河井寛次郎の陶芸の展示室、林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども展示されていた。 

額縁仕立て
     庭園      白砂青松
窓を額縁に御立てた部屋
一枚ガラスからの庭園
白砂青松



足立美術館へはJR山陰本線安来駅からバスで20分 安来駅から足立美術館まで無料シャトルバスが出ている 




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