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玉作湯神社は奈良時代の出雲国風土記や平安時代の延喜式にも記載されている古社である。
「 玉作りの神「櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)、国造りの神「大国主命」、温泉の神「少彦名命」の三神が祀られている。
三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)により、
この地で造られたと言われているが、
玉作湯神社にはその櫛明玉命を祀っていて、多数の勾玉や管玉が社宝として保管されている。
そういうことから最近パワースポットとして若い人に人気のようである。 」
玉作湯神社の社殿に向う石段の右手に小道があり、そこに「玉造要害山城跡50m」の標識が建っている。
玉造要害山城は玉作湯神社の背後の要害山に築かれた城である。
玉作湯神社の社殿の脇に「湯山主之大神」と「御神水真玉の泉」の石碑があり、湧き水が流れていた。
社殿の右の石段を上ったところにはいくつかの小さな祠があり、その先に「湯山逢拝殿」があり、
このあたりから上の丘陵が要害山城の跡地である。
「湯山逢拝殿」の説明板には 「御祭神湯山主命は温泉守護、温泉療法、諸病平癒の守護者として地域住民の信仰厚く、
古歌にも「湧き出る湯山の主の神湯こそ病をいやす意なりけり」と謡われている。」 とある。
道の脇の竹のしげみに合併前の玉湯町が建てた「玉造要害山城」の説明板があった。
「 中世の山城、湯ノ城とも言う。 標高108mの半独立丘陵で、 山頂及び山腹に削平地が数段に渡って残り、土塁、空堀、井戸跡などが見られる。 小規模だが保存は良好である。 この城は天弘二年(1332)頃、湯守留守職諏訪部扶重が築いたといわれる。 同世紀の中頃、出雲国守護代佐々木伊予守秀貞がさらに改修増築したとされる。 その後は湯庄支配の本拠地として湯氏が代々居所したと思われるが、詳細は不明である。 天文十一年(1542)には湯佐渡守家綱の名が記録に見え、その墓とされる祠が城域内に残っている。 」
発掘した結果によると、
「 要害山城は最高所の本丸を中心に北西の玉作湯神社方面に山腹を半周する帯郭を含む四段の郭が設けられていた。
本丸と本丸の帯郭には尾根筋方面に土塁、縦土塁が設けられ、加えて本丸直下の堀切は土塁を伴う厳重な構えとなっている。
麓の郭と本丸帯郭の間に設けられた郭には食い違い土塁及び連続縦堀群が設けられていて、
帯郭の縦土塁と共に尼子氏流築城術にはない特徴が見られる。
山上の遺構は保存状態が良く、空堀及び土塁が往時の姿を留めている。 また、本丸下の尾根鞍部に井戸跡が残る。 」
という。
旅館の下駄で散歩途中に見付けたため、孟宗竹で行く手を阻まれ、そこで断念したが、
鎌倉〜室町にかけての城なので、砦のような程度の城だったのではと思った。
玉造温泉へはJR山陰本線松江駅からバス「玉造温泉ゆーゆ」などに乗車、または、玉造温泉駅から車で約5分
石見銀山
まず、石見銀山の歴史を記す。
「 石見銀山は、鎌倉時代末期の延慶二年(1309)、周防国の大内弘幸が石見に来訪し、
北斗妙見大菩薩の託宣により銀を発見したと伝えられる。
大永六年(1526)、博多の商人、神谷寿貞が領主大内義興の支援のもと、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。
掘り出した銀の鉱石は、大田市の鞆ヶ浦や沖泊に運ばれ、博多湊などで売買されたという。
義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、
享禄三年1(1530)に当地域の領主小笠原長隆が銀山を奪ったが、
三年後大内氏が奪回に成功し、大内氏は要害山の山頂に山吹城を構えて、銀山守護の拠点とした。
天文二年(1533)、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き、海外渡来の銀精錬法の灰吹法を導入した。
この技術導入で効率的に銀が得られるようになり、この方法は全国の鉱山に伝えられ、
日本の銀産出に大きな貢献をすることになる。
その後、銀山の権益をめぐり、戦いが続く。
天文六年(1537)、出雲の尼子経久が石見に侵攻し、銀山を奪った。
二年後に大内氏が奪還したものの、その二年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領。
大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
大内義隆の死後、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、弘治二年(1556)の忍原崩れ、
永禄二年(1559)の降露坂の戦い、永禄四年(1561)〜永禄五年(156)の雲芸和議をへて、
最終的には毛利氏が勝利を収め、石見銀山を完全に手中に収め、
山吹城に吉川元春の家臣、森脇市郎左衛門を配置した。
天正十二年(1584)、毛利氏が豊臣秀吉に服属することになると、
銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、
同年12月には石見銀山を朝廷の御料所として献呈する。
天正十九年(1591)、毛利輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため
林就長および柳沢元政を奉行に任命した。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長五年(1600)十一月に石見銀山の接収のために大久保長安と彦坂元正を下向させ、
石見の江の川以東を中心とする地域を天領(幕府直轄領)とし、翌慶長六年(1601)、初代銀山奉行として大久保長安を任命し、
銀山開発の費用や資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村には直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。
大久保長安は山吹城の下屋敷のあった吉迫の陣屋で支配を行った。
産出した灰吹銀は大田市の鞆ヶ浦や沖泊から船で搬出していたが、
冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、
長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の街道(銀山街道)を整備し、
尾道から京都伏見の銀座へ輸送するように変更した。
慶長七年 (1602)、安原伝兵衛が釜屋間歩を発見して産出された銀を家康に献上すると、
家康は非常に喜び、安原伝兵衛に「備中」の名と身につけていた辻ヶ花染胴服を与えた。
長安の後任の竹村丹後守は大森に奉行所を置き、山吹城などの城は廃城となった。
石見銀山の最盛期は十七世紀初頭(慶長年間から寛永年間)だったようで、
その後、銀産出量は次第に減少し、延宝三年(1675)に銀山奉行職は大森代官に格下げされ、
大森の奉行所は大森代官所となった。
江戸末期には、深く掘らなければ銀が産出できなくなり、地下水にも悩まされ、採算がとれなくなっていった。
慶応二年(1866)の第二次長州戦争において、
幕府は石見国に紀州、備後福山、浜田、松江藩の藩兵を出動させたが、
長州軍の進発を食い止めることができず、七月に浜田藩主松平武聡は浜田城を脱出し、浜田城は落城。
これにより、長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、
最後の大森代官、鍋田三郎右衛門成憲は、七月二十日の夜に銀山付の役人を引き連れて備中国倉敷へと逃亡し、
石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた。
以後、旧石見銀山領は長州藩によって支配されることとなった。
明治二年(1869)、大森県が設置されたことにより長州藩による支配は終わった。
その後の石見銀山は民間に払い下げが行われたが、銅が中心で採算が取れず、
昭和十八年(1943)の水害により、坑道が陥没し、閉山になった。 」
石見銀山を守る城として、山吹城・矢滝城・矢筈城・鵜丸城など、多くの城が築かれた。
山吹城跡、矢滝城跡、矢筈城跡、石見城跡は石見銀山の世界遺産として登録されている。
下図は石見銀山を中心として周囲図で、城跡が記されている。
銀山柵内から南西に2.5km、海抜六百三十四メートル、地表から四百三十メートルの高さにあったのが矢滝城。
北側は石見銀山街道の温泉津沖泊道が通る降路坂になっていて、石見銀山を防備するための要衝を押さえていた。
享禄元年(1528)には戦国大名大内氏が拠点とし、三年後の享禄四年(1531)には小笠原氏がこれを奪い銀山を支配したとの記録がある。
山頂部の北側には郭群に枡形の出入り口や敵の侵入を防ぐための竪堀や堀切などが残る。
銀山街道をはさむ形で北に築かれたのは矢筈城である。 海抜四百八十メートル、地表から三百メートルの高さに築かれた城で、
南の矢滝城と対になって銀山防衛と石見銀山から温泉津港に至る銀山街道を掌握する機能を担っていた。
また、積み出し港の温泉津には鵜丸城、櫛島には串山城が築かれた。
石見銀山と関連遺跡は平成十九年(2007)に世界遺産に登録された。
平成二十八年(2016)十月二十七日(木)、石見銀山世界遺産センターを訪れた。
世界遺産センターでは銀山の歴史や銀の精錬技術などの説明展示が行われていて、
展示されている鉱山町のパロラマは当時の姿をとらえている。
このパノラマにに寄ると、裾野に広がるのが、鉱山町で、その奥(石見銀山公園)に鉱脈の要害山があり、
最初は露天掘りで勧められていたが、その後は岩盤に穴をあけて堀り進む方法になった。
坑道は間歩と呼ばれ、最終的には七百を越える数という。
山吹城は海抜六百メートル、上り口から四百十二メートルの要害山の山頂にあり、
石垣、郭、空堀、門跡が残っているという。
館内には灰吹法による精錬の様子が人形で展示されていた。
灰吹法の導入で効率的に銀が得られるようになり、この方法は全国の鉱山に伝えられ、
日本の銀産出に大きな貢献をすることになる。
灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は
基本通貨として広く国内(主に西日本、東日本の高額貨幣は金)で流通したばかりでなく、
明やポルトガル、オランダなどとの間の交易で銀が輸出された。
当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一(生産量は年間二百トン、
内石見銀山が三十八トンだったと推測される。
国内に流通した銀貨のレプリカが展示されていた。
それで分ったのが銀貨の使用法。
石州丁銀は秤量貨幣といい、額面が無くて重量で価値が決定されるのだという。
取引の際は必要に応じ切り分けて使用したため、原形をとどめる物は希少だという。
大久保長安は、産出した灰吹銀が大田市の鞆ヶ浦や沖泊からの船で日本海から搬出していたのを
中国山地を越える街道(銀山街道)を整備し、尾道から京都伏見の銀座へ輸送するように変更した。
大森銀山地区の町並みは、昭和六十二年(1987)に国の重要伝統的建造物群保存地区(種別 鉱山町)に選定され、 石見銀山とともに世界遺産にも登録されている。
「 徳川家康により、石見銀山領は天領となり、初代銀山奉行として大久保長安を任命された。
長安の後任の竹村丹後守は、大森に奉行所を置き、山吹城などの城は廃城となった。
その後の石見銀山の経営は大森集落で行われ、代官を始め、それを司る役人が勤務していたが、
銀産出量は減少したことから、延宝三年(1675)、銀山奉行職は大森代官に格下げされ、
大森の奉行所は大森代官所となった。 」
代官所の跡地には明治三十五年(1902)、邇摩郡役所の建物が建てられた。 現在は石見銀山資料館になっている。
枯山水の庭には百姓一揆などが起こった場合の代官の逃げ道と伝えられる抜け穴が二つあり、
そのうち一つは隣の城上神社に、もう一つは裏手の勝源寺に通じているといわれている。
正門と長屋門は文化十二年(1815)に建てられたもので、当時の姿をとどめている。
その先にある熊谷家は、幕府に上納するための公儀灰吹銀を天秤で掛け改め勘定を行う掛屋として任命された家柄で、
重要文化財に指定されている主屋は寛政十二年(1800)の大火後の享和元年(1801)の建築で、
幕府巡見使や町役人としての用向き、御用達などの商用や日常生活にあてられていた。
三宅家の建物は、代官所の銀山方役所に勤務する銀山付地役人田辺氏の居宅であった。
寛政十二年(1800)の大火以降の建築と思われるが、通りに面して門、塀や露地門を構えて前庭を配置し、
大手口の上手に式台を設けるなど武家屋敷の形態を保っている。
柳原家は代官所の同心を勤めた武家である。
「 主屋入口および土間が左手にあり、中央に式台付玄関が配置され、座敷に続いている。 田の字型四間形式の間取りで一部二階が設けられている。 この二階は表から見ることが出来ない造りで、大森の武家住宅に共通する形式である。 主屋の裏には漆喰塗籠の土蔵が一棟ある。 」
江戸時代、石見銀山付御料百五十余村は、支配上、六組に分けられていた。
十八世紀の中頃には、大森は六軒の郷宿が設けられ、公用で出かける村役人等の指定宿として、
また、代官所から村方への法令伝達等の御用を請け負っていた。
金森家は文化七年(1810)まで波積組の郷宿を務めていた泉屋の遺宅である。
「 建物は外壁が漆喰で塗込め、軒瓦には家紋を入れるなど堂々たる風格を備えている。 」
幕府(代官所外では沿道各藩)により、領内の郷村に対して、
人的、物的負担や街道各村の銀輸送にあたる人馬の負担が割り当てていたが、
これらの賦役は住民からは嫌気される傾向にあり、時には訴え出る者や争議も起きたが、これらの負担は幕末まで続いた。
大森町並交流センターは旧大森区裁判所である。
明治三十一年(1890) に開所し、昭和三十年代まで機能していた。
大森町が明治時代に入ってからも、地方行政、司法の中心的な役割を果たしていたことが伺える。
灰吹法は鉛を昇華させるため、鉱山労働者は早死で、30歳まで生きると御祝いされたといい、
亡くなった人を供養するため、寺院が建てられたといわれる。
羅漢寺は五百羅漢を安置するために建立された寺院で、
石窟に安置された五百羅漢像は必ず誰か知っている人の顔に似ているものがあると言われほど表情豊かなものばかり。
寺院自体も山間の中に埋まっているかのようなたたずまいになっている。
五百羅漢像はすべて福光産の石像で、そのほとんどが高さが三十六センチから四十七センチの座像である。
その表情は笑っていいたり、泣いていたり、説法をしていたり、太っていたり、痩せていたり等様々である。
「 銀山採掘のために掘られた間歩(まぶ)と呼ばれる坑道や水抜き坑が七百余り確認されている。
主な坑道としては釜屋間歩、龍源寺間歩、大久保間歩、永久坑道など。
石見銀山資料館から二キロ余の上り先になった先にある龍源寺間歩は一般公開され内部を見学できるが、
往復は歩きかペロタクシーによるので、負担も大きく、時間もかかるので行かなかった。
2008年から大久保間歩も一般公開されたが、ツアー形式で週末のみ限定公開となっている。 」
石見銀山へはJR山陰本線大田市駅からバスで20分
温泉津(ゆのつ)
温泉津の日本海に面した沖泊は、海の底が深く、湾の入り口の櫛島が季節風を防ぐため、
大量の銀を積み出すには最適な港だった。
今も船を係留するための鼻ぐり岩が数多く見られ、往時を偲ばせている。
「 元亀元年(1590)、内藤内蔵丞は、毛利元就の命を受けて、 銀搬出の重要拠点である温泉津港口に鶴の丸城を築き、奉行に任命された。 毛利が石見銀山統治のため、如何に温泉津港を重視したかは温泉津を直轄領にし、 毛利水軍御三家の一つ、内藤一族を安芸国から迎え、奉行に据えたことから伺える。 関ヶ原役後、毛利が石見から撤退すると温泉津に土着し、代々年寄りや庄屋を務めた。 その間、廻船問屋、酒造業、郵便局等の経営にも携わってきた。 」
内藤家住宅は石見銀山にまつわる重要な建築物であり、
温泉津大火(1747の)後建てられた当地に残る最も古い住宅史跡で、
築後二百数十年の歳月にわたり、歴史の移り変わりの街、温泉津を見守ってきた。
内藤家住宅の先に温泉津観光案内所があるが、そこは温泉津港の一番奥にあたる。
「 中国明の古地図に「有奴市(うぬつ)」と記された温泉津(ゆのつ)港は、 沖泊と共に石見銀の積み出しや石見銀山で必要な物資の供給基地として、銀山で働く人々の暮らしを支え、 多い時には三十軒もの廻船問屋が軒を連ねた。 」
元湯の奥には医王山温光寺薬師堂があるが、この辺りは往古から温泉が地表に流れ出ていたという。
「 伊藤家初代重佐は、民の病苦を救うため、温泉場を開発し、薬師堂を建てた。 毛利元就は重佐を湯主に任じた。 」
元湯の裏手に位置する温光寺の背後のかげに温泉を見付けたタヌキが浸かったとされる源泉跡があり、
境内の地蔵堂の地下から元湯の源泉が湧き出す。
元湯に入ると道路から湯壺まで二メートル以上掘り下げられていることに気付く。
温泉津は各所で背後の岩を大きく切り出して家や寺院が建てられている。
「 石見銀山の採掘者らが町を築く一方、温泉が採掘者を癒したのである。 銀山開発により、温泉の役割が高まり、江戸時代に入り、天領になると代官が温泉を大事に保護し、 北前船の就航により、東北や九州の人々も入湯したと伝わる。 」
銀の積出港だった温泉津地区の町並みは、
港町、温泉町として平成十六年(2004)に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
温泉津温泉へはJR山陰本線温泉津から大田市営バスで「温泉津温泉行き」で約5分