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馬溜の右側、石垣が残っているところは大手門があったところで、
高さは三・八米、巾は十五米の二階建の楼門で、屋根にはしゃちほこが載った壮大な門だったようである。
その先には「二の丸下の段」の説明板があり、平地が広がっている。
説明板「二の丸下の段」
「 東西百米、南北二百十米の広大な平地に江戸時代には米蔵がたくさんあった。
北には屋敷地、南は幕末には御破損方、寺社修理方があった。
調査により確認できた二棟の礎石の上に同じ大きさの上屋を建て、内部を茶屋と売店に利用している。 」
二の丸に上っていくと、右側に石垣があるが、
城に上ってくる敵兵を鉄砲で攻撃するための火点(鉄砲櫓)があった場所である。
石段はここで切れ、右側にまた、石段が続く構造で一気に上れなくしている。
「 京極家の跡を継ぎ、寛永十五年(1638)に信濃国松本藩から十八万六千石で入封したのは、
松平直政(なおまさ)である。
徳川初代将軍家康の次男、結城秀康の第三子で、
慶長十九年(1614)、十四歳で大阪冬の陣に参戦し、初陣ながらも力戦奮闘し、
敵将真田幸村がその武勇を讃えて自らの軍扇を投げ与えた、といわれる人物である。
松江藩はその後も松平氏が統治し、十代目の定安(さだやす)の時、明治維新を迎えた。
そのなかで特に有名なのが、七代目の藩主松平治郷(はるさと)。
産業や治水林産などに力を尽くされ、藩の中興の祖として誉れ高いが、
号を不昧(ふまい)と称し、茶道不昧流の始祖となり、松江の文化を高めた。 」
不昧公が茶事に用いたお菓子は非常に多く、中でも若草は一月〜四月春のお茶席で好んで用いられた菓子である。
彩雲堂で販売されている菓子、
若草の由来は藩主が詠んだ和歌
「 曇るぞよ 雨ふるぬうちに 摘てこむ 栂尾山の 春の若草 」 から
命名されたもので、緑のあざやかな色彩と求肥の
柔らかい口あたり、感触が春のもえる新緑を連想させ、絶品である。
二の丸に上がるには枡形の道を進むと、右手に天守が見える。
右手に行くと少し下り坂になり、天守閣の下に行くが十米の石垣になっているので、天守閣へは上れない。
そのまま行くと天守から遠ざかり、水手門の下に出る。
天守に行くには左に向うが、ここには石垣についての説明板がある。
「 松江城の石垣は打込はぎといって、
石切り場で切り出した石の平坦な面の角をたたき、つき合わせやすくした積み方がほとんどで、
慶長年間に築かれた城に多くみられる。
また、自然石とその割石を積んだ野面積みや石を全面加工した切込はぎも一部に見られる。
石に刻まれた分銅形は堀尾家の紋。 二の丸下の段の西側には△印やその他の刻石を見付けることができるが、
刻石は工事の分担や石切り場の区別、合わせ印など、土木工事を円滑かつ組織的に行われるために活用された。 」
明治四年(1871)の廃藩置県により松江城は廃城となり、明治六年(1873)の廃城令により、
天守を除く建造物は当時の価格で四円から五円で払い下げられ、すべて撤去されたというので、
このあたりの地形も変わっているのだろう。
先に進むと「三の門跡」に出た。 そこには二の丸の説明板があった。
「 二の丸は本丸南側の一段低い平地で、江戸時代には中央に御書院があり、
松平家二代藩主綱隆の時までは藩主の居宅となっていた。
御書院の北には御殿女中の住居である局長屋、南には御月見櫓があり、
その他、御広間、御式台、御作事小屋、番所、井戸があった。
また、石垣に沿って二之門、三之門、御定番所、御門東之櫓、下雪隠、太鼓櫓、腰掛、中櫓、南櫓があった。
現在は西半部に明治三十六年に建てられた興雲閣と明治三十二年に東照宮を移築した松江神社がある。 」
「二ノ門跡」の標木を過ぎると、左側に鳥居があり、その先に松江神社、その奥に興雲閣が見える。
「 松江神社は明治十年(1877)、旧松江藩の有志により、 西川津村楽山に松平直政を御祭神とする楽山神社として創建された神社が、 堀尾忠晴が朝酌村に創建した東照宮の御神霊を合祀し、松江城山二之丸に遷座して、松江神社と名を変えた神社で、 昭和六年(193)、松江藩中興の明君として仰がれた七代藩主松平治郷と松江開府の祖堀尾吉晴の遺徳を称えて御神霊を配祀し、 今日に至っている。 」
三の門と二の門間は短く、二十米しかない。
石段を上がると左側に巨石がはめ込まれた石垣と正面は南多聞による枡形になり、
右折すると正面に頑丈な一の門があり、右側も多聞と敵兵はここで三方から攻撃を受けるということになる。
この本丸一ノ門と南多聞の一部は昭和三十五年(1960)に復元されたものである。
一の門をくぐると入場券の売り場で、ここから先が本丸である。
「 本丸は標高二十八米余にあり、北東部の一部土塀を除けば、周囲は祈祷櫓(荒神櫓)、武具櫓、
弓櫓、坤(ひつじさる)櫓、鉄砲櫓、乾の角櫓という六つの櫓とそれを結ぶ細長い多聞がめぐらされていた。
本丸の北東隅に天守が築かれたが、本丸御殿はなかったようで、落城に備えた守りを中心としたものだったのだろう。
明治八年、日本陸軍広島鎮台は松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された。
」
天守閣は百八十円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより、
資金を調達し、買い戻され、取り壊しを中止し、保存されることになった。
天守閣は五層六階、下見板張り、白漆喰、千鳥破風付きで、千鳥城ともいわれた。
「 南側に地下一階を持つ平屋の入母屋造附櫓があり、これが防御の役割を果たしていた。 附櫓が天守閣の入口になっているが、鉄の扉で敵が侵入すると、上部の狭間から入口に向って、 鉄砲や矢が撃ちこまれるようになっていた。 」
附櫓に入ると下足所で、階段で上に行くと入場受付で、ここで100名城のスタンプが押せる。
その奥のスペースは修学旅行生で一杯になっていたが、外観からみると武者溜まりで、
石落としや矢狭間や鉄砲狭間で防御する仕組みになっていたことがわかった。
「 松江城天守閣は、形式上は望楼型天守に分類され、
二重櫓の上に二重(三階建て)の望楼型櫓を乗せた型になっている。
二重目と四重目は東西棟の入母屋造で、二重目の南北面に入母屋破風の出窓をつけている。
三階には華頂窓、外壁は初重と二重目は黒塗の下見板張り、
三重目と四重目と附櫓は上部を漆喰塗、その下を黒塗下見板張りとし、
壁の大部分は白壁でなく、黒く塗った雨覆板(下見板張り)でおおわれ、実戦本位で安定感のあるもので、
南北の出窓部分の壁だけ漆喰塗である。
屋根はすべて本瓦葺き、木彫り青銅張りの鯱は高さ二米余あり、日本に現存する木造のものでは最大で、
入口から向かって左が雄の鯱は鱗があらく、右が雌である。
現在の鯱は昭和の修理の際に作り直されたもので、旧鯱は別途保管されている。
石垣は牛蒡積みといわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われている。
窓は突上窓と火灯窓があり、二階に一階屋根を貫くかたちで開口した石落しが八箇所あり、狭間は六十もある。
付櫓の先に天守閣がある。
一般的な天守閣は上から下まで一本の通し柱で支えられているが、
松江城は現代の家のように二つの階にまたがる通し柱で造られていた。
建物の中央部には地階と一階、二階と三階、四階と五階をつなぐ通し柱があり、
側柱など外側部分には一階と二階、三階と四階をつなぐ通し柱がある。 」
これらの構造を示す説明板があった。
「 松江城は、築城より百年以上経過した江戸時代中期の元文三年(1738)から寛保三年(1743)にかけて、 大改修が行われた。 この大改修の際に、天守閣も改装されて、現在の松江城天守閣の姿になったと推測されている。 」
地下には当時からの大きな井戸があり、城郭建築では唯一の現存例という。
井戸の左右の柱に天守祈祷札のレプリカが貼られていて、説明文が貼られている。
「 松江城の天守が国宝に指定される根拠になったのが、 松江神社で発見された天守祈祷札で、天守祈祷札の赤外線写真から、 祈祷札の日付けが江戸時代初期「慶長拾六年正月吉祥日」と分り、 天守の中から祈祷札の貼られた柱を調べ、ついにその釘穴と柱の釘跡が一致したことにより、 平成二十七年(2015)七月、天守として5番目の国宝に指定されることができた。 」
大変な努力での国宝指定と努力には驚いた。 その他、古い瓦やさちほこなどが保存されていた。
「 一階より上の階は板の間でそれほど広くはなかった。
昔は武者溜まりや武者走りになっていたのだろうが、現在は鎧などの展示品があった。
通し柱を覆うように板で覆われてかすがいで繋いでいる包柱は松江城以外に例はないといい、
案内人の話では強化するつもりで行われたようだが、効果は確認できていないということだった。
最上階に上る階段の上の天床は桐材で、可動式の木戸があり、
敵兵が上ってきた時、閉めて侵入が阻止てきる構造になっていた。
最上階には廻縁高欄があり、雨戸を取り付けているが、望楼からは松江市内を眺望することができた。
なお、部屋の中央に二畳ほどの畳が敷かれていたようである。 」
天守閣の周囲を歩くと乾櫓の跡地を見付けた。
少しはりだしたところに「祈祷櫓跡」の説明板がある。
「 築城前にはこの櫓の建っていたところに塚があり、 また、榎木を神木とする荒神が祀ってあったところであり、築城時にはしばしば石垣が崩壊する怪異が生じた。 櫓の名称はそれを祀りなおし以来毎月この櫓で松江城の安全祈祷を続けたことに由来する。 この櫓は東之出し矢倉とも記されているが、幕末頃には伝説に基づいてコノシロ櫓とも呼ばれた。 二階建てで、一階は三間と6県の十八坪、二階は十坪であり、南側に武具櫓への長屋造りの多聞で続き、 北側へは瓦塀が続いていた。 」
以上で、松江城の見学は終了である。
なお、松江城の堀の北に、小泉八雲の旧宅、記念館、近くに武家屋敷があるが、
訪問当日は休館日だったので訪れなかった。 小泉八雲の旧宅は国の史跡になっている。
松江城へはJR山陰本線松江駅から徒歩約20分
松江市営一畑バスで「県庁行き」で10分、大手前下車徒歩約5分
松江城のスタンプは天守閣入城受付にある
東出雲の神社
安来の地名は出雲国風土記にある須佐之男命(すさのおのみこと)がこの地に来て、
「 吾が御心は安来けくなりぬ 」 と言ったという神話に由来する。
「 安来の地名が文献上登場したのは天平六年(733)の出雲国風土記で、
「出雲国意宇郡安來郷」とでている。
この当時より安来の山中や船通山周辺を源とするオロチ河川群の周辺では たたら吹き、
たたら製鉄と呼ばれる古代製鉄法が盛んだったため
スサノオノミコトのヤマタノオロチ伝説が生まれた、とされる。 」
伊邪那岐命と伊邪那美命が再会した黄泉の国と現世との境があるというので訪れた。
神蹟 黄泉比良坂(よもつひらさか)碑
国道9号線平賀交叉点には「黄泉比良坂右折700m」の標識があるので、
指示通り進み、鉄道踏切を越えると駐車場がある。
ここには「黄泉良比坂 伊賦夜坂 今、出雲国伊賦夜坂と謂う故に其の謂はゆる黄泉良比坂は」という看板があり、
女優北川景子さんが主演を務めた映画「瞬」(またたき)」のロケ地である。
亡くなった恋人にもう一度会いたいと訪れる場所、生と死の境とされるこの坂で、
映画のラストシーンを飾る大事なシーンが撮影された。
「 神代の時代、伊邪那岐命(イザサキノミコト)は先立たれた最愛の妻、
伊邪那美命(イザナミノミコト)にもう一度逢いたいと黄泉の国へと旅立ちます。
古事記ではこの黄泉の国(あの世)と現世(この世)との境が黄泉良比坂であり、
現在の松江市東出雲町にあるこの場所、伊賦夜坂(いふやさか)であるとされている。
昼間もひんやりとした冷気に包まれるこの神秘的なスポットとして「逢いたい人にもう一度逢える場所」として
、ひっそり佇んでいる。 」
黄泉良比坂は古事記に登場する坂で、伊邪那岐命が黄泉国から還ろうとした時、
追って来る悪霊邪鬼を桃子(もものみ)で撃退した坂で、
大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)、後の大国主神が黄泉の国で、
須佐之男神の課す様々な試練を克服し、妻の須勢理昆売(すせりひめ)と共に還ろうとしたとき、
須佐之男神が追い至って大国主神の名を与え、国造りを許したのもこの坂である。
その場所については「故(かれ)其のいわいる黄泉良比坂は今の出雲国の伊賦夜坂と謂うなり」と記している。
昭和に建てられた石碑の西方の山道がこの伊賦夜坂といわれていて、途中に塞(さえ)の神が祀られている。
日本書紀に伊弉諾尊が伊賦夜坂で「ここから入って来てはならぬ」と言って投げた杖から出現した神であると記されて
いる。
揖夜神社(いやじんじゃ)へ向かう。
「 揖夜神社は黄泉比良坂の比定地、
伊賦夜坂近くの東出雲町揖屋に鎮座する神社で、
八重垣神社、熊野大社などと共に意宇六社の一つにに数えられる。
祭神が伊弉諾尊(イザサキノミコト)とともに国造りをした伊弉冉尊(イザナミノミコト)という女神であることから、
働く女性のパワースポットといわれている。 」
揖夜神社鳥居の前は出雲大社から姫路に至る約二百三十五キロの出雲街道が通り、 江戸時代には東出雲の行商人が中海でとれた海の幸、豊かな山の幸を天秤でかついて、この街道を行き来していた。
「 揖夜神社は出雲国風土記には伊布夜(いふや)社と記される古社で、
古事記では黄泉国の入口、黄泉良比坂は伊布夜坂と表現されている。
また、日本書記の斉明天皇五年(659)の条に「言屋(いふや)社」として登場し、
出雲大社の創建にかかわった社として記され、黄泉の世界と関係の深い神社として、
中央でも重視された神社だった。
平安時代末から南北朝時代まで荘官として派遣されていた大宅氏が別火と呼ばれた神職に就き当社を支配。
室町時代以降は出雲国造の命を受けて神魂神社の神職の秋上氏が神主を兼任していた。
江戸時代には井上氏が別火となり現在に至る。
現在も造営にあたっては出雲国造家から奉幣を受けるという。
武将の崇敬が篤く、大内義隆が太刀と神馬を寄進、尼子晴久が百貫の土地を寄進、
天正十一年(1583)毛利元秋が社殿を造営、堀尾吉晴は元和元年(1615)社殿を再建、
京極忠高は寛永十四年(1637)社殿の修復を行っている。
松平氏になってからは社殿の営繕は松江藩作事方が行ったという。 」
鳥居の先には神門(随神門)があり、その先には狛犬や背の高い常夜燈があった。
その先左に社務所があり、その先の右手に天満宮、恵比須社、その奥に荒神社がある。
揖夜神社の拝殿と本殿は左側にあり、本殿の右側には大きな社殿の三穂津姫神社、
左側には小さな祠の韓国伊太氏神社が祀られていた。
拝殿と本殿は大社造りであるが、神座は出雲大社とは反対で、左から右に向かっているのが特徴である。
五色の極彩色の神事の障壁画が壁に描かれ、出雲大社の縁起につながる由緒深い神社である。
なお、韓国伊太氏神社は出雲国風土記では在神祇官社「伊布夜社」、および式内社「同社坐韓国伊太氏神社」に比定され、
祭神は素盞嗚命、五十猛命である。
三穂津姫神社は出雲国風土記では不在神祇官社「伊布夜社」に比定され、祭神は三穂津姫命である。
韓国伊太氏神社、奥は揖夜神社本殿 |
黄泉比良坂(よもつひらさか)碑の所在地: 松江市東出雲町揖夜2376-3
揖夜駅から車で5分
揖夜神社へはJR山陰本線揖夜駅から徒歩約12分 車で約2分
(ご参考)司馬遼太郎の著作「街道を行く」にある「揖夜神社訪問」の記述
「 どうやらこのあたりはふるくはいふや、揖屋(揖夜、言屋)といった界隈のようだった。
イフヤという地名はいったい何語、どういう意味なのだろう。
車を停めた場所がたまたま揖夜神社というじんじゃの鳥居の前だった。
戦前の社格は県社だが、鳥居をくぐってひろい境内に入ってみるといかにも出雲らしく社殿その他が立派で、
大きなしめなわの姿なども他地方の神社を見なれた目からすればただごとでなく、ぜんたいに出雲寂びている。
境内のすみに林とまではゆかなくても樹木のまばらな一角があって、
湿った黒い絹のような木下やみをつくっている。
その淡い光のなかに祭神もホコラも個性ありげな摂社や末社がならんでいて、
その一つ一つに出雲の何事かがにおっている。
これらのなかに「荒神社」の標柱の出た石のホコラがあった。
荒神社(コウジンジャ)でなく、荒神社(アラジンジャ)とふりがなが振られていることがおもしろかった。
アラという呼称は日本の古い氏族にも多い。 安良という文字をあてたりする。
太田亮博士は荒氏は「任那帰化族なるべし」などと推量されているが、
おそらく南朝鮮のカヤ地方を故郷とする氏族なのだろう。
古代朝鮮半島の全体もしくは一部をカラ(韓)、カヤ、アヤ(漢)、アヤなどと呼んだ。
とすれば荒神社も韓神をまつるホコラなのかもしれず、すこなくしてもそうした想像を刺激してくれる。 」
(注)カヤのカは人偏に加という字、ヤは人偏に耶という字で、パソコンでは外字になるので、 やむをえず、カヤのままの標記にしている。
司馬遼太郎氏が神社を訪問したのは今から四十年以上も前のことなので、
景観はたいぶ変わっているように思われた。
司馬遼太郎は触れていないが、韓国伊太氏神社は間違いなく、朝鮮の末裔が祀った神社だろう。