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架設道が終わって、回ってきた小山を振りかえると小山の上には石垣のようなものが見えたが、
立ち入り禁止になっていて、近づけないのは残念である。
入口には「三本松城出丸」の説明板がある。
「 出丸は坂崎出羽守直盛の弟、浮田織部が指揮して、戦略上必要な北の防塁として整備された。
門の両側は二層の隅櫓を配置し、高塀とともに多くの鉄砲狭間が設けられた。
鉄砲線に備えた堅牢なつくりになっていた。
坂崎直盛はいわゆる千姫事件をおこした責任をとって自死したといわれるが、
津和野城を治めたのはわずか十六年のことだった。
なお、三本松城は津和野城の別名で、その他、蕗城(つわぶきじょう)とも呼ばれたようである。 」
出丸は織戸丸とも呼ばれる出城で、本城の北側、本丸東門から尾根沿いに約二百四十四メートル離れたところに位置し、
石垣や塀、櫓が築かれ、出丸門の右側に番所があったようである。
「本丸まで250m」の道標があり歩き始めると、道の先は侵入禁止になっている。
ここは出丸と本丸を結ぶ大手道のはずだが、しかたがないので、左側の架設通路を歩く。
大手道の先には津和野城の説明板が建っていたので、架設道から右に入る。
「 津和野城は標高362mの霊亀山上にあり、山麓からの比高は約200mの典型的な山城である。
築城は吉見頼行、頼直が永仁三年(1295)から正中元年(1324)にかけて行われたと伝えられる。
吉見氏が築城した中世山城は関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)に3万石の大名で入城した坂崎直盛によって、
高石垣を有する近世城郭へと大改修された。
天和三年(1617)に因幡国鹿野城より亀井政矩が4万3千石の大名として、入城後は、亀井氏11代の居城として、
明治維新まで続いた。
津和野城は本城の他、出丸(別名織部丸)がある一城別郭の城であり、その間に大手道を設けるなど、極めて実践的な山城であった。
かっては本丸、二の丸に三重天守と櫓があったが、貞亨三年(1686)の雷火で消失した後は再建されなかった。
明治七〜八年(1874〜75)に城の建物の大半は解体されたが、
現在も、山上には段状に連なる壮大な石垣が残っており、人力で行われた大土木工事の跡を見ることができる。
なお、津和野藩の藩庁は城山の北東側の山麓にあった。 」
先程閉鎖になっていた道が出丸とをつなぐ大手道だったのだが、歩けなく残念だった。
「 この先5分本丸城跡 →」の道標に従い、階段を上っていくと左側の草叢の上に石垣が現れた。
これは腰曲輪の下の石垣である。
その先の右側の小高いところに「東門跡」の説明板がある。
「 ここは東門、坂崎氏以後、亀井氏の代には大手門となっていたところである。
ここを入って右手に見る石垣は三段になっているが、これは三段櫓跡。
この三段櫓跡と右に見て上がった所が西門跡。 その右手を上がって、馬立跡、台所跡、海老郭跡と続く。
またここを入って左に廻って行くとところが腰曲輪で、これを行くと隠門に出る。
左手の上が天守台で、かっては三層の天守閣があった。 天守台を右に見て上がった所が太鼓丸跡、
その上を世間台といい、ここから城下が一望できる。
昭和四十六年九月 津和野町教育委員会 」
霊亀山の北から続く尾根から本城への出入口にあるのが大手門の東門で、
東門を見下ろす三段の石垣は三段櫓が設けられ、厳重に守られていた。
現在は東門跡の説明板の左側に架設橋が架かっていて、東門から西門方面には行けなくなっている。
台風の影響によるものか分らないが、案内通りにはいけないのだ。
江戸時代の東門は枡形虎口で、右側に現在金網が掛けられている石垣が三段櫓の石垣である。
江戸時代には枡形の東門を通り、西櫓、西門に出ていたが、閉鎖になっているので、架設の通路を渡る。
霊亀山の山頂に築かれた津和野城は横に細長く曲輪が広がっていて、曲輪はすべて石垣で囲まれていた。
架設橋の正面に見える高い位置の石垣は天守台で、その下は二の丸、橋から出たところは腰曲輪で、
反対には行けないようになっていた。 その先に三本松城の説明板がある。
「 三本松城は高石垣、瓦葺、天守閣を備えた典型的な近世の山城であった。 左側の石垣は天守閣を支えた石垣だったが、貞亨三年(1686)、雷に打たれて焼失した。 その後、天守は再建されることはなく、幕末を迎えた。 図には東門が描かれ、その門をくぐって、右側に二層の楼門が続く。 本瓦葺きにしゃちをのせた堂々たる櫓である。 石垣が高くそびえ、眼下の城下町の一望は絶景である。 」
その先で東門から続く道にでるが、右手を上がると「馬立跡 台所跡→」の道標があるので、内部に入っていく。
左側に礎石があるのが馬立の跡である。
左下の図は津和野城の見取り図である。
右奥に「津和野城跡(馬立、台所跡、海老櫓)の説明板がある。
「 ここは本丸西、当城の三の丸にあたる。 階段を上って左は馬立といわれ、乗馬をつなぎとめておく所、右は三段櫓の最上部の建物へつなげる。 馬立の奥には台所があり、石列による排水機能が見てとれる。 さらに奥には海老櫓といわれる建物があり、搦手(喜時雨側)に直面する望楼であった。 周囲は塀で囲まれ、支柱を支えるための控え石がおおむね一間(一・八メートル)おきに置かれている。 」
天守台から西と南に張り出した形状をしているのが三の丸で、
ここは西の張出し部で、馬立、その奥に台所が配置され、右側の石列は排水機構と思われた。
台所の奥(西側)の石垣を降りると一段低いところにあったがのが海老櫓で、ここから搦手を見張っていたのである。
馬立跡まで戻り、三の丸から正面に見える三十間台の高石垣は整然とした算木積で築かれている。
三の丸の西側(馬立)を挟んで反対にあるのは西門で、江戸時代には西門櫓が築かれていて、
前述の津和野城案内板に描かれていた、立派な建物だったようである。
西門の左、二の丸高石垣の下を進むと、道標があり、それに沿って進むと城の南張出し部分に出る。
その先に長方形に長い広い空間があり、「三の丸跡」の標柱が建っているが、江戸時代には曲輪内に番所などがあったとされる。
先端まで歩いて行くと、「中国自然歩道」の道標と「南楼門跡」の標柱が建っていた。
「中国自然歩道」の道標には鷲原八幡宮方面の添書もあったが、
南門櫓が築かれた南門からは尾根を南に下がって中荒城と続いている。
なお、中荒城は本城の西南に位置し、石積みの防塁跡が残っているという。
山城の津和野城には数多くの堀切、竪堀、横掘りが造られ、 中荒城の周囲には多数の連続竪掘が存在するようである。
また、中荒城の南麓(鷲原八幡宮の裏手)には南出丸があった。
ここからの下りは急で、降りていくのはあきらめたが、石垣の石が大きく無骨な感じがした。
南楼門付近からふりかえると、「三の丸跡」の標柱の先に人質櫓と三十間台の壮大な高石垣が目に入った。
この後は天守台に向って道を引き返した。
二の丸に上ると、「天守台」の標柱が建っていた。 その奥にある石垣が天守台で、築城当時は三重天守が建っていた。
天守台を右に見て、崩れかけたところを上ったところには「三十間台」の標柱が建っている。
ここが本丸の三十間台で、世間台ともいい、津和野の城下町を一望できる場所だった。
その左手には門の石垣が残っているが、そこをくぐると「太鼓丸」の標柱が建っていた。
太鼓丸の門跡の右側を下ると、天守台の標柱がある二の丸跡まで戻ってきた。
この下の二の丸石垣が一段低いところに細長く続く腰曲輪があり、
太鼓丸の石垣下に位置する隠門まで続いているのだが、現在は閉鎖されていた。
以上で城跡の散策は終了したので、リフトで駐車場まで戻り、下に降りて行く。
江戸時代の津和野藩邸は山麓に置かれた。 県立津和野高校の対面に嘉楽園があり、説明板がある。
「 嘉楽園は旧津和野藩主亀井家の藩邸があったところで、
当時の藩邸は南北三百メートル、東西百四十メートルに渡り、北側に建物、南側に庭園が築かれた。
明治の廃藩により、建物は解体され、北側は津和野高校の敷地(グランド)になり、
この庭園跡がわずかに往時の面影を偲ばせている。
庭園は藩校養老館初代学頭の山口剛斎により嘉楽園と命名され、池泉、築山やあずま屋等があり、
周囲の景色と調和した名園であったと伝えられている。 」
園内にある白壁の建物は弥栄神社で行われる祭礼等の催し物を藩主が見物した物見櫓で、
ここに移築し保存されている。 また、津和野高校の一角に津和野城の馬場先櫓が残っている。
以上で津和野城の見学は終了した。
津和野城へはJR山口線津和野駅から徒歩20分でリフト登り口、リフトを降りると徒歩約15分で本丸
津和野城のスタンプは津和野観光リフトの茶屋に置いてある