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内堀に架かる遊亀橋を渡った先は枡形虎口で、江戸時代には追手門があり、守りを固めていたところである。
右側に「勧業試験所跡」の標示があり、現在は自由広場となっているが、ここが鍛冶曲輪跡である。
江戸時代には年貢や作事、普請(工事)に関する事務を取り扱う建物があったところである。
左側には日本庭園と管理事務所があり、ここで日本100名城のスタンプを押した。
これらの正面には天守曲輪の石垣と稲荷曲輪などの石垣があり、本丸を守っている。
鍛冶曲輪跡の広場を進むと右側に「数寄屋櫓跡」の表示板と説明板がある。
「数寄屋櫓は別称巽櫓、城内で最も東に建てられた櫓で、明治初年までは残っていた。 」
左手には「石切場跡」の表示もあるが、この城は安山岩の岩山の上に造られていて、
石切り場には石垣の石を切り出す際の矢穴が残っている。
また、明治天皇の詠まれた歌碑が建っている。
石段を上り、左にカーブする道を行く。
右手の石垣の上に白漆喰で覆われた塀が続いていた。
このあたりが江戸時代の「数寄屋曲輪跡」で、別名、巽櫓と呼ばれていた。
すると両脇が塀で狭くなっているところに出た。 かっては門だったと思われる。
そこをくぐると稲荷曲輪跡で今は広場になっていて、「庄城稲荷跡」の説明板がある。
「 ここには築城以前から一条小山の守護ともいわれる庄城稲荷があった。 現在は遊亀橋の東側に祀られている。 」
左手の奥には高麗門があり、稲荷曲輪門の説明板には、
「 稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門で、発掘調査によって柱の跡などが見つかりました。
享保の火災でも燃えず、明治初年まで残っていたものを平成十一年に復元しました。 」 とあった。
稲荷社跡の案内板の北方の石垣に「二重の石垣」の説明板がある。
「 石垣を解体調査したところ、その背後から石垣が現れ、
積み直しが行われていることが分かりました。
上の部分が先に造られていた石垣で、手前の石垣は奥の石垣を埋めて造られた石垣である。
これら稲荷曲輪の石垣は、城内に残る一番立派な石垣で、東側は高さ十七メートルと関東で最も高い石垣である。 」
この二重石垣は稲荷櫓に続く石垣なので、稲荷櫓を建立された時に築かれたのだろうと思った。
なお、甲府城の石垣は時期により違う。 四百年前の築城当時は野面積み、
江戸中期は切石積み、江戸後期は間垣積みである。
稲荷曲輪の石垣の先に門があったと思われる空間があり、その先に稲荷櫓がある。
説明板「稲荷櫓」
「 稲荷櫓は城内の鬼門(北東)に位置することから、艮(うしとら)櫓とも呼ばれた。
江戸時代には武具蔵として使用されていたもので、絵図や資料に基づき、
南東五間(10m)東西六間(12m)の二階建、入母屋造、瓦葺、白壁の建物を平成十六年(2004)
に復元した。 」
その先の共同トイレ前の四角のコンクリート部分には 甲府城の硝石・火薬を貯蔵する煙硝蔵(えんしょうぐら)があった。
「 発掘調査により、焔硝蔵は地表から1.8メートル程度地下の底部に石を敷き詰め、
建物の基礎としていたという。 煙硝蔵は全国のどの城にまあったが、地下構造で、
特別な防湿構造を持っているのは珍しい遺構である。 」
本丸に向って坂を上る。
坂を上り切ると右側に「本丸櫓跡」の説明板があり、
「 本丸櫓は城内の中心に建てられた櫓で、明治初年までは残っていたが古写真でわかっています。 」 とある。
石垣の下に暗渠があり、「 雨水などが盛土と石垣内に溜まると石垣が不安定になるので、
暗渠は効果的に排水するためのものである。 」 という説明板があった。
この前の空間が本丸跡である。 南西角には大きな謝恩碑が建っていた。
謝恩碑は山梨県が明治天皇から森林をいただいたことを記念して建てたものである。
東側の高い石垣は天守台だが、天守が建てられたか否かの論争があるようである。
「 宝永三年、甲斐国を訪れた荻生徂徠が「峡中紀行」で「 甲府城天守は存在しなかった。 」 と記しているので天守の存在に関しては否定的とするのが多数派だが、 出土した金箔瓦や鯱瓦などは各地で天守のある城郭を築いた豊臣系大名特有のものなので、 一時的ではあるが天守が存在していたという説を唱える人もいる。 」
天守台西面の石垣には、もともと一つだった石材を分割して使った兄弟石が多く見られる。
天守台からの展望は富士山も見え、360度のパロラマになっていた。
本丸の一角には「明治天皇御登臨之阻 山梨県 」 の碑がある。
本丸の西北側にトイレがあり、その先の両側の石垣の間に江戸時代には銅門(あかがねもん)があり、
説明板には 「 銅門は天守曲輪から本丸に通じる西側の門である。
礎石は御城を建てた当時のものである。 」 とある。
門跡を下っていくと、左手(南)にある武徳殿は二の丸跡で、
直進した先の「内松陰門」は、二の丸と屋形曲輪の間にある、切妻造り本瓦葺きの高麗門である。
平成十一年(1999)に復元された。
本丸の南側には、天守曲輪から本丸に通じる左右に石垣を有した二階建ての櫓門がある。
「 創建当初は南門と呼れたが、柳沢氏時代に改称されて、 鉄門(くろがねもん)と呼ばれるようになった。 明治九年(1876)頃に解体されたが、 平成二十五年(2013)に潜戸付渡櫓門として復元された。 」
門から下に降りていくと、天守曲輪跡に出てる。 そこには「中の門跡」の説明板があり、
「 中の門は天守曲輪、本丸に通じる門で、絵図に柵門として描かれている。 」 とあった。
その先には「坂下門跡」の説明板があり、「 鍛冶曲輪と天守、二の丸を繋ぐ門である。
江戸時代の書、「裏見寒話」には城を建てる前にあった一蓮寺の門を使用していた。 」 とあった。
石段を降りると、恩賜林記念館があり、その南西に鍛冶曲輪門がある。
「 平成九年(1997)に復元された薬医門で、楽屋曲輪と鍛冶曲輪を結ぶ門で、 切妻造で本瓦葺きの一間一戸の四脚門である。 」
鍛冶曲輪門を出た車道の対面にあるのが、山梨県庁と防災新館である。
前回訪問した時は東横インの駐車場に入れたが、今回はここの有料駐車場に停めた。
防災館の地下に石垣展示室があった。
「紹介文」
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「 新館の建設にあたり、発掘調査をすると、甲府城が築城された四百年前の内掘に面した石垣の一部が発見された。
この石垣は楽屋曲輪や追手門(大手門)の位置を示すとともに築城当時の築城技術を伝えるものである。
この展示室には約十三メートルを移築し、展示している。
山梨県庁は甲府城の楽屋曲輪と屋形曲輪の一部を利用したもので、
明治三十三年(1900)に建設された甲府中学が昭和三年(1928)に移転した後に、建築された。
防災館は甲府城内掘の南西に位置する。 」
甲府城のニの堀内は、現在の甲府駅北の藤村記念館から南は県庁の南までが領域で、 明治期に約六万坪あったが、現在残る部分(舞鶴城公園)は二万坪である。
「 現在、舞鶴公園として城跡が残っているのは、本丸と二の丸、天守曲輪、鍛冶曲輪、稲荷曲輪
跡と駅東北部のみで、西側にあった清水曲輪、屋形曲輪、楽屋曲輪は甲府駅、山梨県庁
などになり、遺跡は土の中にある。 」
駅に向って、歩いていくと、駅をまたぐ陸橋からは稲荷櫓が見えた。
駅北口広場は甲府城の清水曲輪跡である。
その右手にあるのが山の手門で、門横に「石垣」の説明板がある。
「 石垣は検出遺構や明治期の古写真等を参考にして、 自然石を積み上げる野面積みを基本にしながら、 中に粗く割った石を取り混せて様々な大きな石をバランス良く配置して築き上げています。 石積みの隙間には詰め石を施します。 大手門から入った正面には、鏡石として巨石(畳2畳約8t)を配置しています。 「学只堂年録」絵図に記されている「高さ一丈五尺(15尺=1.5m)」をもとに石垣を積んでいます。 石段も記されている段数に基づいて復元しており、きつい勾配になっています。 」
以上で、甲府城の探勝は終了である。 思った以上に大きな城だったことが分かった。
甲府城へはJR中央本線甲府駅南口から徒歩約5分
日本100名城の甲府城のスタンプは舞鶴城公園稲荷櫓(9時〜16時)と舞鶴城公園管理事務所(8時30分〜17時)にある