|
館の広さは周囲の堀を含めて東西約二百メートル・南北約百九十メートル、面積は約一万
四千坪(約4.6万u)だったという。
城構えは外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中央に東曲輪、中曲輪からなる主郭と
西郭、入口の両側に隠居曲輪と味噌曲輪、後方に家臣屋敷と梅翁曲輪等の副郭を配置した
平城形式であった。
また、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を
配した構造になっていた。
信虎は館の回りに家臣の屋敷を建て、穴山梅雪、板垣信方、高坂弾正、
小山田信茂らの重臣たちの屋敷が連なっていた。
さらに、館の南方に京都を意識した格子状に整備された城下町を造り、
有力国人の城下町移住を行っている。
城下の出入口である東西には市が所在し、城下西部には天文五年(1536)には開設された
八日市場が、城下東部には大永六年(1526)には開設されている三日市場があった。
躑躅ヶ崎館は平地の館であるため、戦闘の時は不利なので、
館の北方二キロの積翆寺にある標高七百七十メートルの要害山に、
永正十七年(1520)に詰の城として要害城を築いた。
武田氏館は一辺二百メートルの正方形の主郭(東曲輪と中曲輪)と西曲輪、その周囲は幅十間の水堀と
土塁(石積み)で守られていた。
「躑躅ヶ崎館(武田氏館)跡」の案内板の武田氏館配置図によると、
東曲輪の現在宝物殿があるあたりに御番所、その奥に毘沙門堂、不動堂、庫裏があったようである。
宝物殿では武田氏ゆかりの品が展示されていて、日本100名城のスタンプが入口に置かれている。
宝物殿の近くに「信玄公御使用の井戸」と書かれた井戸が残っている。
「 武田氏館跡には往時のままの場所にあると伝えられている井戸が二ヶ所あり、 もう一ヶ所は、神社の西隅の社務所近く、信玄の子息誕生の際に産湯に使用されたと伝えられる「姫の井戸」と呼ばれる井戸がある。 」
武田神社は右から拝殿、菱和殿、社務所と並び、その奥に本殿がある。
拝殿辺りが武田氏館の本主殿、主殿、膳所跡でり、政務が行われる場所だった。
その奥の本殿が、奥方などが住む当主の日常の居住空間で、
中曲輪には子供など育児などに充てられていたようである。
社務所の先を奥に進んだところに石垣があり、天守跡と伝えられる。
拝殿の前の能舞台と芝生広場の地下には武田氏館時代の庭園跡が残っている。
「 発掘調査では、立石や池の跡、白い花崗岩と黒色の粘板岩を散りばめた洲浜などが検出された。
この庭園は土塁越しに眺める富士山を借景にしていた、と思われる。
その先の参道のあたりはかっては南土塁と水堀で、これらで館を守っていた。 」
今は参道となり、その先に大きな鳥居が建ち、急な石段がある。
「 大正八年(1919)、武田氏館跡に武田信玄を祀る武田神社の本殿を建立した時、
五十二間続く南土塁の一部を崩し、正門を新たに造ったが、
その際、三重構造の原型の大半が崩されてしまったといわれる。
石段の両側の石積の修理の際の調査で、
土塁は屋形が築かれてから廃絶までに堀や土塁の修理や拡張が5回にわたっていることが判明した。 」
赤い神橋を渡り、右折して堀に沿ってすすむと、右側にみその橋という小さな橋がある。
その先にある鬱蒼とした森の島が西曲輪跡である。
「 信玄の嫡男、義信の新居として増築されたところで、今川軍の侵攻を巡り、 今川義元の娘を妻とする義信との親子のいさかいが起き、義信は幽閉され、自害に追い込まれ、 義信の妻は今川家に返された。 それ以降、西曲輪は人質曲輪ともいわれたようである。 」
今はお屋形さまの散歩道という名がついた遊歩道がある。
この橋を渡らず、堀をぐるーと南から西、そして北側まで行く。
西曲輪は堀の向うに鬱蒼とした森のまま続き、特に見るものはない。
道路の反対には相川小学校と神社の第1駐車場がある。
民家の手前に「お屋形さまの散歩道」の表示があったので、中に入っていった。
すると左側の畑のようなところで発掘調査が行われていた。
ここは西曲輪の北の兵糧を保管した味噌曲輪跡のようである。
石垣で畑のようになっていたので、担当者に聞くと武田氏館はその後、宅地や畑に変り、
この場所も畑にするため、手を加えられてきたという。 今後、調査結果の発表が楽しみである。
奥に見える山に要害山があり、武田氏館の守りの山城が築かれたところである。
近くに吊り下げられた絵図によると、このあたりは味噌曲輪と西曲輪の虎口(出入口)である「馬出し」の跡であった。
また、「 建設初期の武田氏館は主郭のみであったが、
豊臣政権下まで曲輪の増設や改修を繰り返し、現在の姿になり、曲輪を囲む土塁や堀も拡張され、
居館から城郭への変遷をうかがうことができる。 」 との説明があった。
その先の左手に続く空地には稲荷曲輪と無名曲輪、その先には信玄の母、大井の方の居所である御隠居曲輪があったと思われる。
「御隠居曲輪スポット公園」の石標を見付けた。 案内板などがないので推定だが、
先程の絵図によると、北側が御隠居曲輪で、隣の茂みのあたりに主郭に入る枡形虎口があったようである。
堀に沿って南に下っていくと、左側に竜華池があり、右側は武田氏館の堀であるが、水は入っていない。
武田神社に入る橋が架かっているが、その先が武田氏館時代の入口、大手門があった場所である。
その反対には「武田氏館跡大手」という説明板が立っている。
「 現在地は戦国時代の武田氏館の正門にあたる大手に位置しています。
大手の発掘調査では、大手門を守備するために置かれた大手石塁が検出されるともに、
その下層から武田氏の時代に築かれたと考えられる三日月堀などが発見されています。 そのため、
大手の整備では武田氏滅亡後に甲斐を支配した豊臣秀吉によって築かれた大手石塁などを復元整備しました。 」
右側一帯は史跡調査された場所で、大手門東史跡公園になっている。
大手三日月堀は武田氏滅亡後に築かれた大手石塁と重複する位置から発掘された半月状の堀跡である。
説明板「 三日月堀と大手石塁」
「 三日月堀は丸馬出と呼ばれる城館の出入口を守る施設の一部として築かれたもので、
本来は内側に土塁を伴っていたと思われる。
丸馬出は、武田氏が支配した長野県や静岡県、群馬県北西部などの城郭に数多く存在することから、
武田氏が用いた築城形式の一つと考えられている。
大手三日月堀の範囲は、全長約三十メートル、堀幅約四メートル、深さは約二メートルとあった。
大手石塁の下塁に埋もれていたこともあり、古絵図や文献にも記録されず、
発掘調査以前はその存在が確認されませんでした。
発掘調査の結果、大手三日月堀は堀の中に多数の礫石が投げ込まれた状態で発見されましたことから、
真上の大手石塁との関係を考慮すると、武田氏から徳川氏、豊臣氏に領主交代によって人為的に埋め戻され、
破却された、と考えている。
大手石塁は、武田氏館の正門である大手門を守るために築かれた総石垣の構築物である。
二箇所に階段が取り付けられていることから、上部には何らかの構築物があったと考えられる。
石垣は自然石を横方向に配置することを意識して積み上げられた野面積みで積み上げられており、
裏側には石垣の安定と排水と意図した無数の栗石が詰め込まれている。
主に安山岩が使用されているが、花崗岩なども混在することから、近隣で産出する石材が集められたと考える。
石材には矢穴などの加工がないのも特徴の一つである。
このような栗石を有する石積みの技術は、戦国時代の甲斐には存在しなかったので、
武田氏滅亡後の徳川氏か豊臣氏配下の大名によって築かれた可能性が高い。
現在の姿は古地図などを参考にして欠損部分は積み直し、破損、劣化が著しい箇所は解体修理し、
往時の姿を復元した。 」
史跡公園に入ると、中央部に「厩跡」の説明板がある。
「 武田氏館跡の大手門を守備するために築かれた大手石塁の南側で発掘された建物跡は、
地面に柱を埋めて建てられた掘立柱建物跡である。
建物跡中央に位置する三基の長方形の柱穴からは、柱を据えるための礎板が出土した。
江戸時代初期に成立した「匠明」に記された厩(うまや)の建物形式に酷似し、
甲州市恵林寺所蔵の「甲州古城勝頼以前図)にも、
現在地付近に「御厩」の表記があることと合わせて、外厩と考えられる。
時期的には大手石塁の東端部延長線上に計画的に建てられたと考えられることから、
武田氏滅亡後に存在した厩であると推測される。 」
更に東に進むと、惣堀と土橋があり、案内板が建っているが、ここは惣掘北側虎口跡である。
説明板「惣掘北側虎口跡」
「 武田氏館の正面玄関にあたる大手東側一帯には惣掘と土塁で囲まれた曲輪があり、
総掘は古道の鍛冶小路に面して南北二箇所の土橋が架かっていた。
土橋は貞亨三年(1686)の古府中絵図に描かれているので、江戸前期にはすでに存在していたようである。
土橋の手前の石階段は大手東側に築かれた曲輪の虎口と考えられ、
その規模は全長約二十二メートル、幅約六・二メートルと推計されたが、
門の礎石などは確認できなかったが、階段上にあった可能性が高い。
なお、戦国時代の石階段は保護のため埋設し、その上に同じような形で復元した。 」
前回訪問した時と違い、発掘調査が進んでいるので、北側の遺跡の復元が今後行われるのだろうと思った。
武田氏館へはJR中央本線甲府駅からバスで約8分、武田神社下車、徒歩すぐ
武田氏館のスタンプは武田神社宝物殿にて