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甲府から高速道路で、韮崎ICで降り、穂坂橋を渡り、
小高いところ(七里岩)にある韮崎市民俗資料館(韮崎市藤井町南下條786−3)へ。
ここで続日本100名城のスタンプを押した。
七里岩ライン(17号線)を北上すると、左側に小高い山があり、ここが新府城跡である。
少し先の右側に駐車場があったので、そこに車を停めた。 歩いて少し戻ると、
「新府城跡出構」の説明板があった。
「 出構(でかまえ)は城の外郭の一部を長方形に堀の中へ突出させた大型の土盛構造である。
東西に約百十メートルへだてて平行に二本(東出構・西出構)が築かれている。
城の裾に沿って掘られた堀は幅約七メートル、深さ約二・五メートルの断面逆台形をした箱堀で、
その外側には湿地帯が広がり、深い堀と湿地帯を含め防衛施設となっている。
出構は新府城跡のみにみられる施設で、鉄砲陣地とも堀の水位を調整するためのダム的な施設ともいわれるが、
その機能は解明されていない。 」
その先に見えるのが、出構と堀跡で、黄葉して先に乾門があったようである。
道路に沿って進むと、「史跡新府城跡」の石碑と「国指定史跡新府城跡」の説明板が立っている。
説明板 国指定史跡「新府城跡」
「 新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正九年(1581)春、武田勝頼が甲斐府中として
城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、部将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。
勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、藤崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、
これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。
築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後の八ヶ月余りで竣工した。
ついて、城下町も整ったので、新府韮崎城と名づけ、同年十二月、甲府からここに移り、
新体制を築いたのであった。 しかし、戦局は日に日に悪化して、翌年三月、
勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、
天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。
廃墟と化したこの城も、同年六月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、
家康はこの城跡を修築して本陣とし、われに五倍する兵を率いて若獅子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き
名城新府の真価を発揮したのである。
この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、
その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は城外から俯瞰されないことで、
縄張りの特徴は北方に東西二基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、
従来の城郭には見ることができない斬新な工夫である。
現存する主な遺構は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三ヶ月堀、馬出、北に出構、搦手口、
東に稲荷曲輪、帯曲輪があり、北から東に堀が巡らされている。
史跡指定区域は約20ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、
この外側には部将らの屋敷跡と伝えられる遺構、遺跡が散在している。 」
藤武神社の石段があるので、上っていくと鳥居の前には「参道(乙女坂)」の表示があった。 このあたりに稲荷曲輪があったのか、と思った。
「 新府城がある韮崎は甲府盆地北西端に位置しているが、 戦国期に拡大した武田領国においては中枢に位置し、府中よりも広大な城下町造営が可能だったと考えられる。 また、七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ、天然の堀となる要害であり、 江戸時代の韮崎は甲州街道や駿州往還、佐久往還、諏訪往還などの諸街道が交差し、 釜無川の水運(富士川水運)も利用できる交通要衝として機能していることも、 新城築造の背景にあったと考えられる。 」
石段の先に新府城守護神である新府藤武神社の社殿がある。
藤武神社の北西には石祠の武田勝頼公霊社と武田十四神霊碑が建っている。
「 部下の反対を押し切って移転した勝頼だが、 新府城で新年を迎えた天正十年(1582)、武田親族衆の木曾義昌が織田信長に通じて反逆したため、 義昌追討の兵を出すと、信長はそれを待っていたように兵を出したので、 最前線を守っていた信濃勢の中から寝返るものが続出し、多くの城が戦わずして織田軍に降伏し、 さらに駿河口の穴山梅雪が江尻城を明け渡し、奮戦していた高遠城も落ち、新府城に織田軍が迫ってきた。 三ヶ月後の天正十年(1582)三月、勝頼は小山田信茂の岩殿城(大月)に移るため、 新府城に火を放って岩殿城に向った。 僅か三ヶ月の在城だった。 」
説明板を見ると、 「 武田勝頼公霊社は武田氏滅亡後、当地方民が国主の恩徳を追慕し、
石祠を建立し、勝頼の心霊を納め之を祀り、毎年卒亡の当日は慰霊祭を行い、
「お新府狭間」と呼び、藤武神社とともに地元民に親しまれてきた。
勝頼神社の建立は貞亨、元禄(1684年)の頃と言い伝えられている。 」 とあった。
囲いの中の中央に石祠があり、左の石碑には「勝頼朝臣霊位」と書かれている。
右の石碑の文字は分らなかった。
その左手に「 小塚 長篠役陣没将臣墓 」と書かれた石碑が立っていた。
「 新府城は南東六百メートル、東西五百五十メートル、 外掘の水準と本丸の標高差は八十メートルの平山城で、近世城郭のような石塁は用いず、 高さ約2.5mの土塁を巡らしている。 最高所は本丸で、東西九十メートル、南北百二十メートル、本丸東に稲荷曲輪があり、 本丸の西に蔀の構を隔てて、二の丸があり、馬出に続く。 」
その奥の空地に「国指定史跡 新府城本丸跡」の標柱が立っている。
藤武神社の境内一帯は、新府城の本丸(本曲輪)跡である。
本丸(本曲輪)は、標高は五百二十二メートル、広さは東西九十メートル、
南北百二十メートルで、周囲に土塁がめぐられていた。
その先に「二の丸↑」の標柱がある。
「 二の丸(二の曲輪)は本丸の西側の一段低くところにあり、東西五十五メートル、 南北七十五メートルの長方形の曲輪で、曲輪の周りは土塁がめぐり、三ヶ所の虎口(出入口)があったようである。 」
中に入っていくと草が生い茂っているだけで、当時の様子は確認できないが、
周囲の盛り上がっている部分は土塁だろう。
二の丸を北方に下ると横矢掛りの防塁(前述の東西出構)があり、その外側に堀を巡らしていた。
二の丸の北東の虎口は城の北部に出るもので、乾門枡形虎口に行くものである。
二の丸の南側の虎口は馬出に通じるもので、先程入ってきたところが本丸から二の丸へ入る南東部にある虎口と思った。
二の丸の南にあったのは「馬出↑」の標柱だが、これは二の丸と本丸を守る防御施設の馬出しである。
二の丸と南の馬出の先に食違虎口があった。 二の丸の南側に曲輪があり、その虎口で、
現在、砂利道が虎口の一部を通っているが、土塁を観察すると食違虎口の存在に気が付くことができる。
新府城復元想像図を見ると、本丸の南にシトミの構えと腰曲輪があり、
その下の下がったところにあったのが東の三の丸(東の三の曲輪)、西の三の丸(西の三の曲輪)である。
「馬出↑」の標柱から進むと「西三の丸↑」の標柱があるが、その方向はすっかり草に覆われて侵入はできない。
以前この中にあったことを示しているのかも知れないが、表示のみである。
その下にある「三の丸」の説明板には 「 東三の丸と西三の丸があります。
2つの間は直線的な土塁で区切られています。 一部を発掘調査をしましたが、
建物などの痕跡を明確に発見するには至っていません。 」 とあった。
「西三の丸↑」の標柱の先、回りながら下っていくと、「南大手門↑」の標柱があった。
「南大手門↑」の説明板によると、大手門(枡形虎口)を出たところ、丸馬出しがあったという。
大手門の前に築かれた馬出しは城門の前に築き、人馬の出入りを敵に知られぬよう、
また、城の内部を見通せないようにした土手で、馬出しは甲州流築城法の特色である。
ここには望楼台(物見などともいった展望台)も設置され、
甲府盆地や富士川河谷一帯を監視していた場所である。
大手門の外には丸馬出しと三日月堀があり、大手門を出ると作事用陣屋を経て、甲州街道に通じていた。
大手門に出るように行かず、山裾を左に回ると、地面に「帯曲輪」の標識が置かれていた。
なんらの説明もないので、規模などは分からないが、左側は東三の丸で、
右側には土塁で囲まれ、その下は前述の復元想像図によれば水堀だったようである。
腰曲輪の北側の左に広がっていたのが腰曲輪で、三の丸と大手の間には、帯曲輪、
本丸と東西三の丸の間には腰曲輪があったとされる。
「新府城跡周遊道路完成記念碑」 があるが、現在は山頂まで行く道は閉鎖になっていて、
「駐車場この先100m→」 が建っていた。
道標に沿って進むと、車道に出た。 道の右側に数台分の駐車スペースがあった。
小生はここには停めなかったので、藤武神社参道入口を見、ここから上りだしたことを確認しながら、駐車場に戻り、
新府城の見学を終えた。
新府城へはJR中央本線新府駅から徒歩15分(藤武稲荷神社)
新府城のスタンプは城跡からは離れた韮崎市民俗資料館にある。
(韮崎市藤井町南下條786−3 9時〜16時30分。 休館日は月曜日、木曜日の午前)
猿橋
これまで数多く、中央道を走り、交通渋滞が猿橋鉄橋近くに起きる放送を聞きながら、
猿橋はなにか確認しないまま今日に至った。
今回、山梨、長野の100名城を巡るついでに立ち寄ることにした。
訪れたのは令和元年(2019)十一月十九日の朝である。
説明板「名所 猿橋」
「 昔、推古帝の頃(600年頃)、百済の人、志羅呼(しらこ)が
この所に至り、猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造ったという説がある。
史実の中では、文明十九年(1486)二月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、
猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れている。
応永三十三年(1426)、武田信長と足利持氏、
大永四年(1524)、武田信虎と上杉憲房との合戦の場になった猿橋は、戦略上の要地でもあった。
江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州街道の要衝として、
御普請奉行工事(直轄工事)にて九回の架け替えと十数回に及ぶ修理が行われてきました。
この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。
昭和七年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け、今日に至っています。
昭和九年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、
その後も名勝として生き続けています。
今回の架け替えは、嘉永四年(1851)の出来形帳により架けられており、
江戸時代を通じてこの姿や規模でありました。
昭和五十八年着工、昭和五十九年八月完成、総工費三億八千三百万円であります。
橋の長さ、三〇・九メートル、橋の幅、三・三メートル、橋より水際まで三〇メートルです。
」
橋の手前に「山王宮」の赤い鳥居と小さな祠があり、その脇に猿の銅像が祀られていた。
説明板 「三猿塔の由来」
「 奈良朝の昔、此辺の交通は至極難渋であって、
此渓谷を渡る事などは思いもよらなかった。
茲に桂川渓谷は、奥は小金沢から大菩薩峠に続く大幽谷で、当時このあたりは老樹鬱蒼なほ暗き原始林におおわれていた。
猪鹿やことに山猿は群をなしていた。
或日白毛の老猿が黷フ枝に吊さがると、子猿共は互に手足をつないで向岸の藤蔓に飛つきながら、
懸橋の形となりそれをたよりに両岸を往復した。
之にヒントを得た百済の造園の博士芝○麻が構築したのが日本三奇橋の一つと呼れる茲の猿橋であると云う伝承から、
現在白猿の霊像が祀られている。
茲に三猿の塔を造成、その霊徳を萬世に伝えることにした。 」
野口雨情は 「 甲州猿橋 お山の猿が お手々つないで かけた橋 」
という句を詠んでいる。
山王は猿の神である。
「 猿橋は上記の逸話から名が付いたというのが定説だが、
工法からの桟橋が訛って猿橋になったという説もある。
肘木桁式という工法を用い、普通の橋のような橋桁を用いず、
両岸から四層にせり出したはね木を設け、
それを支点に木の桁を架け渡す構造になっている。 」
「名勝猿橋架替記念碑」の隣に「明治天皇御召し換所址」の石碑を見付けた。
「 明治天皇は西南戦争後の政情安定のため、明治十三年六月、甲州路、木曽路を経由し、 太政大臣三条実美、参議伊藤博文他三百〜四百人を引き連れ行幸を行っている。 今の国道二十号線でなく、甲州街道を長野原から、鶴川宿、野田尻宿、犬目宿、鳥沢宿 を経由し、猿橋に至り、ここから笹子峠を越える難路を行った。 馬車での移動でここでは御召し換えを行われたのだろう。 」
国道20号の入口には「猿橋宿」の標柱があったが、
本陣も脇本陣を持たない旅籠だけの寂しい宿場だったようである。
山王社の近くの大黒屋も宿屋だったようで、現在は蕎麦屋だが、
店先に「国定忠治定宿」とあり、
「 役人に取囲められたのを尻目に野鳥入りの蕎麦をたいらげ、
追う役人達から桂川の雨後の激流に飛び込み、逃げきった。 」 とあった。
橋を渡った先には 「 うき我を 淋しからせよ 閑古鳥 はせを 」 という
松尾芭蕉の句碑がある。
所在地: 山梨県大月市猿橋町猿橋
猿橋へはJR中央線猿橋駅から徒歩15分
中央道大月ICから車で、国道20号を経由、約15分