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東曲輪跡からは西方に天正十八年(1590)小田原合戦の時に豊臣秀吉が本陣に据えた石垣山一夜城を望むことができる。
さらに、東には天守閣を中心に周囲に広がる小田原城下を望むことが出来るなど、
小田原城の歴史の舞台や城と城下町の様子を通じて、戦国時代、
江戸時代の小田原城の歴史を知る上で、大変貴重な場所で、
国の史跡に指定された。
石垣造りの現在の小田原城は、
寛永九年(1632)に稲葉正勝により始められた大改修による。
「 天正十八年(1590)、二十二万もの兵を率いて小田原へ進軍した豊臣秀吉により、
八王子城などの周囲の城が攻め落とされ、食料を断ったため、小田原城は戦うことなく落城。
秀吉は家康の家臣の大久保忠世に小田原城を四万五千石の領地として与えた。
文禄三年(1594)、大久保忠世が死ぬとその子、忠隣が六万五千石で小田原藩の初代藩主になったが、
慶長十八年(1614)、突然改易になる。 改易の理由ははっきりしない。
徳川家康は、自ら数万の軍勢を率いて、総構の一部を除き、撤去させ、
小田原城は本丸を除き、破却された。
これで北条氏が築いた小田原城は消えた。
忠隣の跡を継いたのは、家光の乳母、春日局の子の稲葉正勝である。
小田原城は大久保忠世の時代に近代的な城郭に整備されたが、
現在のような総石垣の城になったのは、
寛永九年(1632)に稲葉正勝により始められた大改修後である。
北条氏時代の居館部分を小田原城の主郭部分として利用し、
更に現在の小田原城址公園及びその近辺に領域を拡大し、
主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城を構築した。
この時、北条氏が築いた八幡山の曲輪部分は使用されず、放置された。 」
東曲輪跡から青橋交叉点に出て、JRの陸橋を渡り、青橋東側交叉点の先を左に下り、
旭高校の手前から城内に入る。
すると、塀に囲まれ、「御用米曲輪修景整備工事」の看板が掲示されている。
説明板「御用米曲輪」
「 御用米曲輪は小田原城の北に位置する曲輪で、
江戸幕府の米などを納める蔵だったことから、その名で呼ばれた。
江戸時代の絵図には最大六棟の蔵が描かれていて、
発掘調査で北東側の土塁の上から三棟、曲輪内から三棟の蔵跡が発見された。
蔵には米の他、弓矢や鉄砲などの武具や馬具、大豆や籾、小豆、塩、アラメ(海藻)などが収められていた。
また、この曲輪跡からは戦国時代の素焼の土器であるかわらけが大量に見つかった。 」
「 江戸時代、稲葉正勝により築城された小田原城は、
本丸を中心に東に二の丸および三の丸を連ね、
本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、
北に御蔵米曲輪を設け、四方の守りを固めた総石垣造りの城である。
更に小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、
二の丸北側に弁才天曲輪と四つの小曲輪が設けられた。
本丸に天守と桝形の常磐木門、二の丸に居館、銅門、平櫓が設けられ、
小田原城全体では城の門が十三、櫓が八つ建っていたと考えられている。 」
御用米曲輪跡からは天守が見える。
「 小田原城天守は、一階建の小天守、続櫓、三重四階の大天守からなる複合天守である。
大天守は見た目は三重だが、一重目は二階に別れており、四階建の天守となる。
天守の高さは二十七・二メートル、天守台の石垣の高さは十一・五メートル、合わせて三十八・七メートルの高さである。
一重の屋根には出窓の上に切妻破風と千鳥破風が施され、出窓は三ヶ所にあるが、
太平の時代を反映したのか石落しは設けられていない。
二重目の屋根には比翼千鳥破風と軒唐破風が、
入母屋造の屋根には入母屋破風と軒唐破風、鯱がいる。 」
説明板「小田原城天守」
「 小田原城天守は六十年〜七十年周期で訪れる震災の度、
再建、修復を繰り返してきた。
北條の時代、天正九年(1581)から天守が存在したという説もあるが、
寛永十年(1633)の震災まで存在した初代、
寛永十年より再建された二代目、明治三年(1870)に取り壊された三代目と、
三代に渡って存在したのではないかと言われている。
寛永十一年(1634)、三代将軍徳川家光が天守からの眺めを楽しんだとの記録があるように、
江戸時代の小田原城は徳川将軍家の上洛の際の宿所、御成城で、
天守も含めて本丸は藩主ではなく将軍家の敷地として使われていたようである。 」
現在の天守は昭和三十五年(1960)、市制二十周年の記念事業として造られもので、
宝永三年(1706)に造られた天守をモデルに、
本来無かった高覧付廻縁が追加された復興天守である。
小田原城は、明治維新により、建物のほとんどが壊されたが、
建物の一部が復元されている。
二の丸の銅門(あかがねもん)と隅櫓が復元されている。
「 銅門は馬屋曲輪から住吉橋を渡り、二の丸へ入口の門で、
石垣による桝形と内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる堅固な門である。
現在の門は昭和五十八年(1983)から行われた発掘調査に古写真、絵図などを参考にして、
平成九年(1997)に再建されたものである。 」
本丸は堀で囲まれていたが、この掘は二の丸掘とつながる水堀である。
「 発掘調査により、本丸東掘跡が見つかり、 最も幅があるところは二十メートル以上もあることが分かった。 植木と盛土になっているところが掘跡で、 この掘を渡るために架けられていたのが常磐橋で、水鳥の池は掘の名残といえる。 」
その先あるのは常磐門である。
「 常磐門は本丸の正面に位置し、 小田原城の城門の中でも最も大きく、堅固に造られた。 元禄十六年(1703)の大地震により崩壊後、宝永三年(1706)、 多門櫓と渡り橋から構成される枡形門形式で再建されたものが、 明治三年(1870)までは残っていた。 現在の門は明治の写真などを基に、昭和四十六年(1971)に再建したものである。 」
馬出門は、三の丸から二の丸に向う大手筋に位置する門で、
寛文十二年(1672)に枡形形式に改修され、江戸末期まで存続した。
石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門、
内冠木門の二つからなる。
馬出門へ入る手前にある曲輪は馬屋曲輪である。
「 L字型した独立した曲輪で、今は柵になっているが、
かっては周囲を石垣を巡らし、その上に土塁と塀を備え、
土塁の上に登る雁木(階段)は二重櫓両側と南側土塁の位置にあった。
当時の絵図にあるように、この曲輪は三の丸より東側は馬出門、南側は南門を経て、
御茶壺曲輪から二の丸表玄関の銅門へと至る重要な位置にあり、
東西四十七間(約92.6m)南北四十七間(約72.9m)だった。 」
御茶壺曲輪には砂利が敷かれて、馬屋と大腰掛の二棟の建物を中心に、
番所、初石敷井戸があり、南東隅には二重櫓があった。
二重櫓は雄雌の鯱瓦を乗せた上層の屋根は破風のない入母屋造り、
下層は千鳥破風を伴う寄棟造りで、石落しがあった、といわれる。
御茶壺曲輪にはその名の通りで、御茶壺蔵があった。
説明板 「御茶壺蔵跡」
「 江戸時代、徳川将軍家には宇治から茶が献上されており、
御茶壺曲輪には道中で茶壺を保管する御茶壺蔵があった。
小田原は江戸から宇治に向う往路に位置しており、
小田原城に立ち寄る際は空壺がこの蔵に収められたと考えられる。
寛永年間の小田原城曲輪総図には、
その規模六間X四間(約十・九メートルX七・二メートル)ほどで、
入母屋の屋形をのせていたようである。 」
小田原城へはJR東海道新幹線・東海道線小田原駅、小田急線小田原駅から本丸まで
徒歩約10分。
日本100名城の小田原城のスタンプは天守の入口に置かれている。
(天守) 9時〜17時(入館は16時30分まで) 12月第2水休、12/31〜1/1休み
天守入館 510円 天守と常磐木門SAMURAI館共通券 610円