mrmaxの城めぐり 神奈川県2 (石垣山城)


石垣山城は豊臣秀吉による小田原攻めの際築かれた城で、一夜城とも呼ばれた。
続日本100名城の第126番に選定されている城である。 


かうんたぁ。




石垣山城

平成三十一年(2019)二月二十七日、小田原城を見学後、車で石垣山城に行った。 
石垣山城は板橋交叉点からターンパイク入口交叉点に出て、 新幹線ガード下から石垣山農道に入り、登っていくと、左側に駐車場がある。  途中に石垣山に参陣した武将たちの説明板があり、 JR早川駅からのハイキングコースになっていて、徒歩約五十分である。 

「 石垣山城は、 笠懸山あるいは石垣山と呼ばれる箱根から派生する山上にある。  関白豊臣秀吉が天正十八年(1590)の小田原合戦の際に築いた陣城で、 徳川家康の家臣、松平家忠の記した 「家忠日記(六月二十二日)」に「石かけの御城」とあることから、 「石垣山城」と呼ばれている。 
天正十八年(1590)、山中城を落城させた豊臣秀吉は箱根湯本の早雲寺に本陣を構え、 小田原城の西三キロの笠懸山の山頂に城の普請を開始した。  城が完成する三ヶ月、京から能役者を呼んで能を楽しんだり、 淀君ら数人の側室や千利休を始め、何人かの茶人を呼んで、 茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりと、秀吉には余裕があった。  四月から六月まで、延べ四万人を動員し、八十日で構築されたといわれるが、 城が完成すると、本陣を石垣山城に移し、小田原城側の樹木を伐採させた。  十五万人とも二十万人とも云われる大軍に包囲された「小田原城」に籠城していた城兵は、 一夜のうちに城郭が出現したのに驚き、 戦闘意欲を失わせる効果を果たした、といわれる。 」 

石垣山城は石垣や櫓を備えた本格的な近世城郭であり、 関東で最初に造られた総石垣の城である。 

「 石垣山城は駐車場の北面にあり、 本丸を中央に東に二の丸、その下に井戸曲輪、 本丸の西に天守台、その下に西曲輪、南に南曲輪を配している。 
石垣は近江の穴太衆による野面積で、大正十二年(1923)の関東大震災で崩落したが、 駐車場を出て道路を横断した左側にある南曲輪の石垣は比較的良好な状態で残り、 隅石が大きい。 」 

二の丸(馬屋曲輪)は、本丸と並んで最も広い曲輪で、 中心部分、北に長方形に張り出した部分、東の腰曲輪部分の三つの部分からなる。 

「 伝承では馬屋が置かれ、本丸寄りには馬洗い場と呼ばれた湧水があったようである。 
井戸曲輪に行く道直ぐ横には櫓台跡がある。 二の丸跡は芝生広場として整備されている。 」 

二の丸の左側に「これより本丸登口」の道標があり、 それを上ると「門の基台跡」の表示板があるが、確認できなかった。 
その先の更地になっている台地が本丸(本城曲輪)跡で、石垣の高さは十メートル、 本丸の標高は二百五十メートル、面積は約七千五百平米である。 

南曲輪石垣
     二の丸跡      本丸跡
南曲輪石垣
二の丸跡
本丸跡



その先の物見台からは早川や酒匂川に挟まれた小田原の市街地が一望できた。 
本丸の左側(南西部)に行くと高台があり、「天守台跡」の標木があるが、 ここの標高は二百六十一メートルで城内で一番高いが、展望はない。 
その南に西曲輪があるが、天守台からは直接行けないので、 本丸から回っていくと、「門の基台跡」の表示板があり、 石が多数あったがこれが基台跡なのだろうか、分らなかった。 
西曲輪は今は更地で「西曲輪跡」の標柱だけが建っていた。 

物見台からの展望
     天守台跡      西曲輪跡
物見台からの展望
奥に見えるのが天守台跡
西曲輪跡



二の丸に戻り、二の丸から下って北隅に向うと北曲輪で、 展望台からは丹沢、箱根の山々、眼下の家々が眺められる。 
二の丸と展望台の途中に下(南東)に降りる道があるが、 北曲輪から四方を囲まれた石垣を下りたところにあるのが井戸曲輪である。 
石塁は約十メートルの高さがあり、下幅で十一メートルから十八メートル、 上幅で五から八メートル程の規模である。  石垣山城で、石塁はここだけだが、穴太衆による野面の様子が良くわかる。 

説明板「井戸曲輪」
「 井戸曲輪は谷地形を利用して造られた曲輪で、 南側、西側には石垣、北側、東側には石塁が築かれて、その底に井戸が掘られている。  石塁により谷を遮蔽することにより、湧水を貯水する構造である。  今も水は枯れていない。 
湧水部は二の丸から約二十五メートル低いところにあり、 本来は二の丸東部からスロープと階段で降りるようになっていた。  らせん状に降りる構造から「さざえの井戸」とよばれていた。 」 

周囲に石垣を積み上げて、その底に 井戸が掘られているが、 井戸まで下がって石垣を見上げると、石積みの迫力がすごかった。 

北曲輪跡
     井戸曲輪跡      井戸跡
北曲輪跡
井戸曲輪跡
井戸跡



石垣山城へはJR東海道線早川駅または箱根登山線箱根板橋駅からタクシーを使用すれば約10分 
徒歩の場合、JR早川駅から2.3km、 所要時間は1時間半、かなりの上り坂なので、ちょっとしたハイキングとなる 
石垣山城のスタンプは石垣山一夜城駐車場の公衆トイレ横に設置されている 




(ご参考) 小田原合戦と一夜城伝説

「 小田原北条氏を攻めることを決意した豊臣秀吉は、 天正十八年(1590)三月一日に京都を出発し、 四月三・四日には小田原城の攻囲を開始した。  四月六日、箱根の早雲寺を本陣にし、その日に笠懸山(石垣山)に登り、 小田原城を眺望した。  小田原城は周囲九キロにわたり、壮大な掘と土塁で囲まれているので、 力攻めにするのは難しいと判断した秀吉は、 長期戦に備えてこの場所に城を築くことを決意する。  普請は急ピッチに進み、五月十四日には石垣ができ、 広間、天守などの作事に取り掛かった。  六月九・十日には伊達政宗が普請中の石垣山で伺候する。  その時、前日に無かった白壁を「紙で貼ったもの」と見抜き、 秀吉を初めとする諸将に賞賛されている。  六月二十六日、秀吉は石垣山に本陣を移す。  それを期に、秀吉は小田原城へ一斉に鉄砲を撃ちかけさせ、小田原北条氏方を脅かした。 」 

上述の秀吉の行動や政宗の白壁の逸話が、  「大三川志」 の 「 小田原城を遮る大樹を悉く斬る。  小田原城中より是を見て、笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く 」 という記述や、 「北条記」にある 「 面向きの松の枝ども切りすかしければ、 小田原勢肝をつぶし、こはかの関白は天狗か神か、 かように一夜の中に見事なる館出来けるぞや 」  と、書かれるなどして、 一夜城伝説は生まれ、広く流布して行ったのである。 

小田原合戦では、八王子城や忍城などがすでに落ち、 徳川家康などの武将が率いる軍勢が小田原城の周囲を囲み、
兵糧攻めに遭い、城兵の志気は落ちていたところに、城の出現があったので、 これを契機に無血開城になった訳であるが、 人員を総動員して城を築くという秀吉の権威と財力が、 北条氏を降伏させる決定打になったのは間違いない。 





 戻る(城跡めぐり表紙)                              (MR.MAXの世界)へ