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その先の物見台からは早川や酒匂川に挟まれた小田原の市街地が一望できた。
本丸の左側(南西部)に行くと高台があり、「天守台跡」の標木があるが、
ここの標高は二百六十一メートルで城内で一番高いが、展望はない。
その南に西曲輪があるが、天守台からは直接行けないので、
本丸から回っていくと、「門の基台跡」の表示板があり、
石が多数あったがこれが基台跡なのだろうか、分らなかった。
西曲輪は今は更地で「西曲輪跡」の標柱だけが建っていた。
二の丸に戻り、二の丸から下って北隅に向うと北曲輪で、
展望台からは丹沢、箱根の山々、眼下の家々が眺められる。
二の丸と展望台の途中に下(南東)に降りる道があるが、
北曲輪から四方を囲まれた石垣を下りたところにあるのが井戸曲輪である。
石塁は約十メートルの高さがあり、下幅で十一メートルから十八メートル、
上幅で五から八メートル程の規模である。
石垣山城で、石塁はここだけだが、穴太衆による野面の様子が良くわかる。
説明板「井戸曲輪」
「 井戸曲輪は谷地形を利用して造られた曲輪で、
南側、西側には石垣、北側、東側には石塁が築かれて、その底に井戸が掘られている。
石塁により谷を遮蔽することにより、湧水を貯水する構造である。
今も水は枯れていない。
湧水部は二の丸から約二十五メートル低いところにあり、
本来は二の丸東部からスロープと階段で降りるようになっていた。
らせん状に降りる構造から「さざえの井戸」とよばれていた。 」
周囲に石垣を積み上げて、その底に 井戸が掘られているが、
井戸まで下がって石垣を見上げると、石積みの迫力がすごかった。
石垣山城へはJR東海道線早川駅または箱根登山線箱根板橋駅からタクシーを使用すれば約10分
徒歩の場合、JR早川駅から2.3km、 所要時間は1時間半、かなりの上り坂なので、ちょっとしたハイキングとなる
石垣山城のスタンプは石垣山一夜城駐車場の公衆トイレ横に設置されている
(ご参考) 小田原合戦と一夜城伝説
「 小田原北条氏を攻めることを決意した豊臣秀吉は、 天正十八年(1590)三月一日に京都を出発し、 四月三・四日には小田原城の攻囲を開始した。 四月六日、箱根の早雲寺を本陣にし、その日に笠懸山(石垣山)に登り、 小田原城を眺望した。 小田原城は周囲九キロにわたり、壮大な掘と土塁で囲まれているので、 力攻めにするのは難しいと判断した秀吉は、 長期戦に備えてこの場所に城を築くことを決意する。 普請は急ピッチに進み、五月十四日には石垣ができ、 広間、天守などの作事に取り掛かった。 六月九・十日には伊達政宗が普請中の石垣山で伺候する。 その時、前日に無かった白壁を「紙で貼ったもの」と見抜き、 秀吉を初めとする諸将に賞賛されている。 六月二十六日、秀吉は石垣山に本陣を移す。 それを期に、秀吉は小田原城へ一斉に鉄砲を撃ちかけさせ、小田原北条氏方を脅かした。 」
上述の秀吉の行動や政宗の白壁の逸話が、 「大三川志」 の 「 小田原城を遮る大樹を悉く斬る。 小田原城中より是を見て、笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く 」 という記述や、 「北条記」にある 「 面向きの松の枝ども切りすかしければ、 小田原勢肝をつぶし、こはかの関白は天狗か神か、 かように一夜の中に見事なる館出来けるぞや 」 と、書かれるなどして、 一夜城伝説は生まれ、広く流布して行ったのである。
小田原合戦では、八王子城や忍城などがすでに落ち、
徳川家康などの武将が率いる軍勢が小田原城の周囲を囲み、
兵糧攻めに遭い、城兵の志気は落ちていたところに、城の出現があったので、
これを契機に無血開城になった訳であるが、
人員を総動員して城を築くという秀吉の権威と財力が、
北条氏を降伏させる決定打になったのは間違いない。