mrmaxの城めぐり 神奈川県3 (小机城)


小机城は、横浜市港北区小机町にあった室町時代の城で、 関東管領上杉氏によって築城されたとされる。
続日本100名城の第125番に選定されている。 

かうんたぁ。




令和五年(2023)五月二十五日(木)、小机城へ行った。 

小机城の歴史
「 小机城は、横浜市港北区小机町にあった室町時代の城で、 関東管領上杉氏によって築城されたとされる。
城は、小机駅の西北西約一キロの鶴見川に面した標高四十二メートルの城山と 呼ばれる丘陵にあった城で、 現在は小机城址市民の森として整備されている。
永享の乱(1438〜1439)の頃、関東管領上杉氏によって築城されたとされるが、 正確な築城年代は分かっていない。
文明五年(1473)、長尾景春の父・景信が死去後、 山内上杉家の家宰職を長尾景春が継ぐものと誰でもが思っていたが、 主家の山内上杉顕定は景春を嫌い、 景春の叔父・ 長尾忠景に家宰職を継がせた。  これを不満とした景春が主家顕定に反乱を起こしたのが、 文明十年(1478) の 「長尾景春の乱」である。  景春に味方をした豊嶋氏が、小机城に立て籠ったが、 敵方の太田道灌は、 小机城の北東千五百メートル、 鶴見川を挟んで対峙する亀甲山に陣をとり、 約二か月をかけて落城させたとされる。 
小机城戦の時、太田道灌は、近くの集落の松の大木の下に腰掛け、 「  小机はまず手習いの初めにて  いろはにほへとちりぢりとなる  」 と歌を詠んで、味方を鼓舞した。  道灌が歌を詠んだ松は以後、「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て、 横浜市神奈川区羽沢町に現存するという。 
永正十三年(1510)に、三浦道寸の新井城を落した北条氏が、 武蔵に勢力を及ぼすようになると、関東進出の重要な軍事拠点となり、 北条氏綱は城の大改修を行い、家臣の笠原信為を城代にして、 小机衆が組織された。  城主は北条氏秀、氏堯と引き継かれたが、代々笠原氏が城代を務めた。  笠原氏は小机城を中心に、付近の村に僧侶を招き、寺を建立するなど、 城下の整備に力を注いだ。 
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には無傷のまま落城し、 徳川家康の関東入り後に廃城となりました。  江戸時代になっても、笠原氏の子孫は代々この地の付近に住んでいたという。 」

下図は本丸にあった「小机城想定図」である。

横浜マリノスパネル
小机城想定図


JR横浜線小机駅に降りると、ヨコハママリノスのパネルが並んでいた。
小机駅の北口に出ると、右手にあるのが日産スタジアムである。
今回訪れる小机城跡は左折し、横浜線に沿って歩くと、 正面に見える横に伸びる丘陵にあった。 
産婦人科の駐車場がある三叉路で右折し、二つ目の三叉路を左折すると、 右側に「小机城址市民の森」の看板があり、土地所有者十九名、 面積四・五ヘクタールとあった。
その先の交叉点を直進するが、左は横浜線の線路、右側は根古谷集落の 住宅地である。
その先に看板があり、右折すると根古谷集落を横断して、城に通じる道があるのだが、気が付かず直進した。
港北区役所・港北観光協会発行の小机城址ガイドマップによると、 城の麓の根古谷には城主の館や家臣の屋敷があったという。


横浜マリノスパネル
     小机城址看板      右側根古谷集落
横浜マリノスパネル
小机城址看板
左横浜線・右側根古谷集落



正面に横浜線のトンネルがあるが、その上は小机城があった場所である。
歩いてきた道は第三京浜国道の下の三叉路に出る。
ガードをくくると、右に曲がる道があり、その先には石段がある。
小机城跡は第三京浜国道を建設の際、本丸・二の丸部分と 国道を挟んだ西部の「出丸」と呼ばれた部分の間が分断された。
出丸跡には江戸時代に盛んになった富士講が建てたと思われる「富士仙元大菩薩」の石碑が建っている。 

横浜線トンネル
     第三京浜国道のガード      出丸跡の石段
横浜線トンネル
第三京浜国道のガード
出丸跡の石段


第三京浜国道のガードをくぐり、三叉路に戻ると、「小机城址市民の森」の道標があるので、その道を進み、石段を上る。
左側に第三京浜に車が走っているのが見える。
その先に進むと窪みがあり、その先には丸太で作られた上り道になっている。
窪みは空掘跡で、かってはもっと深くあったのではないか、と思った。

道標の先の石段
     第三京浜国道      空堀跡
道標の先の石段
第三京浜国道
空堀跡


上ると右側は竹林で、左側に空地があった。
その先は三叉路で、右側の道は根古谷から来る道で、 左の道は本丸への道である。
二つの道を囲むように深い空堀があった。
左側の本丸に向う道の左側に「←富士仙元 根古谷お手洗→ 本丸広場↑」の 道標がある。

左側に空地
     根古谷からの道と空掘      本丸への道と道標
左側に空地
根古谷からの道と空掘
本丸への道と道標


本丸への道を進むと、道が右にカーブするところの左側に、空堀の説明板があった。

「 空堀(からぼり)
堀は土塁と共に城の守備・攻撃の為の重要な設備で、人工的に作られるものや 地形を利用したものがあります。
この城は水をはらない堀で空堀と呼ばれ、水をはる為に堀の勾配のゆるい水堀よりも 堅固な施設と言えます。 」

ここの空堀は土砂で埋まってしまったのか、勾配が急には思えなかった。
その先には丸太を組み合わせた構築物があり、左側に「ほんまるひろば」の木柱、 右側に小さな「小机城址」の石碑があった。
小机城址」の石碑の先に「本丸(ほんまる)」の説明板があった。

「 本丸は一城の中心にあり、主将のいる所で、 合戦中には、戦闘の指揮が置かれます。
縄張りを行う時、最も防備に主点が注がれます。
城址の調査等実績の少ない小机城については、 現在地が本丸跡とは断定できません。 」

かっては野球などが行われ、遺跡保存に問題があると指摘されていたが、 きちんと整備されているように思えた。

説明板がある空掘
     本丸入口      本丸広場
説明板がある空掘
本丸入口
本丸広場


直進すると二の丸跡であるが、右手に向うと、「←二の丸広場  ↑井楼跡」の 道標があった。
突き当たりにある樹木群の下の土は少し高くなっているので。 かっては土塁が築かれていたのではないか?、と思った。
その先は井楼跡に向う道であるが、左側二つの説明板があった。

 

右側の説明板は「小机城について」で、
「 築城の年代は明らかではありませんが、およらくこのあたりがひらけた十二世紀 以降ではないかと思われます。 
その後、山内上杉家の家臣・長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起した時、 景春に味方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山 (現在の新羽町亀ノ甲付近)に帯陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦いました。
戦いは文明十年(1478)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、 小田原北條の領地となり、四十年間廃城となっていました。
大永四年(1524) 一族の北条氏尭の城となり、笠原越前守が城代として 再興しました。 
小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、 この地は以後、軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏がほろび、 四代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として、200石の知行を与えられ、 近くの台村(緑区台村)に住むことになり、 小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。 」

左側の説明板は「小机城想定図」で、図面がついている。

また説明もあり
「 小机城の縄張
半島形の突き出た丘陵の上部を大きく平に削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、 その並んでいる曲輪の側面に腰 、帯曲輪を築きます。
また、城郭全体を二重の土塁を空掘でぐるりとめぐらす縄張で、後北条氏特有の 築城法と言えます。  類例より後北条、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など、 戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で、県下では茅ケ崎も典型といえます。
縄張と曲輪について
縄張とは、目的が定まった地が決定した後、その広さを決定し、 曲輪の配地、道のつけ方、門の開き方、水の便などを定めることであります。  この地取りと縄張を総称して、「城取」といい、城取は武士が行いました。
曲輪とは城を構成する区画、すなわち削平された地、それぞれ防衛地帯、 兵営の場、館の立地される場をいいます。 」

裏側には横浜市市内城址の分布図があり、中世の城についての説明文があった。

「 中世(九世紀〜十五世紀)に築かれた城は、 天然の地形を利用し、小机城で理解できるように、半島状に突き出た丘陵や 台地の先端部を城地したものが多く、その設備も櫓(やぐら)、木柵などのほか 小規模な土塁(どるい)や空掘(からぼり)の共う程度で、 居館、住館は多くは城外にありました。
横浜市内には、小机城の他、青木城、榎下城、馬堀城、荏田城などがあった、 と言われていますが、調査されたものは榎下城だけで、その他については、 かっての城の位置が推定される程度で、その実態は明らかではありません。
また、中世の城郭は、近世に築かれた大規模な「城」とはその機能、 性格が異なるののと考えられ、城郭史の上でも比較的未開拓の分野と 言われています。 」

道標
     二つの説明板      中世の城についての説明文
本丸右手にある道標
二つの説明板
中世の城についての説明文


その先は低くなっていて、右側に「空掘(からぼり)」の説明板がある。

説明板「空掘(からぼり)」
「 本丸跡の防御と敵の攻撃に対抗するための堀で、 この城址では堀上部の幅十二・七メートル、堀底の幅五・〇メートル、 深さ十二メートルからなる水をはらない空堀です。
空堀の堀幅や深さはまちまちですが、調査によると、 中世の山城は三・〇メートル、平山城は九メートルから十二メートルが、 その平均の堀幅になっています。 」

今歩いている道の部分は空掘の中に畝状に盛り上がっているが、 当時からそうなのか、歩きやすいようにするため最近そうしたかは、 説明はなかったので分からなかった。
その先に階段があり、盛り上がっている場所に上っていく。
上りきると今度は下る階段があり、その先に休憩ができる木製の椅子が見えた。
階段を降り、振り返ると左側に「小机城址市民の森」、 右側に「土塁(どるい)」の説明板があったので、盛り上がっているは 土塁であることが分かった。 

空掘の説明板がある
     土塁      土塁
空掘の説明板がある空堀跡
土塁(盛り上がっている場所)
階段と説明板


その先には「せいろうあと」の木柱が建っていた。
その先には横に枝を伸ばした樹木があり、広い空地になっていた。
井櫓には武器を保管する兵器庫があったといわれている。
二の丸に通じる階段の手前に「櫓台(やぐらだい)」の説明板がある。

説明板「櫓台(やぐらだい)」
「 一城には、数箇所の櫓台が置かれています。  この櫓台跡もその一つで、土塁と連続して作られていました。
現在は畑地として土塁は取りさられていますが、昔は井楼跡より、 二の丸広場に通じる散策路の上に土塁が作られていました。 」

「せいろうあと」の木柱
     空地      土塁
せいろうあと」の木柱
空地
階段と「櫓台」の説明板


両側が空堀であると思われる散策路を進み、階段を降りていく。
前述の説明板にはここに幅十数メートルの土塁があったとされ、 ここが小机城で最も高いところで、物見櫓の櫓台があり、 城域全体を監視すると共に、南側から東郭と西郭に侵入してきた敵に対して、 側面攻撃を行う、防御施設としての役割も持っていた。
階段を降りると、「二の丸広場」の木柱と休憩用の木の椅子が見えてきた。
二の丸広場には「二の丸(にのまる)」の説明板があった。

説明板「二の丸(にのまる)」
「 現在地は二の丸と呼ばれていますが、資料不足の為、明確に二の丸と 断定できません。 二の丸は、本丸を直接守備する役割があり、 縄張りのとき、本丸の守備や防衛にも主点が注がれます。 」

散策路(土塁跡)
     「二の丸広場」の木柱が見える      二の丸跡
散策路(土塁跡)
「二の丸広場」の木柱が見える
二の丸跡


二の丸広場の先から下に降りていくともうそう竹が多く植えられていた。
下に降りきると東郭と西郭を大きく囲うように遊歩道があるが、 かっては東郭からつなぎ郭、西郭まで大きく囲うように、空掘が築かれていたので、 その跡であろう。
途中に「モウソウチク(孟宗竹)」の説明板がある。
その先に「←二の丸広場 ↑ 井楼跡 本丸広場→ 」の道標があり、 前述した内容と同じの「空掘」の説明板が建っていた。
直進すると階段があり、上ると本丸広場に出たので、 今回の城の探訪は終了し、城郷小机地区センターに立ち寄り、 名城スタンプを捺印した。

モウソウチク林
     空掘跡・道標      名城スタンプ
モウソウチク林
空掘跡の散策路・道標
名城スタンプ


小机城へはJR横浜線小机駅で下車し、北口から横浜線に沿って歩き約15分 程度で入口に到着する。
小机城のスタンプは小机駅南口から右に少し歩いた石城郷小机地区センターに置かれている。
小生が訪れた時は1階入口にスタンプ台があり、「小机城址ガイドマップ」と 共に置かれていたが、ない場合は二階の受付にある。
また、そこにミニ展示コーナー「戦国の城・小机城の歴史」がある。
9時〜21時(月〜土) 9時〜17時(日・祝日)
なお、駐車場は利用できない。




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