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本丸に向って美術館脇の道を上っていくが、
この道は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものであり、
江戸時代の道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていたようである。
見上げると櫓門が見え、石垣には「転用石」の標札も建っていた。
「 石垣は野面積み、乱石積み、穴太積みと呼ばれる自然石をそのまま利用されている方法で積まれている。
石材の加工と用い方は野面積み、角部の積み方は算木積み、
勾配は、基底部は傾斜が緩やかで段々傾斜を増していき、
上部はほぼ垂直になる扇の勾配と呼ばれる方法で築かれている。
また、転用石とも呼ばれる宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されていて、
一辺が六十二センチの大型の石材もあり、寺院や墓所を破壊して石材を調達したことがうかがわれる。 」
明智光秀は、荒木山にあった法興寺や宝積寺から、石垣に使用する石を取り集めたとの伝承がある。
更に上って行くと本丸になり、復元された天守が建っていた。
「 天守は三重四階建ての大天守で、
北側に二重二階階建の小天守、南側には現存していないが櫓門を介して二重二階建の菱櫓と連結した建物があった。
大天守には床と棚をしつらえた八畳の上段ノ間、水流し、厠、
小天守にも床と棚をしつらえた住居施設になっていた。
大天守と小天守の連結部には縁側をとって座敷風な造りがなされている。
石落としの幅は八寸とされ、福知山城では大天守の虎口の上、
大天守と小天守の二階の隅に設置されていて、
一階が一ヶ所、二階が九ヶ所、計十ヶ所あった。
二階の石落としは一階の張り出した屋根で隠されている。 」
現在の天守は三年かけて、昭和六十一年(1986)に再建されたもので、 昭和六十年(1985)に小天守と続櫓が完成した。
「 復元天守は、大天守、続櫓、小天守が連結された形で、
近世初期の望楼型である。
外観は忠実に再現されているが、構造は鉄筋コンクリート造。
内部は「福知山市郷土資料館」として、城に関する資料や福知山地方の歴史、文化財を紹介している。
また、望楼からの城下の眺めは抜群である。 」
本丸はそれほど広くない。 本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、
城の中央に位置し広大な二ノ丸御殿が中心施設だったと思われる。
「福知山城石垣の転用石」の説明板があり、その下には沢山の石材があった。
「 天守閣の石垣は野面積み、乱石積み、などと呼ばれた技法で、 未加工の自然石が積み上げられている。 また、五輪塔や宝篋印塔を始め、石仏、石臼、灯篭などの石造物が、 大量に石材として利用され、これらは転用石と呼ばれている。 転用石の大量利用の例は福知山城や大和郡山に見られる。 再建時の発掘調査で五百余りが確認されている。 中に延文四年(1359)銘の五輪塔地輪や天文十年(1541)銘の五輪塔地輪(天守の地階の階段石に転用)がある。 」
銅門番所は、江戸時代には市役所の東(二ノ丸登城路付近)にあったもので、
大正五年(1916)に天守台に移され、
昭和五十九年(1984)、天守復元のため、現在地に移された。
本丸天守の東側に、豊磐井(とよいわのい)と呼ばれる井戸がある。
「 この井戸は城主であった朽木稙昌の父、朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだもので、
井戸の深さは五十メートルあり、井戸底は海面下七メートルに達し、
高所に関わらず水深は三十七メートルあり、現在も満々と水をたたえている。
伝承ではこの井戸に抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがある。 」
福知山城へはJR福知山線福知山駅から徒歩約15分 京都交通バスで5分
福知山城のスタンプは福知山城天守閣入口(9時〜17時入城は16時30分まで) と
福知山観光案内所(JR福知山駅北口 9時〜17時 年末年始休) にある