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二之丸橋を渡り、中に入ると左手に「二ノ丸御門跡」の説明板が建っている。
「 二の丸御門は三の丸から二の丸に入る正面の出入口で、 二の丸大手門ととも呼ばれ、殿様専用だった。 門全体は第一の門を入り、石垣に囲まれた広い空間を経て、 右に折れ第二の門に至る重厚な枡形の構造であり、第一の門は高麗門、 第二の門は渡楼門となっていた。 第二の門を入って左手に進むと西の丸に至る。 第二の門の正面には石垣の仕切りがあり、 本丸への正面入口である御玄関前御門へは直接入れない仕組みになっていた。 」
上記の説明から、先程通った二之丸橋は当時はこの位置ではなく、 もっと左側の位置にあったことが分かった。 また、発掘調査では石槌の刻印のある石や枡形石垣の根石が検出されたという。
駿府城二の丸の東に位置するのは東御門で、重臣たちの出入口に利用された。、
「 東御門は、二の丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門
、櫓門、南と西の多聞櫓から構成される枡形門である。
東御門の前が安藤帯刀の屋敷だったことから「帯刀前御門」、
また、台所奉行の松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれた。
現在の東御門は平成八年(1996)に、寛永年間に再建された姿を目指し、
多聞櫓と一緒に日本古来の伝統的在来工法によって復元された門である。 」
中掘の南東にある二の丸巽櫓(たつみやぐら)は、 駿府城の櫓の中でもっとも高い櫓であった。
「 二の丸巽櫓は、
全国にある城の櫓建築で他に例の少ないL字型の平面をもち、
防御に優れた櫓だった。
現在の建物は、平成元年(1989)に市制100周年の記念事業として、
復元されたものである。 」
東御門と巽櫓には、駿府城公園内より発掘された資料の展示や
徳川家康が幼少期の人質時代に太原雪斎から教えを受けたとされる、
臨済寺の部屋を復元した「竹千代手習いの間」などが展示されている。
二の丸庭園の南にある水路は、本丸堀と二の丸堀をつなぐ水路で、
本丸堀の水を外に流す目的で築かれている。
「 平成四年の発掘調査で、幅は四・五メートル、 江戸時代の深さは約四メートル、長さは約九十五メートルあり、 四回折れ曲っていたことが確認された。 本丸堀との接続部分は約二メートルの段差を設けて、 本丸堀の水位を保つようになっている。 また、水路の両側は石垣で、 底の部分にも、本丸側から約五十メートルにわたり石が敷かれており、 底が洗い流されないように工夫された非常に珍しい造りになっている。 」
石垣の下方は家康築城当時の石垣と考えられ、
家康の威風を示す貴重な遺構である。
中堀の内側に二の丸と本丸があり、その間を本丸堀が取り囲んでいた。
「
本丸堀は駿府城三重堀の一番内側の堀で、本丸の周囲を巡っていた。
幅約二十三メートル〜三十メートルで、
深さは江戸時代には約五メートルあった。
石垣は荒削した石を積み上げ、
すき間に小さな石を詰め込んでいく「打込みはぎ」と呼ばれる積み方である。
角の部分は算木積みという積み方で、長方形を互い違いに積み、
崩れにくくしていた。
明治二十九年(1896)の歩兵第34連隊の誘致に伴い、
本丸堀(内堀)は埋められてしまった。
発掘調査により、再び現れた本丸堀の一部は、
江戸時代の雰囲気が感じられる貴重な遺構である。 」
天守台は明治時代に陸軍歩兵第34連隊を誘致する際に破壊された。
天守台跡は発掘調査が進められていて、
天守台付近は塀で囲まれ、近寄れないようになっていた。
二の丸の南西角に、平成二十六年(2014)、坤櫓(ひつじさるやぐら)が復元された。
「 坤櫓は、二の丸南西の隅にある櫓で、1階2階は7間X7間、
3階は5間X5間の広さがあり、2層3階の構造となっている。
2階には堀側に石落しを設け、敵の侵入を防ぐ工夫がなされていた。
櫓は、防衛の拠点や見張場などとして建てられるが、
坤櫓には、槍が保管されていることを示す古文書が存在し、
武器庫としても機能していたことがわかる。
建物の復元は、宝暦年間(1750年代)の絵図資料を基に行われた。
発掘調査では、櫓の北東側の基底部分(櫓台)に打込みハギの技法で積まれた
石垣が角部分で約2.5mの高さで築かれていました。
その石垣は、現在は埋戻して保存している。 」
令和六年(2024)一月十三日(土)、天守跡の発掘調査が終了し、 公開されていると聞いたので、訪問した。
天守台跡は板塀で囲まれていたが左側にある入口から中に入った。
中にはボランティアの方が数名おられ、説明を受けた。
本丸に築かれた天守は三度建てられたようである。
「 駿府城は、徳川家康が大きく分けて、2回築城しました。
初めは、駿府・遠州・伊豆・甲州などの五ヶ国大名時代の天正十三年(1585)期で、二回目は隠居した大御所時代の慶長十二年(1607)である。
慶長期の駿府城は、全国の大名に工事を負担させる天下普請で、
これまでの城を大改修した雄大な城でした。
天守は、慶長十二年(1607)に焼失、直ぐに再建されたが、
この天守は完成後まもなく焼失した。
慶長二期天守は、その翌年の慶長十三年(1608)から
慶長十五年(1610)に再建された。
七階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓と多聞櫓などが囲む特異な構造で、あった。
石垣天端で約五十五メートル×四十八メートルという城郭史上最大のものだったといわれ、江戸城の天守台を上回る大きなものであった。
しかし、この天守も、寛永十二年(1635)、城下の火災が城に延び、
焼失してしまった。
御殿などは再建されたが、駿河城には城主がいないため、
天守は再建されなかった。
」
中に入ると目に飛び込んでくるのは、水が少し溜った本丸堀、その先に慶長
期天守閣の石垣と茶色に変色した天守台の土と砂利、
その奥に天正期の石垣と井戸がある。
左手には台形の掘り出した時でた排土置き場と石置き場がある。
説明板によると、明治時代に高さ六間余(13m)の天守台は壊され、
その土と石は深さ三間余(4m)あった本丸堀を埋めるのに使われ、整地された、という。
左に進むと、本丸堀から取りだされた石垣の石が積まれていた。
説明板「 取り壊された天守台石垣の石 」
「 天守台の石垣は、明治期に取り壊され、その石や土砂で、
本丸堀が埋められました。 ここにある石は、発掘調査で本丸堀から出てきた石
です。 このうち、長くで四角の石は、石垣の角に使われたもので、
長大な石を交互に積み、崩れにくくしていました(算木積)。
天守台の角の石は、特に巨大で、長さが2mに達するものもあります。 」
下中央の写真では、本丸天守台の角の石垣が確認できる。
下右の写真では、本丸堀の石垣がどのようになっていたか、確認できる。
入口まで戻り、右に進むと、「慶長期の石垣と天正期の石垣の特徴」という
説明板があり、その先の石垣の上に、「慶長期の天守台」、その先には
「天正期の天守台」と記されたポールが立っていた。
説明板「「慶長期の石垣と天正期の石垣の特徴 」
「 ここから見えるのが大御所家康が慶長期に築いた石垣(手前) と、
それよりも古い時代の天正期に築いた石垣(奥)です。 この二つの石垣は
、作り方が異なっています。
慶長期の石垣は、加工した石を積む「打込接(うちこみはぎ)」という工法を
使用しています。 石垣の勾配(傾き)は比較的急で、
裏込め栗石(拳大の川原石)の幅が広くなっています。
一方、天正期の石垣は自然石を積む「野面積み(のづらつみ)」という工法を
使用しています。
石垣の勾配(傾き)は比較的緩やかで、裏込め栗石の幅が狭くなっています。 」
「天正期天守台出入口」と書かれたポールがあり、
周囲に黒い石が点在しているが、この周囲に門があったのだろうか?
天正期天守台の一角には井戸跡がある。
その北側では薬研堀が見つかった。
また、井戸跡の南からは中国製の磁器の破片が見つかったという。
説明板「 今川期の遺構と遺物 」
「 過去の発掘調査から、天守台があった場所には、
室町〜戦国時代の今川氏の本拠地があったと推定されていました。
天守台発掘調査でも、天正期(豊臣方)天守台の内部から今川期の遺構と遺物が
発見されました。
発見された遺構は、断面がV字状になる薬研掘と窪地状(または池状)の遺構です。 薬研掘は、深さ約1.7m、幅約3mで、この辺りに何らかの建物があり、
それらが堀で囲まれていた可能性が考えられます。
窪地状(または池状)の遺構などからは、貴重な中国製の磁器が見つかっており、
これらの遺物は所有者の権威を示しています。 」
天守台の北東には天守台下御門があったという。
説明板「 天守台下御門と木橋の痕跡 」
「 慶長期(大御所家康) 天守台の北東には、
二の丸から天守台がある本丸へ入る木橋が架かっていたとみられ、
本丸側には天守台下御門がありました。
天守台下御門前の堀底から木橋の痕跡とみられる複数の橋脚の柱穴と材木が
見つかっています。
天守台下御門から内部に入った場所では、
枡形虎口という四角い空間を確認しました。
枡形虎口は、まっすぐ進むことができない構造になっており、
進入してくる敵の勢いを止め、様々な角度から敵を攻撃する役割がありました。 」
以上で遺跡調査後の天守台の状態の確認は終了した。
静岡市はこの調査により、天守台跡の姿を明らかにした功績は高い。
また、今後、天守台跡をどうされるかに興味がある。
駿府城へは東海道新幹線・東海道本線静岡駅から徒歩約10分
日本100名城の駿府城のスタンプは東御門入場券売場にて