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高天神城へは北口駐車場の搦手門側と南駐車場の大手門からの登城道があるが、
それぞれの登城道は整備されていて、
どちらから登っても本丸をはじめ全ての曲輪を見て回ることができる。
北口駐車場にある鳥居近くに「搦手門跡」の表示板があった。
「 搦手は城の裏口にあたり、元亀年間から天正二年(1574)まで、 渡辺金太夫が城兵二百十余人を率いて守っていた。 」
山道を登っていくと山を切り開いた切り通しの道で、この城には石垣はなく、
すべて土塁で造られていた。
搦手門跡から少し上ると左側に、三ヶ月井戸がある。
「 天正二年(1574)七月より籠城した武田軍が飲料水を得られるように水乞いの祈願を込めて井戸を造ったといわれる。
武田氏が風水から作ったといわれ、今もわずかだが、岩壁からしみ出す水が絶えない。 」
登りきったところは東峰と西峰との尾根で、ここには井戸曲輪があり、
かな井戸で飲料水を得ていたようである。
かな井戸は鉄分を多く含むでいたことが名の由来か?
武田軍が城攻めの際、井戸の水脈を切ったともいわれ、
そのためか今は水がでない。
「 高天神城は、標高百三十一メートルの東峰と百二十八メートル西峰が独立して、 尾根の井戸曲輪でつながる構造であった。 もともとは、東峰だけの城郭だったものを武田氏が拡張し、 西峰に城を拡張したが、山が険しく面積の広い曲輪が作れず、 その地形ゆえに大掛かりな普請が行われた形跡はなく、 戦国末期まで使用された城としてはシンプルな構造である。 」
鳥居の下に小さな社の「尾白稲荷」が祀られている。
「 尾白稲荷の祭神は正一位尾白稲荷大神で、 今から千六百年前、この地に護国長寿の神として来臨、 その後、当山での修験者、藤原仙翁の下僕として付近一帯を守ってきた。 戦乱の世、尾の白い狐の姿を見せたため、 三の丸の大将、小笠原よ左衛門射止められた。 その後、四百年を経て、昭和六十二年にここに尾白稲荷大神として祭祀された。 」
鳥居の下に道標があり、右手の細い道を上っていくと、
西峰の北方にあるのが「二の丸跡」である。
井戸曲輪跡 | 尾白稲荷 | 二の丸跡 |
その先には「袖曲輪跡」の表示板があった。
引き返したところに「丸尾兄弟の墓」は下にと表示された道標があるが、
北に突き出していたのは「堂の尾曲輪」で、丸尾兄弟の墓がある。
「 ここには堀切、横掘、竪堀(堀切)が造られていて、 その先に井楼曲輪があった。 横堀は尾根筋に沿って、横方向に続く掘で、 緩斜面からの敵の侵入を遮断するものである。 」
鳥居の先の石段は急で、石段を登って先の左に「西の丸跡」の標柱があり、
社務所が建っている。
更に石段を登ると高天神社の社殿がある。
「 高天神社は高天神城の守護を担う神社として創建された。 、 江戸時代に入ると、高天神城は廃城となったが、 高天神社は高天神山に残され、地域の住民の信仰を集めることとなった。 祭神は高皇産霊尊、天菩毘命、菅原道真の三神で、 社名の天神も天神である菅原に由来すると考えられる。 」
「西の丸跡」の標柱の左に「堀切」の標柱があり、
そちらにいくとその先は堀切になっていて、
堀切に下って対岸に行くようになっている。
堀切は雑木が生えているため、当時は様相を変えているが、
木がなければ迫力がすごいだろう。
堀切にある「切割」の標柱には
「 尾根伝いに攻めよせる敵兵を防ぐために作ったもの。 」 とある。
「 切割は、尾根上を進攻してくる敵軍を遮断するために、 尾根をV字状に切り開いて通行を不可能にする施設である。 平時は丸太等の簡素な橋を架けて通行し、いざ戦いになると丸太を落し、 通行を遮断する。 」
高天神城では石垣は築かれず、多くの土塁で曲輪の周囲を取り囲み、
掘割も設けられていた。
この場所では尾根続きの道を分断するために、高低差のある切割を作ったのである。
高天神社 |
堀切の先には空地があり、海が見渡せられるところに、 「馬場平」の標柱と「御前崎方面」の看板がある。
「 三方が断崖絶壁で、ここから先は城外で、 ここに見張番所が置かれていたという説があり、 番場が馬場に転じた可能性があるという。 」
その先には鬱蒼とした林が続くがその中に小道があるが、 これは甚五郎抜け道と呼ばれる尾根続きの険しい道である。
「 天正九年の落城時、軍監、横田甚五郎尹松が、
武田勝頼に高天神落城を伝えるため、
城からの脱出に用いた「犬戻り猿戻り」といわれる峻険な尾根道である。 」
鏡曲輪まで戻り、今度は東峰を登る。
「左上る 大河内石窟 御前曲輪」の標柱があるが、
当時はここに門や柵を作り、木戸があったといわれる。
林のようなところに入ると「的場曲輪跡」の標柱が立っている。
「 この場所は弓矢の練習をしていたところといわれる。
発掘調査で、砂利が敷きつめられていたことが確認された。
これは重いものを置いても沈まないようにするため、
あるいは鉄砲の弾薬を置いた場所で、湿気防止であないかと、思われている。 」
少し歩くと明るいところに出ると、「大河内政局石室道入口」の標柱がある。
「 天正二年(1574)、高天神城は武田勝頼により攻め落とされ、
城主の小笠原長忠は武田方に降り、
城兵は南西に分散して退去し、武田方武将横田尹松が城番として入城した。
小笠原長忠の家臣、大河内政局(まさちか)は降伏せずいたので、
本丸下の石牢に閉じ込められた。
天正九年(1581)、家康腹心の榊原康政、
本多忠勝らが武田軍が守る高天神城を猛攻撃し、
城の弱点である西の丸を破って城内に突入、ついに高天神城を奪い返した。
この時、城内の石牢には小笠原長忠の家臣、大河内政局(まさちか)が、
天正二年に落城後も一人武田方に属せず、
八年間幽閉されていた。
家康は政局の忠節に感銘を受け、恩賞を与え、家臣にしたという。 」
道標(木戸跡) | 的場曲輪跡 | 大河内政局石室への入口 |
右に行くと「土塁跡」の標柱があり、
「 曲輪の入口を虎口(小口)といい、その残部である。 」 と書かれていた。
ここは北方の土塁で、南西にも土塁が残っている。
これらの土塁で囲まれていたのが、本丸である。
「本丸跡」の標柱には 「 天正二年、勝頼が高天神城を攻めた時は東曲輪と呼ばれていたと思われる。 」
と書かれていた。
東峰の一番高い所にあったのが本丸で、城内で一番広いスペースをなしていた。
本丸南の土塁の上の「元天神社」は、
廃城になった後の江戸時代中期に、村人により慰霊碑が建立されたが、
その頃、ここに勧請されたものと思われる。
「 高天神山は、平安時代から修験道の修行の場として神域だった。
天神の名も天神社によるもので、もともと、ここに高天神社が鎮座していたが、
八代将軍吉宗の時代に、現在地の西峰に遷座されたので、元宮と呼ばれている。 」
その南にあったのが御前曲輪である。
城主、小笠原与八郎長忠夫婦のイラストが愛嬌のように置かれている。
「 小笠原長忠は今川→徳川→武田と領主が代わる度に、 降伏して臣従してきたが、最後の判断を失敗して、歴史から姿を消したが、 攻める側に立つと、それだけ高天神城が重要であったといえる。 」
東峰は、周囲をほぼ絶壁で守られ、曲輪を雛壇状に配置していたが、
急斜面の山であるために通路以外からよじ登ることは困難だった。
御前曲輪の南下にあったのが三の丸跡である。
元天神社の鳥居から下った道標にはトイレ(三の丸跡)とあり、
トイレの案内に沿って進むと結構広い土地に出て、屋根を無くした小屋があり、
「土塁跡」の標柱も建っている。
「 三の丸は城の南端に突き出した曲輪で、 樹木が繁茂し視野は狭いが、遠州灘が見通する見晴しである。 小笠原与左衛門清有が大将だったことから、左衛門平とも呼ばれる。 」
展望すると、手前に小さな小山があるが、
その先は平地でその先は海であり、遠州の塩の産地でもあった。
海のない武田氏にとっては海運業や製塩業を手中に
納める重要な拠点であったことはよくわかった。
今回の高天神城の探訪は終了した。
高天神城へはJR東海道新幹線・東海道本線掛川駅から、
しずてつジャストライン「掛川大東浜岡線浜岡営業所行きまたは大東行き」に乗り、
土方バス停で下車、約15分で追手門口に到着する
高天神城のスタンプは、大東北公民館、掛川観光協会ビジターセンター「旅スイッチ」、掛川南部観光案内処のいずれかで (お城には置いていない)
(ご参考) 高天神城をめぐる徳川氏と武田氏との攻防戦
「 高天神城の築城の時期は定かではないが、
明応から文亀年間、駿河の守護、今川氏の家臣、
福島氏が遠江の斯波氏へ対抗するため、築城したとされる。
福島氏は天文五年(1536)の花倉の乱により没落し、
その後は、今川氏に服属した国衆、小笠原長忠が城代となった。
永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が討死すると、
永禄十一年(1568)、甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄は、
三河の徳川家康と同盟して駿河侵攻を開始し、
今川氏真を遠州掛川城に追いやり、今川氏は滅亡する。
その際、西から進出してきた徳川家康が高天神城を占領し、
今川方の属将、小笠原長忠をそのまま城将として置いた。
しかし、まもなく武田、徳川両氏は敵対関係に入り、
駿河と遠江の国境近くにある高天神城はその角逐の舞台となる。
信玄は元亀二年(1571)、遠江に侵攻し、高天神城を攻めたが、
城の守りが堅いのを察し兵を引く。
信玄が没すると、その子、武田勝頼は天正元年(1573)、遠州へ進出を開始し、
天正二年(1574)、徳川の属将、小笠原長忠が守備する高天神城を二万の大軍で囲んだ。
小笠原長忠は匂坂牛之助を浜松城に派遣し、徳川家康に援軍を要請したが、
家康は、単独での軍事行動は無理と判断し、同盟する織田信長に援軍を求めた。
しかし、信長は援軍を出さないため、一ヶ月あまりの包囲の後、
小笠原長忠は、穴山信君の講和に応じて開城し、長忠は武田側に降りた。
高天神城の守備に当たっていた大須賀康高らは徳川勢に残り、
浜松城を目指して落ち延びた。
これにより、東遠江の支配権を失った徳川家康は、
翌天正三年(1575)の長篠設楽ヶ原合戦で、
武田勝頼軍が徳川織田連合軍に大敗すると、
家康は高天神奪還の行動を開始し、馬伏塚城を本陣にて高天神城を監視し、
天正六年(1578)には横須賀城を築城して本陣とし、
周囲の三井山、山王山、宗兵衛山などに付城として六砦を築いて、
武田勢の兵糧や弾薬の搬入を遮断した。
この兵糧攻めの効果は大きい。
天正八年(1580)秋、城将、岡部真幸は、躑躅ヶ先館の武田勝頼に援兵を求める密使を派遣したが、
受け入れられず、
翌、天正九年(1581)三月、援兵を断念した岡部真幸は、
早暁に城門を開け放ち討って出るが、城兵七百余人が討ち死に、真幸も戦死した。
家康は武田氏への前線基地を横須賀城に移し、高天神城は廃城となった。 」