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掛川城は逆川の北沿岸の龍頭山に朝比奈氏が築いたのが始めだが、 現在の掛川城は、天正十八年(1580)に山内一豊が入封し、近世城郭に大改築した ものである。
「 山内一豊が建てた掛川城は、
本丸を中心に西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守閣、
その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二の丸と三の丸、
その南に総構で囲んだ梯郭式の平山城である。
本丸の土地は普請前は南に傾斜した谷だったが、谷を埋め立て、
本丸用地を確保した
また、城下町全体を堀で囲んだ。 」
一豊が建てた天守は慶長九年(1604)の大地震で倒壊し、
元和七年(1621)に再建されたが、嘉永七年(1854)の安政東海地震により、再び倒壊。
その後、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみだった。
現在の天守は、平成六年に日本初の「本格木造天守閣」として、
三重の天守閣を復元したものである。
「 天守の再建に際しては、 一豊の転封した高知城と同じだったという記録を参考にして、 それに近い構造とし、壁は白漆喰で塗り固められている。 また、元和七年(1621)に再建された姿が「遠江国掛川城御天守台石垣土手崩所絵図九」に描かれていることから、 三層四階の入母屋造で、二重目以上が板壁、二重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などは、 絵図などの調査に基づいて忠実に再現されている。 」
天守に入る門の手前に「天守門跡」説明板が立っていて、
「天守に入るための二層の門があった。
調査で櫓をのせていた基壇の石垣が見つかった。」とある。
現存する二の丸御殿は、幕末に再建された貴重な建物である。
「 御殿は儀式や公式対面など、藩の公的式典の場であり、
藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という三つの機能を合わせ持っていた。
最初は本丸にもあったが、老朽化や災害により二の丸に移った。
嘉永七年(1854)の安政東海地震により倒壊したが、
藩主太田資功により、安政二年(1855)から文久元年(1861)にかけて再建された。
これが現在の二の丸御殿で、明治元年(1868)まで使われた。 」
二の丸御殿は、現存する城郭御殿しては、 京都 二条城など全国で四箇所しかない貴重な建築物で、 昭和五十五年に国の重要文化財に指定されている。
「 二の丸御殿は書院造りと呼ばれる建築様式で造られ、
玄関、御書院、小書院など、七棟の建物で構成され、
畳を敷き詰めた多くの部屋が連なり、各部屋は襖で仕切られている。
最も重要な対面儀式が行われる書院棟は、
主室の御書院上の間と謁見客の控える次の間、三の間からなる。
藩主の公邸の小書院棟は、藩主の執務室である小書院と藩主の居間として使われた長囲炉裏の間からなる。
東側は、藩政をつかさどる諸役所の建物で、
目付、奉行などの役職の部屋、警護の部屋、帳簿付けの賄い方、
書類の倉庫である御文庫などがある。
小書院棟の北側には勝手台所があったが、明治時代に撤去されてしまった。 」
城の北にある竹の丸は、山内一豊は城を拡張した際、 造成されたと考えられている。
「 竹の丸は天守閣や本丸など城の中心部に通じる道筋にあたり、 防衛上重要な場所だったことから、家老など重臣の屋敷地に割り当てられた。 現在あるのは江戸時代より続く葛布問屋「松屋」を営んでいた松本家が本宅として建築した建物である。 主屋は明治三十六年に建造され、桁行十間、梁間七間半の平屋建寄棟造、 離れは大正末期から昭和初期にかけて、平屋建から二階建に増築されている。 」
東海道を進むと円満寺があるが、その山門「蕗の門」は、掛川城の内掘(蓮池)に建てられていた四脚門である。
「 大手門や仁藤門などから本丸、二ノ丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門だった。
廃城後の明治五年(1872)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。
その時、柱の下を二尺五寸(約76cm)切り取って山門にしたといわれている。 」
掛川城へはJR東海道新幹線・東海道本線掛川駅北口より徒歩約7分
日本100名城の掛川城のスタンプは二の丸御殿にて