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石柱の手前に赤褐色のものがあり、その前に「本丸跡土坑群(昭和63年発掘調査)」のプレートがあった。
「 土坑とは、色々な用途のために地面に掘られた穴のことである。 この土坑からは十七世紀から十八世紀初頭にかけての陶磁器類などが出土している。 」
「 横須賀城址」の標石の手前に「天守台跡」の木柱があり、
その右手奥には一段高く石垣で囲まれた土地があり、
その上には礎石群があり、かってここに建物があったことを示している。
その奥には更に一段高く土塁が築かれている。
「天守台跡」の木柱の下に「土塁(昭和63年発掘調査)」というプレートがあった。
「 土塁とは外敵の進入を防ぐために小高く築かれた土手のことである。 この土塁の上には白壁の塀があったようである。 」
かつてここには三層四階の天守があり、ここはその天守台跡で、
二段の玉石垣と礎石群が再現されているのだろう。
その南に横須賀城の立体図があった。
本丸の西は「西の丸跡」で、空地には桜の苗木が植えられていて、 句碑もあった。
「 西の丸の西には江戸時代には二の丸などがあったが、
今は住宅と田畑になっている。
家康はこの城を本陣にし、周囲の三井山、山王山、宗兵衛山などに六つの砦を築き、
高天神城に籠る武田勢の兵糧弾薬の搬入を遮断したため、
天正九年(1531)三月(1581)、高天神城は落城した。
家康は高天神城を廃城にし、
横須賀城を遠江東部から駿河への進出の拠点として整備した。
江戸時代に入ると、横須賀藩が立藩し、大須賀氏、能見松平氏、井上氏、
本多氏と城主が変わったが、
西尾氏が城主に任じられてからは八代続き、明治維新を迎えている。 」
明治まで残っていたという横須賀城であるが、
今残っているのは本丸と西の丸、北の丸の石垣、堀、土塁等の一部だけで、
その区域が公園として整備され、国の史跡に指定されている。
本丸南下門跡に東(右)に向うと道路に面したところに池がある。
このあたりに大手門があったようであるが、
大手門付近は完全に住宅地化している。 池は三日月池である。
説明板「三日月池北側中段の遺構」
「 当時の絵図には、本丸東端部から三日月池方面に下るスロープ状部分と石垣が描かれている。
この一帯は平成五年から八年にかけて行われた発掘調査で、
東西七・七メートル、南北は西側で三・三メートル、
東側で二・六メートルの範囲一面に、
直径四センチほどの黒色の玉砂利が敷き詰められていた。
その玉砂利を縁取りするように、
長径十センチから二十センチの灰茶色の丸石が二列に据えられていた。
この二列に並んだ石列は建物の壁となる基礎の地覆石と考えられる。
玉砂利敷は建物内の土間ではないかと考えられる。
また、北側の本丸斜面下からは、
長径六十センチほどの玉石を据えた全長六メートルの石垣の基礎となる、
石の列が発見された。 玉砂利の遺構は地下に埋めて保存した。
」
北側の本丸斜面の石垣は、本丸の上面まで八メートルの高さの高い石垣として、
復元されたものである。
本丸の裏側(北)に向うと北の丸跡があり、今は広場になっている。
本丸の背後にあったのは北の丸と松尾山である。
「 松尾山には池があったらしく、水の手であったと同時に、
本丸背後の防御に重要な役割を果たしたようである。
当時の絵図を見ると、北の丸には、倉庫を考えられる建物が四棟描かれている。 」
北の丸跡は広い空地になっていて、
その建物跡の遺構と考えられるのが「北の丸建物跡石列遺構」で、
「 建物の仕切壁が乗る地覆の石列と考えられる。」 と説明板にあった。
また、「溝状石列遺構」の説明板には
「 北の丸平坦部の北端に造られていることから、
一帯の排水溝と考えられる。 」
とある。
今回、訪問しなかったが、城跡の北西にある撰要寺には、
江戸時代初期の建築の不開門(あかずのもん)があり、初代城主の大須賀氏の墓所もある。
また、市役所大須賀支所北側に、「町番所」が移築され、現存している。
横須賀は、今は浜岡発電所も近い静かなところだが、戦国時代には多くの兵士がひしめいていたと思うと、
不思議な気がした。
所在地: 静岡県掛川市松尾町
横須賀城へは袋井駅からバスで20分
掛川駅からバスで55分
東名袋井ICから車で20分、掛川ICからは車で30分