mrmaxの古城めぐり 姫路城(後編)



かうんたぁ。



城壁には狭間(さま)という射撃用の窓が城全体で現在約千個残っているといわれる。 

「 形は丸、三角、長方形の穴で、長方形のものが矢狭間、その他は鉄砲狭間である。  開口部の内側と外側に角度を付けることで敵を狙いやすく、 敵には狙われにくくしている。 また城壁を折り曲げて設置している箇所では死角がより少なくなる。  長方形の狭間はほかの城にもよく見られるが、 さまざまな形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。 」 

更に、天守の壁に隠された隠狭間や門や壁の中に仕込まれた石落とし、など、 数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。 
小天守は、東小天守、乾小天守、西小天守と三基あった。 

「 東小天守は三重三階、地下一階で、天守丸の北東に位置し、 西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。  建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていた。  乾小天守は三重四階、地下一階で天守丸の北西に位置し、 建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていた。 秀吉が築城した三重天守という説があり、 昭和の大修理では秀吉時代の木材が転用されたことが確認された。  乾小天守の火灯窓には「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき、 未完成状態を保つため格子を入れていないという。  西小天守は三重三階、地下二階で天守丸の南西に位置し、水の六門が付属している。  建設当初は未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれていた。 火灯窓は後期望楼型天守である彦根城天守や松江城天守などにも見られるが、 釣鐘のような形の火灯窓を西小天守、乾小天守の最上階に多用している。 
また、大天守と小天守をつないでいたのが渡櫓である。  小天守同士を繋ぐ渡櫓の各廊下には頑丈な扉が設けられ、 大天守、小天守それぞれ独自に敵を防ぎ、籠城できるように造られていた。 
「イ」「ロ」「ハ」の渡櫓は、いずれも二重二階・地下一階、 「ニ」の渡櫓は水の五門が付属して、二重二階の櫓門になっている。  天守群と渡櫓群で囲まれた内側に台所櫓があり大天守地階とロの渡櫓一階を繋いでいる。 」 

これで天守の見学は終了し、北腰曲輪から搦手道に向う。 

石垣の狭間
     隠れ狭間と石落し      乾小天守と東小天守
石垣の狭間
隠れ狭間と石落し
乾小天守と東小天守




天守の北側には多門櫓の北腰曲輪がある。 

「 北腰曲輪は本丸の北側一帯を防備する役割を担っている東西に長い変形の曲輪で、 天守の腰の部分に当たるためにその呼ばれた。  腰曲輪(こしくるわ)には籠城のための井戸や米蔵、塩蔵が設けられた。   なお、平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。 」 

北腰曲輪の奥を右側(天守台の東側)に回り込むと高麗門の「へノ門」がある。 
搦手道の入口にあるのは「とノ一門」である。 

「 姫路城内に現存する数多くの門の中でも、ひときわ異彩を放っている「とノ一門」は  他の門が白漆喰の塗り壁なのに、素木(しらき)造りの櫓門(やぐらもん)である。  門扉も一枚板ではなく縦格子の半透かし扉である。  羽柴秀吉が姫路城造営にあたり、赤松氏により築かれた置塩城からの移築物と伝えられるもので、 池田輝政が築城した慶長中期の建築様式ではなく、 関ヶ原以前、おそらく秀吉のころのものと考えられている。  門の形式としては櫓門であり、城外側から見て左側にさらに単層の櫓を付設して守りを固めている。 」 

城への表道が大手道なのに対して裏道は搦手道である。 

「 搦手道は平時は非公式の出入口として、城中枢部への近道として利用され、 また、不浄のものを城内から外に運び出すときなどにも搦手道が使われた。  搦手道は天守への近道なので、戦時に備えて、道幅を細くし、急峻でつづら折れの上り坂にし、 多くの城門を構えるなどして、守りやすく攻めにくい構造になっている。 」

へノ門
     とノ一門      搦手道
へノ門
とノ一門
搦手道



搦手道はこの先、細く急な階段を右に折れると高麗門(枡形門)の「とノ二門」があり、 下り傾斜もきついつづら折れを下ると「とノ三門」(現存せず)、そして、 降りきったところにあるのが高麗門の「とノ四門」である。 
平成十七年(2005)三月十二日に車で訪れた時は、駐車場に近いこの搦手道から天守閣を目指したが、 今回(平成二十九年(2005)十月二十一日)に訪れると、「とノ二門」は工事中で閉鎖されて、 搦手道は歩けなくなっていた。 
「とノ一門」前を過ぎると「ちノ門」がある。 

「 ちノ門は大天守の東側天守台に隣接する小さな曲輪に面し、  二本の柱の上に冠木を置き、腕木によって軒桁をささえ、切妻の屋根を置いた棟門(むねもん)である。 」 

櫓門である「とノ一門」を突破した敵はいきなり大天守の真下にあるこの曲輪に出る。  北側にはへノ門が石段の上に見えるが、とノ一門との並びで左手にUターンするような形で配置されているのがこのちノ門である。  どちらに行くべきかを迷うことになる。 
攻め手が迷っている間に、守備側は西側の大天守とそれに連なるいノ渡櫓、 北側の土塀、南側の折廻櫓の窓の三方向から激しい攻撃を加えてくる。 

「 ちノ門の珍しい特徴は、門をくぐると内側の左手に番所が隣接されていることである。  番人が常駐する小屋で、平時に門の出入りをチェックするためのもので、一人か二人が詰めていたものと思われる。 」

「ち」の門から備前門に通ずる天守の東側に搦手口を援護するように建てられたのが井戸櫓で、一般的には井郭櫓(いのくるわやぐら)と呼ばれている。 

「  井戸櫓の建物は土台の石垣の積み方や櫓自体の建築様式から秀吉の築城時か、 次の木下家定の改修時の建物ではないかと推測されている。  櫓には東、西、北の三室があり、西室の中央部に井戸を備え、 井枠を囲んで流しの設備をつくり、 井戸の深さは八十尺(24m)、水深は六尺(1.8m)で、つるべを釣っている。  常時清水を蓄えていたといわれる。 」 

天守の下は岩盤で井戸が掘れず、 先程の北腰曲輪の井戸とこの井戸と狭いエリアに二か所も、 井戸を備えた建物を見ることができる。  このように、天守と腰曲輪の間の補給の便のため、 水曲輪を設け「水一門」から「水五門」までの門を設けていた。  
籠城の時の水源であると同時に、 池田輝政時代には近くの備前丸に城主の居館があったので、 炊事のための水源としても使われていたのではないか、と思われる。 

とノ四門
     ちノ門      井戸櫓
とノ四門
ちノ門
井戸櫓



井戸櫓の先、すぐ斜め向かいに右手に入る櫓門が備前門である。 

「 池田家が城主だった時代には備前丸に城主の居館があったことから、 門扉だけでなく、柱や梁もすべて鉄板で覆われて、厳重な防御体制が施されている。  江戸時代の城内を描いた絵図面には、備前丸の広い敷地の中で、 この備前門に一番近い東の端に「御台所」「御料理之間」という建物が描かれていて、 平時にはこの門が居館のお勝手口的な役割をしていたようである。  先程の井戸櫓からこの備前門を経由して、台所に水を運んだのだろうと思われる。  備前門は明治十五年(1882)の火災で、 備前丸にあった他の建物とともに階上の渡櫓の部分が焼失してしまい、 長く門だけが棟門のような形で残されていたが、 昭和三十八年(1963)の解体修理の際に元の姿に復元された。 」 

備前門をくぐる前、右側の鏡柱のすぐ脇の石垣の大きな縦長の石は石棺で、 ろノ門の石垣同様に転用石である。 
備前門をくぐり、振り返ると備前門の左側に直角に隣接して天守台の石垣との間に建つ二階建てのやや横長の櫓があるが、 これは折廻櫓(おれまわりやぐら)と呼ばれる櫓である。 
備前門の二階は折廻櫓の二階とつながり、内部で行き来できるようになっている。  先程、へノ門、とノ一門、ちノ門、天守台に囲まれた小さなスペースを通ってきたが、 そこを囲むもう一つの建物がこの折廻櫓の北面で、備前丸に面する壁とは逆の側だった。 
その北面の壁は他の櫓の壁と同じく漆喰で全面を塗籠められた大壁造りだったが、 この備前丸に面した壁は備前門の二階部分を含め、柱や窓が塗籠められておらず、 素木のままになっている。  真壁(しんかべ)造りという方法で、漆喰を塗らず、 素材をむき出しにしている古い様式である。  池田時代の居館の意匠の名残りをとどめているのだろう。 

備前門
     転用石      折廻櫓
備前門
石棺が使用された石垣
(正面)折廻櫓(右)備前門



備前門を入ると目の前には聳えるばかりの堂々たる姫路城天守閣がある。 

「 江戸時代のままの姿を残す現存十二天守の中で、 もっとも大きなものであり、世界遺産に登録されている。 
姫路城は標高四十五・六メートルの姫山に建てられ、 石垣の高さは十四・八五メートル、大天守は三十一・五メートル、 地表から四十六・三五メートル、海抜九十二メートルの高さになる。  五重六階地下一階、総重量五千七百トンの大天守の外観は最上部以外の壁面は大壁塗り、 屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、 緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)に懸魚が施され、多様性に富んでいる。 
最上階を除く窓はほとんどで格子がはめ込まれている。 
天守の外側を見ると、初重は方杖付きの腰屋根を四方に、 東面中央に軒唐破風と下に幅四間の出格子窓(でごうしまど)で、 北東、南東、南西の隅には石落としを設けている。 
二重目は南面中央に軒唐破風と下に幅五間の出格子窓、 東西に三重目屋根と交わる大入母屋破風を設けている。   三重目は 南面と北面に比翼入母屋破風、二重目から大入母屋破風が交わっている。  四重目は 南面と北面に千鳥破風、東面と西面に軒唐破風を設けている。  五重目は 最上部で、南北に軒唐破風、東西に入母屋屋根を設けている。 
壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の大壁造で造られていて、 防火、耐火、鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。  折廻櫓には編目格子が施されている。 各階の床と屋根は天守を支えるため少しずつ逓減され、荷重を分散させている。 」

天守閣
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備前丸から見た(左)西小天守(中央)二の渡櫓、(右)大天守




天守の南側の広場は本丸跡だが、備前丸と呼ばれる。 

「 池田輝政が姫路城を築城した際、 ここに藩主と家族が住む居館を建て、執務をとっていたことによる。  三代目藩主光政が鳥取に転封となり、 後任の本多氏の時代から使われることはなくなり、 備前門に近いところにあった御台所と料理之間、そして、 西の端、水ノ三門に隣接する第二櫓と棟続きにあった「対面所」と「長局」が残された。  残った建物も明治十五年(1882)の火災で焼失してしまい、今は空地になっている。 」 

 

写真の場所に説明がなかったので、はっきりしないが、 「対面所」か「長局」の跡と思った。 
備前門を出ると右手にあるは帯郭櫓で、建物の下をくぐる下り階段があり、 トンネルのようになってるが、埋門の一種である。 

 

「 帯郭櫓は天守の南東にある帯曲輪で、 三の丸から見上げると一階建てに思えるが、実際は二階建てなのである。  城外側の一階部分は腰のあたりまで城外側は石垣に覆われていて、 半地下のような構造になっていて、 約二十三メートルの石垣の上に二階建ての櫓がコの字型に建てられている。  敵が攻めてきた時、射撃などを行う場所として築かれた櫓で、 二重二階で各階ともに三部屋ある。  それで、一階には石垣の上の狭間から射撃をするために、 石打棚という棚をもうけている。  二階にも狭間が開けられていて、 城外から見ると狭間が上下二段にずらりと並んで見える。 」

埋門を抜けると小さな袋小路の曲輪に出るが、 これは「腹切丸」と呼ばれているが、 正式名称は井戸曲輪である。 曲輪の真ん中の井戸に由来している。 

「 帯曲輪が俗に「腹切丸」と呼ばれる由来としては、 建物の形状やその薄暗い雰囲気などから、 切腹の場を連想させることにより呼ばれるようになったと見られているが、 通常では処刑場は城外にあり、 藩主の屋敷付近や井戸付近では実際に切腹が行われたことは考えにくいという。 」

備前丸跡
     埋門      井戸
備前丸跡
埋門
井戸



池田輝政が築いた帯郭櫓などの石垣は打ち込み接ぎと算木積み、 扇の勾配で本丸に多く残っている。 
帯郭櫓の先にあるのは「太鼓櫓」である。 

「 太鼓櫓は一重一階で折れ曲がりながら、 西、南、北の三部屋があり、江戸時代は「への櫓」と呼ばれた建物である。  単層で鉤型に折れた櫓は、水ノ二門の横に建つ三ノ櫓とともに、 全国で二例しかない貴重な建物である。  りノ門内で門に接している部分の石垣の上端が弓なりに反っていて、 それに従い建物の下端もカーブしている。   歪みのある石垣上に建てられたため西部屋は傾斜があるという。  この櫓の標札に「太鼓櫓」と書かれているが、 明治時代に入ってから付けられた名前で、 江戸時代の太鼓櫓は三の丸の入口である桜門のすぐ脇にあったという。  明治時代に陸軍が姫路城を接収し、太鼓櫓をはじめとする三の丸の建物を壊した時に、 中にあった太鼓をこのヘノ櫓に運んで保存したため、この名がついたが、 太鼓は現存していないようである。 」 

太鼓櫓の西側には「りの門」があり、帯曲輪と上山里曲輪を区切っている。 

「 りの門は小さな脇戸付高麗門だが、 帯曲輪と上山里丸の間のもっとも狭まった部分をおさえる門で、 太鼓櫓と共に、二の丸から備前丸へと進もうとする敵兵をここで食い止める役目をしている。  「慶長四ねん大工五人」と書かれた墨書が発見され、 解体や移築の痕跡もないことから木下家定の時代の建築と判明していて、 姫路城内で唯一、池田輝政時代以前に建てられたことが証拠によって裏付けられている建物である。 」

太鼓櫓、渡櫓、帯の櫓
     りの門      りの門
(左)太鼓櫓、渡櫓(右)帯の櫓
太鼓櫓
りの門



本丸跡より一段下がったところは上山里丸(かみのやまさとまる)である。 

「 上山里丸は備前丸の石垣と二つの出入口の門、 周囲をぐるりと多門櫓と隅櫓等の建物で囲まれていた。 
りノ門を出てきたところが上山里丸で、 一番突出した部分に「とノ櫓」という隅櫓、そこから右手に現存している「ちノ櫓」に向かって多聞櫓が連なっていたが、 現在は新たに造られた土塀が連なっていた。  上山里丸は秀吉の建てた大坂城の上山里丸同様に庭園だったところで、 御殿のような建物はなかったようである。  明治時代以降は荒れるにまかせていたが、戦後整備が行われて現在の姿になったという。 」 

広場の一角にお菊井戸と呼ばれる古い井戸がある。 

播州皿屋敷で知られるお菊が責め殺されて投げ込まれたと言われる井戸で、 もとは釣瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれていた。 
「 室町時代中期、姫路城執権の青山鉄山(てつざん)は、城を乗っ取るため、 城主を増位山の花見の宴で毒殺しようと企てていた。  それを察した城主の忠臣、衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、 愛人のお菊を鉄山の屋敷に奉公させて企みを探らせ、 鉄山の息子小五郎から父の陰謀を聞き出した。  この知らせを聞いた元信は花見の宴で城主を毒殺しようとする鉄山の陰謀を阻止することができた。  その後もお菊は鉄山の屋敷で動向を探り続けていたが、 鉄山の同志町坪弾四朗(ちょうのつぼだんしろう)に気づかれてしまいました。  以前からお菊に好意を持っていた弾四朗は、 「黙っている代わりに自分のものになれ」とお菊に言い寄ったが、 お菊は聞き入れず、弾四朗に折檻される。  言うことをきかないお菊を憎らしく思うようになった弾四朗は、ある日、 お菊が預かる家宝の十枚の皿うち一枚を隠してその罪をお菊に負わせ、 お菊を切り殺し庭の井戸に投げ込んだ。  それからというもの、夜毎井戸の底から悲しげな女のか細い声で  「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚・・・・・」 と、 皿を数える声が聞こえるようになった。 」 
という怪談話だが、播州では江戸時代から語り継がれてきたという。 

また、この井戸は、備前丸の御殿や天守に近いことから抜け穴伝説もある。  大がかりな調査が行われたが、井戸の竪穴の途中に横穴はあるものの、 岩盤によって行く手はさえぎられていて、抜け穴は見つからなかったようである。 
お菊井戸から先に進むと正面に「ぬノ門」があり、その左手に続く「リの一渡櫓」、 「リの二渡櫓」、そして「ちノ櫓」に続いている。 
ちノ櫓近くにいくつかの石棺が展示されている。  これは城内の石垣各所で見つかったもので、 補修工事で取り換えが必要だった石棺を抜いたあとでここに展示したものである。 

上山里丸跡
     お菊井戸      ちノ櫓とりノ渡櫓
上山里丸跡
お菊井戸
ちノ櫓とりノ渡櫓



その右手では江戸時代、明治時代、昭和の三体の鯱瓦が展示されている。 

「  鯱は頭が虎、体が魚の想像上の動物で、口から水をはいて火を消す、 というので古来より火除けのお守りとして広く建築の最上部に用いられてきた。  鯱には神社の狛犬と同様、口を開いている阿形がオス、 閉じている吽形がメスと言われている。  姫路城には大天守だけで十一個の鯱瓦があるが、昭和の大修理で これら十一個の鯱がすべて新造され取り換えられることになり、 西側大入母屋屋根に上げられていた鯱がもっとも古い貞享四年(1687)製が分かり、 それを復元して全ての鯱は取り換えられた。 」 

従って、姫路城の鯱はオス、メス一対の鯱ではなく、すべて一種類とのことである。 
渡櫓の一番右手、次のぬノ門と接続する部分にほんの数段の上り階段があるが、 石段の上から三段目と四段目にひとつずつ刻印が見える。 何かの符牒のようだが、 多くの場合、石の確保や石積みを担当する石工や家臣を表す記号だったようである。 
江戸時代には先程歩いてきた道を上道(うわみち)、ぬノ門から上山里丸、帯曲輪を経由して本丸に至る道を 下道(したみち)と呼んでいた。 
池田輝政の時代、備前丸の御殿に賓客をお迎えするときには上道が使われたが、 城主などが日常的に本丸に達するためには下道を使っていた、と言われている。 
「ぬの門」は上山里曲輪の入口にある門で、 上道にあるにノ門と並び、姫路城随一の鉄壁の門といわれたすごい門である。 

「 ぬノ門の扉、柱、冠木などの木部はすべて鉄板で覆む黒鉄張りとし、太鼓鋲で止めた頑丈な門である。  櫓門の渡櫓部分が二階建てになっていて、リの一渡櫓、リの二渡櫓、チの櫓、などの建物と接続している。  門の上に二階建ての櫓が乗っている櫓門の現存例はここだけというから貴重なものである。 」 

「リの渡櫓」の入口から「ぬの門」櫓門の渡櫓部の二階に直接入れるようになっていて、 櫓門内のかくし石落としや監視窓から、頭上攻撃を行うことができた。

三体の鯱瓦
     上り階段      ぬの門
三体の鯱瓦
上り階段
ぬの門



ぬの門をくぐると、枡形になっている。 
門の右側の石垣には 大きな二つの目玉に太い鼻と巨大な顔がこちらをにらんでいる。  人面石と呼ばれる鏡石である。 

「 鏡石は築城者の威厳や経済力、技術力を見せつけるために一番よく見える部分に積まれている。  一方で呪術的な意味合いもあり、城内に入り込もうとした邪気をこのような人智を超えた大きな石でブロックし、 跳ね返そうとしている。 」 

その先に高い石垣がそそり立っていて、その下に「扇の勾配」の説明板があるが  備前丸石垣である。 

「 高石垣の角のところを横から見ると上に行くほど反り上がる曲線を描いていて、 扇を広げたときの曲線に似ていることから、扇の勾配と呼んでいる。  石垣が高くなるほど内部から積石に大きな圧力がかかり、石垣を崩す原因になる。  その力に耐えるように、据部は傾斜をゆるくしている。  上部は垂直に近い急傾斜なので、敵が石垣に登らせないようになっているといわれる。  また、石垣の角には長方形の石を長短の辺を交互になるように積まれている。  長方形の石が算木に似ていることから算木積みという。  高石垣が築かれるようになった慶長期(16世紀後半から17世紀前半)に完成した積み方である。 」 

稜線が実にきれいに弧を描いて積まれていて、 角部には算木積みがきれいに見られる。  扇の勾配、そして算木積み、石垣が内部からの圧力で前方にはらみ出すのをおさえて、 うまく力を分散させる積み方の工夫である。 
この技術が開発されたことにより、石垣を高く積むことができるようになった。  秀吉時代に築かれた下山里丸は低い石垣を二段重ねで積んでいるのに対し、 池田輝政の慶長年間には石垣作りの技術がここまで進化していたことがわかる。 
その先に進むと「をノ門跡」の説明板がある。 

 

「 をの門は下道の最初の門になる。  門は高麗門形式で、その横にりノ櫓があった。  をノ門からぬノ門までの間は一つの枡形を形作っていて、下道における防御の要となっている。  をノ門とりノ櫓は明治十五年(1882)二月に失火により焼失した。 」 

鏡石
     扇の勾配      をノ門跡
鏡石
扇の勾配
をノ門とりノ櫓跡



その先は下山里丸である。  左手に広い空地が広がり、その先の石垣は前述した秀吉時代に築かれた石垣である。 
奥の方の目立たないところに小さな下り階段があり、 その先は穴蔵のようになっている。 

説明いた「るノ門跡」
「 るノ門は石垣の中に開けられた穴を出入口とした門で、その構造から穴門と呼ばれる。  菱の門やぬの門から見ても、門の存在に気づきにくい位置にある。  伏兵を用いた戦術には機能するだろう。 もともとは両開きの扉があった。  今も礎石が残っている。 緊急時には門扉を閉じて閂を通し、 通路を土砂で埋めてしまえば厳重に防御することができる。 」 

石段を下りていくと右側の角に大きな四角い石があるが、 これは五輪塔の地輪と呼ばれる一番下の四角い石を転用石として使っているものである。  また、両開きの扉の礎石も確認できた。 

秀吉時代の石垣
     るノ門(穴門)      るノ門(穴門)
秀吉時代の石垣
るノ門(穴門)
るノ門(穴門)



るノ門を通りぬけると、そこには三国堀があり、 見上げると天守群が一層輝きを増してそびえ立っている。  ここは天守がもっとも美しくとらえられるビュースポットのひとつである。 

「  三国堀の名前の由来は秀吉の姫路城を今日の姫路城の姿に大改修した池田輝政が 播磨、淡路、備前の三国を治める大大名だったことによる。 
三国堀には防御上大きな価値がある。  菱の門を突破した敵は三国堀の前で道が二手に分かれているのでどちらの道に行くか戸惑う。  右の道は石垣で行く手を阻まれ行き止まりのように見える。  正面には小さな門(いノ門)が見え、狭い道だがこれが天守への道だろうと進むと 前述のるノ門(穴門)内の控塀のある土塀の狭間からひそかに監視し、待機していた兵隊が るノ門から出てきて、敵の背後を襲うのである。  そうしたワナが仕掛けられている場所である。 」 

天守を見上げる三国堀の先の石垣は上山里丸の石垣で、上にちノ櫓とりノ渡櫓が乗っているが、 よく見ると真中に縦にくっきりと稜線が見える。  稜線の右側は秀吉時代の石垣、左側は池田輝政時代に石垣の延長工事をしたもので、 石積みの積み方から、稜線をまたいで上に乗っているちノ櫓やりノ渡櫓、 それに接続するぬノ門は輝政時代の建物であることが分かる。  また、上山里丸の大部分は秀吉時代に形成されていた縄張であることも分かる。 

三国堀
(奥)天守群 (中央手前)三国堀、山里丸の石垣(奥)天守閣(右)ちノ櫓とりノ渡櫓



「姫山と鷺山と三国堀」という説明板があった。 

「 江戸時代、菱の門から内側を城山といった。  城山には姫山と鷺山の峰があり、姫山には自然の地形を利用して、 山里丸や備前丸を設け、頂部には大天守が築かれた。  一方、鷺山には峰の上部を削って西の丸が造営された。  城山の中央にはほぼ正方形の三国堀がある。 この堀は用水池で、 二つの峰の間の谷をせき止めて築かれたダムのような構造である。  三国堀北側の石垣は谷筋にあった堀の痕跡を見ることができる。 」  

「継ぎ目のある石垣」の説明板もあった。 

「 この石垣はりの一渡櫓とりの二渡櫓を支える石垣である。  りの二渡櫓の下に石垣が線(継ぎ目)になって見える。 この線から南側(右手)が羽柴秀吉、北側(左手)は池田輝政の時築かれたものである。  姫路城の建物は西の丸を除き、多くが池田輝政によって築かれた。  しかしながら、縄張り(曲輪の配置など)や石垣は羽柴時代のものを引き継いでいるので、 この石垣のような池田時代になって増築された場所の新旧の石垣の継ぎ目が生じたのである。  石垣は築かれた時期によって積み方の違いのあることが分かる事例である。 」   

堀の真正面の石垣の中央あたりに石積みが不自然なところがあるのに気付いた。   かっての石垣の端がここだったと思える線がV字に向かい合っている。 

説明板「三国堀」
「 秀吉が姫路城を築いた頃の三国堀は姫山と鷺山の谷にあたる部分が堀になっていて、 現在よりずーと先まで続く長い堀だったのである。   池田輝政は上里丸などを築く時、堀の奥の方を埋め、今の三国堀の部分(四角な堀)だけを残し、 戦術的な仕掛けにした。  V字型の跡は石垣の空いているところを埋めた証拠である。 」

谷筋の水
     継ぎ目のある石垣      V字型の跡
谷筋の水が流れ出ている
継ぎ目のある石垣
V字型の跡



菱の門の前に戻り、俯瞰図の看板と中村大佐の顕彰碑の前を通り過ぎたところを左折すると、緩い上り階段になる。  これが西の丸への入口である。 
上り階段を少し登ると、「武者溜り」の説明板がある。 

「 土塀でほぼ正方形に囲まれていることから、武者溜りと呼ばれている。  こうした空間は集団で軍事行動をする兵士を一時的に駐屯させる場所といわれる。  菱の門の前方で石垣を張り出した場所にあるので、菱の門や西の丸の東側に取りつこうとする敵を 攻撃するための施設とみられる。  また、十八世紀の絵図には隣接する西の丸南門に接続する建物がこの空間の南側土塀に沿って描かれている。  西の丸に出入りするための南入口を警備する番人が詰める番所もあったとみられる。 」

短い石段の上に、土塀に囲まれた小さな空地が見え、足元に門柱の礎石が見える。  ここに建っていた西の丸南入口門はいノ門ほどの小さな高麗門だったようである。  菱の門を突破してきた敵の大軍が天守の見える方向に突き進むと、ここは完全に背面になる。  いノ門方向に向かって突進する敵を、 前述のるノ門(穴門)奥から繰り出した軍勢と武者溜りに潜んでいた軍勢が一緒になって背後を襲う、という戦術である。 
階段を上り切ると「西の丸」の説明板がある。 

「 この曲輪は姫路城主本多忠政が大坂夏の陣のあと、 将軍秀忠の長女千姫を娶った息子忠刻(ただとき)のために、元和四年(1618)に御殿を建てたところで、 中書丸ともいわれた。 中書は忠刻の官職中務大輔の唐名である。  御殿を囲むように築かれた長屋は通称百間廊下ともいい、約三百メートルの長さがあった。  そのうち、ヨの渡櫓から北の部分が長局(ながつぼね)である。  小さな部屋が廊下に面して並んでいて、西の丸の御殿で働く女中が住んでいたとみられる。  長局の北端に化粧櫓がある。 大きく解放された窓や床の間、畳敷きなど、 ほかの無骨な櫓に比べると人が居住できる構造になっている。  千姫が男山にある大神社を拝むため、西の丸に来た際、身づくろいをしたり、 休息した場所といわれる。 」 

その先に見えるのは百間廊下と化粧櫓である。 

西の丸入口
     武者溜      西の丸跡
西の丸入口
武者溜り
百間廊下と化粧櫓



本多忠政は徳川四天王として勇猛でならした本多忠勝の嫡男である。 

「 元和三年(1617)、池田家三代目藩主、池田光政が幼少を理由に姫路から鳥取に国替えになった後、 伊勢桑名藩から姫路に転封が命じられ、入城するとすぐに鷺山の造成と周囲を取り囲む多門櫓の建造に着手し、三の丸と 前年祝言をあげた嫡男忠刻と千姫のための御殿(中書丸)を建てた。  造営資金は、嫡子忠刻の部屋住み料として幕府より遣わされた十万石が当てられた。  将軍秀忠の大坂夏の陣で心ならずも秀頼と引き裂かれ、心に深い傷を受けた愛娘千姫が忠刻と一緒に、 姫路で穏やかな第二の人生を送れるように、との思いを舅の忠政に託してのことである。  その意を汲んだ忠政は西の丸に若夫婦のための上屋敷を建てるとともに 三の丸の一角に武蔵野御殿という千姫のための下屋敷も建て、彼女の心を癒そうと努めた。 
また、本多忠政は山上では使いづらいため、本城と称する館を三の丸に建てて備前丸から移り住み、執務をとった。  それ以降の城主は本城、または中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。   徳川吉宗の時代の城主、榊原政岑が吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。 
元和三年と云えば、元和元年に一国一城令が発布され、 ひとつの藩に城は一つだけ残しあとは廃却する、 また、城の改築、改修には幕府の事前許可が必要、と厳しく取り締まられた時代である。  いかに姫路城が例外視され、特別扱いだったかがわかる。  」 

西屋敷跡およびその一帯は現在では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。 


西の丸
天守から見た(左手前)菱の門、三国堀 (奥)西の丸



西の丸の中書丸と武蔵野御殿は嫡男忠刻と千姫のための御殿である。 

「 中書丸と武蔵野御殿の建物の多くは、 豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取りこわした用材を移して建てたもので、 桃山時代の立派な書院造りの建物であった。  しかし、忠刻が三十一歳で亡くなり、千姫は江戸に帰ったことで、 西の丸の中書丸御殿は二十年程しか使用されなかったようである。 
元禄年間の絵図には四棟のみが描かれており、その他の建物はなくなっている。 」 

現在残るのは外周に沿って、本多忠政により整備された渡櫓、隅櫓と土塀だけで、 これらは姫路城内の他の建造物と同様に白漆喰総塗籠の外壁をもち、 防火に対する配慮がされている。  また、渡櫓、隅櫓の外壁は特に厚く塗られ鉄砲に対する備えが見られる。  これら櫓は西の丸櫓群とよばれ、左手のワの櫓から、レ、タ、ヨ、カという四つの渡櫓、 右側に「化粧櫓」と呼ばれた櫓があった。 

説明板「千姫ゆかりの西の丸櫓群」
「 ワの櫓から化粧櫓まで約二百四十メートルのとても長い廊下が続いている。  この長屋群を百間廊下と呼ばれている。 
二階建ての櫓と櫓との間は渡櫓と呼ばれる長屋で結ばれており、別名多門櫓とも呼ばれる。  天守のない城であっても多門の無い城は無いといえるほど、江戸時代の城郭に不可欠な建物である。  倉庫にも住居にし、さらに防御施設として機能する上、構造が単純で解体して移動するのも容易だった。  百間廊下も場所によって構造の違いがある。  西の丸に本多忠刻の御殿があった時期、 局として使用されたのはヨの櫓から北隅の長屋と考えられる。 」 

「ワ」の隅櫓脇の入口から中に入る。  入口には戻ってこないので、履物は備え付けのビニール袋に入れて運ぶ。  すると、いきなり短い上り階段があり、上りきるとそこから長い廊下が始まる。  入口と出口の階段のほか、途中二ヶ所に急な上り階段があるので、 足に不安のある方はやめた方がよいだろう。 

西の丸櫓群
     入口      急な階段
西の丸櫓群
ワの隅櫓からの入口
急な階段



いきなり、短い上り階段があり、上りきるとそこから百間廊下の長い廊下が始まる。 

「 百間廊下は、名前は百間だが、 実際の長さは百二十一間、約二百四十メートルもある。  「ワ」の櫓脇から入って半分ぐらいまでの「レ」の渡櫓までは倉庫として使われていた。  「タ」の渡櫓にはくぐり戸付きの扉があり、そこから北側は廊下がつく。 
城外側に付けられた幅一間、一部は半間の廊下には、 石落しや狭間、鉄砲の煙出しの窓も付設され、 城の西北に対する防衛が固められていた。  ただこの蓋付きの石落しは、大きな石が落せるような幅になっていないので、 鉄砲で石垣に取りつく敵を狙い撃つ銃眼の機能だったのではといわれる。  これだけの長さがあれば石落しの真下だけでなく、 左右かなり広角に射撃することも可能である。 
窓には太い縦格子が入っているが、この格子は八角形の断面を持っている。  これは窓から敵を射撃するためで、八角形では四角形より鉄砲を左右広角に狙える。  また、格子の内部は八角形の断面をもつ木柱を鉄板で、 四面または八面全部を巻いてから塗り籠めているものである。  窓に取りついた敵が、簡単に刃物で格子を切られないようにするためのものというからすごい。  雨水対策には、窓の下側の桟にあたる部分を注意して見ると、 小さな丸い穴が開いていて、内側にパイプが通っているのが見える。  これはこの桟に溜まる雨水を抜くためのパイプである。  現在は周囲が補修されてパイプも樹脂性のものが入っているが、 このしくみ自体は造営当時のものである。 」 

建築物を雨による劣化からいかに守るか、というのは、 お城の維持管理にとって大きな問題だったのですね!! 

長い廊下
     石落しや狭間      渡櫓の外壁
長い廊下
石落しや狭間
渡櫓の外壁



「ヨ」と「カ」の渡櫓は、各部屋に納戸が附属、天井が張られるなど、 人が住むことを想定した造作になっている。 

「 本多忠政が嫡男忠刻と千姫のために建てた御殿・ 中書丸は、西の丸の中央に建てられたが、 二人を世話する多くの奥女中は百間廊下に住んでいた。  「タ」の渡櫓から化粧櫓までの北半分が、奥女中たちが起居する部屋であり、 主室と付属室などに区分され、長局を構成していた。  昭和の大修理の際、草花模様で彩色した痕跡のある柱が発見された。  」 

「カ」の渡櫓に展示されている羽子板は、 千姫が山野井村の男山に天満宮を建立した際に寄進したものと伝えられる。 

「 千姫は、天満天神を信仰していたが、 元和九年(1623)、これまで守護神としていた天神木像を西方の丘男山に遷し、 天満宮を建立し、 社殿は城の方に向けて建てられた。  千姫は、毎朝西の丸の長局の廊下から、本多家の安寧と子孫繁栄、 前夫豊臣秀頼の鎮魂を祈ったとされる。 このとき、化粧櫓を休息所として利用した。 
忠刻と千姫の夫婦仲は睦じく、姫路に来てから勝姫(のち池田光政室)、 幸千代の二児をもうけ平和な日々を送ったが、 幸千代は三才で早逝、忠刻も寛永三年三十一才で世を去った。 千姫は、同年落飾して天樹院と号し、悲しみのうちに姫路を発って徳川家に帰った。 」 

化粧櫓は、千姫が忠政の嫡男忠刻に輿入れする際の化粧料十万石で、 元和四年(1618)に建てられたものである。 

「 外観は二重二階、内部は畳が敷かれた座敷部屋が三室に区分され、 床の間がある奥御殿になっている。  戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。  この化粧櫓は、中書丸や武蔵御殿がない現在、千姫の面影を偲ぶただひとつの建物である。 」 

畳敷きの部屋には千姫を模して造られたという乾漆坐像があった。 
その先で櫓から降り、外に出たが、西の丸から天守への展望も見事である。 
これで姫路城の探訪は終了した。 
今回は台風接近の雨風にたたられ、悪戦苦闘したが、 前回見られなかった場所を訪問できたので、満足であった。 

長局
     羽子板      乾漆坐像
長局
千姫が寄進した羽子板
千姫の乾漆坐像



姫路城へはJR山陽新幹線・山陽本線姫路駅から徒歩約15分 
姫路城のスタンプは料金所の西側の姫路城管理事務所にある 




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