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江戸時代には北廊下門をくぐると、内掘に屋根付きの廊下橋が架かっていて、
対岸の二の丸石垣上の表門に繋がっていた。
現在は廊下櫓の代わりに、土の上に敷石道が設けられている。
内掘には藤堂高虎ならねばというかなり広い巾の犬走りが設けられていた。
石垣は近江(滋賀)の穴太衆による、自然石をあまり加工しないで積む、
野面積みと算木積みという工法で築かれている。
その先の二の丸石垣の一端に「表門跡」の標柱があるが、江戸時代には
櫓門形式の表門があり、両側の石垣の上には多聞櫓があり、敵の襲撃に備えていた。
門に入った右側の石垣には階段が付いていて、そこから楼門の表門上に出入りしていたのだろう。
正面を見ると石垣は右に直角に曲がっているが、これは枡形という構造で、
優位に横矢を掛けるための工夫により生まれたとされる。
その先の門を思わせる石垣は中門跡である。
これも楼門形式の門で、その先は左に直角に曲がる枡形構造になっていて、
石垣の上には多聞櫓が続いていた。
中門の先にあったのは鉄門(くろがねもん)で、今は木の門になっているが、
かっては楼門という形式で、
門扉には鉄板が張られた頑丈な門で敵の侵入を守っていた。
石垣には担当した藩の石工などが刻んだ刻印がある石も多く見付けることができた。
その先に見えるのは大書院である。
「 大書院は慶長十四年(1609)の篠山城築城とほぼ同時に建てられ、
約二百六十年間に渡り、篠山藩の政治の中心として、藩の公式行事などに使用された。
大書院は木造住宅建築としては非常に規模が大きく、
現存する同様の建物の中では京都二条城の二の丸御殿遠侍に匹敵する建物である。
二条城の御殿は将軍が上洛した時の宿所となった第一級の建物ということから、
大書院は一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえる。
明治維新となり廃城令後、城内のほどんどの建物がとり壊された中で、
篠山を象徴する建物としてただ一つ大書院だけが残され、
小学校や女学校、公会堂などに使用されてきたが、
昭和十九年(1944)に火災により焼失した。
現在の建物は、古絵図、古写真、発掘調査などを基に、
平成十二年(2000)に復元再建したものである。 」
復元された建物は平屋建てで、妻側(北側)を正面とし、
床面積739.33u、棟高12.88mで、屋根は入母屋造、こけら葺きである。
東北隅に中門、正面に車寄せ、その屋根は軒唐破風が付いている。
内部に襖絵に囲まれた八つの部屋があり、その周囲に広縁が、
その外側には落縁が一段低く設けられている。
100名城のスタンプはここの受付横に置かれていた。
大書院の右側に井戸がある。 この井戸は城北の玉水が流れ出た水を汲みとり、
夏の日でも枯れたことがないという。
大書院の裏に廻ると広い空地が広がっていた。 二の丸跡である。
「 二の丸には前述の大書院の他、小書院、中奥御殿、奥御殿、台所などの建物と 築山をもつ庭園があったようで、発掘調査の結果を基に、建物の敷地が表示され、 二の丸庭園と表示されていた。 」
右手奥の庭園だったところには井戸があった。
二の丸の四隅には隅櫓があり、
それをつなぐ多聞櫓で二の丸全体は守られる仕組みになっていた。
二の丸奥の中央に埋門があり、埋門の上に江戸時代には多聞櫓があった。
埋門は非常時には門を埋めて、敵の攻撃を遮断することができる門である。
門の下の石垣には普請総奉行、池田輝政の刻印が残る石がある。
この門を出ると南門、そして南馬出に通じていた。
二の丸の左(東)側に一段高く石垣が組まれているのは本丸石垣で、
中央に青山神社の鳥居がある。 また、右手奥に天守台がある。
石段を上った先に青山神社の社殿があるが、この一帯は篠山城の本丸跡である。
「 青山神社は藩主青山家の旧恩を追慕する人々が明治十五年(1882)に本丸跡に創建した神社で、
祭神は青山家の遠祖、青山忠俊と名君の青山忠裕である。
築城当初は現在の二の丸が本丸、
現在の本丸は南東の隅に天守台が造られたことから、
殿守丸(でんしゅまる)と呼ばれていた。
天守台石垣は本丸内側の高さは約四メートルだが、
外側の南側と東側の犬走りからの高さは十七メートルで、
篠山城で最も高い石垣である。 」
天守台の平面は東西十八メートル、南北二十メートルである。
「 築城時に天守は江戸幕府の指示により、 城郭が堅固すぎるとの理由で、建築が中止され、 代わりに、天守台南東隅に二間(4m)四方の一重の隅櫓を配置し、 東側と南側に土塀を巡らせていた。 」
天守台からの見晴らしは良い。 東方には丹波富士と呼ばれる中世の山城である高城山(八上城跡)が美しい姿を見せる。 下を見ると、木で覆われてよく見えないが、かなり急な高石垣であることが分かった。
「 本丸の周囲は天守台と南西隅、北西隅、北東隅の三ヵ所に二重の隅櫓を建て、
間を多聞櫓でつないで内部を囲んでいた。
二の丸には大書院などの建物が建てられたのに対し、
本丸には御殿などの建物は建てられなかった。
本丸内の北側中央にある一の井戸は岩盤を掘り抜いたもので、
深さ十六メートル、内水深さ八メートルで、掘るのに二年かかったと伝えられる。 」
これで城を見学は終了し、三の丸広場に戻る。
二階町には「伊能忠敬笹山領測量の道」の石碑があり、
「 六日曇、早朝より東岡屋村に向け出発。 十日午後笹山城下二階町に着、止宿は同前、夜晴れ、
天体観測。 十一日曇、早朝より五日に打止めの丸に二の印杭より始め、呉服町、立町、河原町、京の口門番所、
大芋川の京橋二十間を渡る 」 とあった。
篠山城へのJR福知山線篠山口駅からバスで二階町で下車、徒歩約5分
日本100名城の篠山城のスタンプは大書院の受付横に置かれている