mrmaxの城めぐり 兵庫県2 (篠山城)


篠山城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が慶長十四年(1609)、 豊臣氏の居城である大坂城の包囲と豊臣氏にゆかりの西日本の諸大名を抑える拠点とするため、 山陰道の要衝地、篠山に築いた平城で、日本100名城の第57番に選定されている。 



かうんたぁ。




篠山城

平成三十年(2018)六月十七日、福知山城を見学後、福知山駅十一時七分発の 福知山線の普通列車で、篠山口駅を目指す。 
丹波の国は亀岡盆地、福知山盆地、篠山盆地の三つの盆地があるが、 京都から亀岡、福知山間は山と渓谷を横断して進むに対し、 福知山からの福知山線は土師川と篠山川に沿い、山間部を走るがトンネルは少なく、 開けていた。 

「 篠山城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、 慶長十四年(1609)、豊臣氏の居城である大坂城の包囲と豊臣氏にゆかりの 西日本の諸大名を抑えるために築いた城である。 
山陰道を制するのなら、交通の要衝になる福知山が良いと思うのだが、 家康の目的が山陰路と大坂城を断つことにあったので、篠山が最適だったのだろう。 
築城工事は西日本十五ヶ国二十諸侯の大名に命じた天下普請で行われ、 縄張奉行は築城の名手藤堂高虎、築城総奉行は池田輝政で、 約八万人が動員されて工事は進められ、六ヶ月で城壁が、 一年足らずで建物が完成した。  天守台は築かれたが、家康の命により、天守は築かれなかった。 」 

篠山城の最寄り駅はJR福知山線篠山口駅である。 
篠山口駅東口からバスに乗り、二階町バス停で降り、南に五分程あるくと青山歴史村がある。 
目の前にあるのは外掘(北堀)である。 

「 篠山の城の城主になったのは、家康の子とうわさされた篠山藩五万石の初代藩主、 松平康重である。 以後、松井松平家一代、藤井松平家二代、形原松平家五代、 青山家六代と、いずれも徳川譜代の有力大名に引き継がれ、明治維新を迎えている。 」 

篠山城は篠山盆地の独立丘陵である篠山に築城された平城で、 中心部に本丸と二の丸を梯郭式に置き、 内堀の外に三の丸が輪郭式に取り囲み、 その外を一辺約四百メートル四方のほぼ正方形の外掘で囲み、 外堀の三方に出入口としての馬出(うまだし)を設ける構造になっていた。 

「 江戸時代には外掘(北堀)の外に大手馬出(うまだし)があった。  方形の城は出入口が弱いため、そこに手厚い防御施設である馬出を構えた訳だが、 交通の邪魔になるため壊されていて、今はその面影は残っていない。  なお、馬出とは城の虎口(出入口)の前面に、 防御と出撃の拠点となる施設をもつ曲輪を構えたものである。  半円形のものが丸馬出、方形のものが角馬出と呼ぶ。  篠山城の馬出は外掘の外に四角に飛び出した角馬出で、 篠山城には大手馬出の他、東馬出と南馬出と三つあった。  ここは壊されてしまっているが、他の二つは残っている。 」 

目の前にあるのは外掘(北堀)である。 
江戸時代には堀を渡ったところに楼門の大手門があり、 その先は三の丸で、かなり広い敷地だった。 
現在は三の丸広場の名称になっていて、左右に駐車場がある他、 いろいろなイベントが開かれる。  当日はNHKののど自慢が放送されるとあって、 駐車場にぞくぞく車が集まってきていた。 
道を直進すると正面に石垣その先に大書院が見え、 手前に「史跡篠山城跡」の大きな標柱と篠山城の案内板が建っているところにきた。 
江戸時代には北廊下門があったところである。 

青山歴史村
     北堀      三の丸跡
青山歴史村
外掘(北堀)
史跡篠山城跡の標石と案内板



江戸時代には北廊下門をくぐると、内掘に屋根付きの廊下橋が架かっていて、 対岸の二の丸石垣上の表門に繋がっていた。  現在は廊下櫓の代わりに、土の上に敷石道が設けられている。 
内掘には藤堂高虎ならねばというかなり広い巾の犬走りが設けられていた。 
石垣は近江(滋賀)の穴太衆による、自然石をあまり加工しないで積む、 野面積みと算木積みという工法で築かれている。 
その先の二の丸石垣の一端に「表門跡」の標柱があるが、江戸時代には 櫓門形式の表門があり、両側の石垣の上には多聞櫓があり、敵の襲撃に備えていた。 
門に入った右側の石垣には階段が付いていて、そこから楼門の表門上に出入りしていたのだろう。 

内掘と石垣
     表門跡      石垣
内掘、武者走り、二の丸石垣
廊下橋跡と表門跡
表門跡石垣



正面を見ると石垣は右に直角に曲がっているが、これは枡形という構造で、 優位に横矢を掛けるための工夫により生まれたとされる。 
その先の門を思わせる石垣は中門跡である。 
これも楼門形式の門で、その先は左に直角に曲がる枡形構造になっていて、 石垣の上には多聞櫓が続いていた。 
中門の先にあったのは鉄門(くろがねもん)で、今は木の門になっているが、 かっては楼門という形式で、 門扉には鉄板が張られた頑丈な門で敵の侵入を守っていた。 

枡形
     中門跡      枡形と鉄門跡
枡形
中門跡
枡形と鉄門跡



石垣には担当した藩の石工などが刻んだ刻印がある石も多く見付けることができた。 
その先に見えるのは大書院である。 

「 大書院は慶長十四年(1609)の篠山城築城とほぼ同時に建てられ、 約二百六十年間に渡り、篠山藩の政治の中心として、藩の公式行事などに使用された。  大書院は木造住宅建築としては非常に規模が大きく、 現存する同様の建物の中では京都二条城の二の丸御殿遠侍に匹敵する建物である。    二条城の御殿は将軍が上洛した時の宿所となった第一級の建物ということから、 大書院は一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえる。   明治維新となり廃城令後、城内のほどんどの建物がとり壊された中で、 篠山を象徴する建物としてただ一つ大書院だけが残され、 小学校や女学校、公会堂などに使用されてきたが、 昭和十九年(1944)に火災により焼失した。 
現在の建物は、古絵図、古写真、発掘調査などを基に、 平成十二年(2000)に復元再建したものである。 」 

復元された建物は平屋建てで、妻側(北側)を正面とし、 床面積739.33u、棟高12.88mで、屋根は入母屋造、こけら葺きである。  東北隅に中門、正面に車寄せ、その屋根は軒唐破風が付いている。  内部に襖絵に囲まれた八つの部屋があり、その周囲に広縁が、 その外側には落縁が一段低く設けられている。 
100名城のスタンプはここの受付横に置かれていた。 
大書院の右側に井戸がある。 この井戸は城北の玉水が流れ出た水を汲みとり、 夏の日でも枯れたことがないという。 

刻印のある石垣
     大書院      井戸
刻印のある石垣
大書院
井戸



大書院の裏に廻ると広い空地が広がっていた。 二の丸跡である。 

「 二の丸には前述の大書院の他、小書院、中奥御殿、奥御殿、台所などの建物と 築山をもつ庭園があったようで、発掘調査の結果を基に、建物の敷地が表示され、 二の丸庭園と表示されていた。 」 

右手奥の庭園だったところには井戸があった。 
二の丸の四隅には隅櫓があり、 それをつなぐ多聞櫓で二の丸全体は守られる仕組みになっていた。 
二の丸奥の中央に埋門があり、埋門の上に江戸時代には多聞櫓があった。   埋門は非常時には門を埋めて、敵の攻撃を遮断することができる門である。 
門の下の石垣には普請総奉行、池田輝政の刻印が残る石がある。 
この門を出ると南門、そして南馬出に通じていた。 

二の丸跡
     庭園の井戸      埋門
二の丸跡
庭園の井戸
埋門



二の丸の左(東)側に一段高く石垣が組まれているのは本丸石垣で、 中央に青山神社の鳥居がある。 また、右手奥に天守台がある。 
石段を上った先に青山神社の社殿があるが、この一帯は篠山城の本丸跡である。 

「 青山神社は藩主青山家の旧恩を追慕する人々が明治十五年(1882)に本丸跡に創建した神社で、 祭神は青山家の遠祖、青山忠俊と名君の青山忠裕である。 
築城当初は現在の二の丸が本丸、 現在の本丸は南東の隅に天守台が造られたことから、 殿守丸(でんしゅまる)と呼ばれていた。 
天守台石垣は本丸内側の高さは約四メートルだが、 外側の南側と東側の犬走りからの高さは十七メートルで、 篠山城で最も高い石垣である。 」

本丸石垣
     青山神社      天守台
本丸石垣
青山神社
天守台



  天守台の平面は東西十八メートル、南北二十メートルである。 

「 築城時に天守は江戸幕府の指示により、 城郭が堅固すぎるとの理由で、建築が中止され、 代わりに、天守台南東隅に二間(4m)四方の一重の隅櫓を配置し、 東側と南側に土塀を巡らせていた。 」 

天守台からの見晴らしは良い。  東方には丹波富士と呼ばれる中世の山城である高城山(八上城跡)が美しい姿を見せる。  下を見ると、木で覆われてよく見えないが、かなり急な高石垣であることが分かった。 

「 本丸の周囲は天守台と南西隅、北西隅、北東隅の三ヵ所に二重の隅櫓を建て、 間を多聞櫓でつないで内部を囲んでいた。  二の丸には大書院などの建物が建てられたのに対し、 本丸には御殿などの建物は建てられなかった。 
本丸内の北側中央にある一の井戸は岩盤を掘り抜いたもので、 深さ十六メートル、内水深さ八メートルで、掘るのに二年かかったと伝えられる。 」

これで城を見学は終了し、三の丸広場に戻る。 
二階町には「伊能忠敬笹山領測量の道」の石碑があり、 「 六日曇、早朝より東岡屋村に向け出発。 十日午後笹山城下二階町に着、止宿は同前、夜晴れ、 天体観測。 十一日曇、早朝より五日に打止めの丸に二の印杭より始め、呉服町、立町、河原町、京の口門番所、 大芋川の京橋二十間を渡る 」 とあった。 

天守台平面
     本丸石垣      伊能忠敬測量の碑
天守台平面
本丸高石垣、奥は高城山
伊能忠敬測量の碑



篠山城へのJR福知山線篠山口駅からバスで二階町で下車、徒歩約5分 
日本100名城の篠山城のスタンプは大書院の受付横に置かれている 




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