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竹田城の縄張りの規模は南北四百メートル、東西百メートルに及び、 完存する石垣遺構としては全国屈指のものである。
「
織豊期以降の竹田城は、最高所の天守台(標高353.7m)をほぼ中央に置く石垣城郭で、
本丸以下南方には南二の丸、南千畳が、
北方には二の丸、三の丸、北千畳を築いている。
更に天守台の北西部には花屋敷と称する曲輪がある。
ここは主郭の中でも搦手の位置にあたるため、南北には石塁を築き、防御性を高めている。 」
現在の竹田城は赤松広秀が総石垣に作り替えられた城郭であるが、 太田垣氏時代の遺構も一部残っていて、 南千畳曲輪の下には大小十本の竪掘群がある。
「 竪掘とは敵が攻城した時に敵兵士が横移動出来ないようにする遺構で、
連続した竪掘によって表面が凸凹する形状から、
畑の畝に例えて、畝状竪掘と呼ばれているが、
これらの遺構群は戦国期の竹田城の一部であろうと見られている。 )
竹田城の見学は一方通行で、その先の左側に竹田城見学道の出口がある。
そこからは坂は急になり、約十分で竹田城跡の料金所に着いた。
なお、駅からの登城道を上ってきた人もここに出る。
日本100名城のスタンプはここで押せる他、
竹田駅構内にある和田山観光案内所にも置かれている。
料金を支払うと「国史跡竹田城跡」の石柱が直登のような石段がある。
ここを上ると見事な石垣が両脇に現れるが、大手門跡で、
石垣は構築技法から見て穴太積を採用している。
「 穴太積は近江国坂本を中心に発達した石垣構築法の呼称で、積み方からいえば野面積みの一種である。 野面積みは加工を 施さない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く、 一見すると粗雑に見えるが、水はけがよく、くずれを防ぐ。 」
右側にある空地は北千畳曲輪である。
「 竹田城の特徴としてあげられるのは北千畳曲輪、南千畳曲輪、
花屋敷曲輪の三つの曲輪群の標高が三百三十一メートルとほぼ同じ高さに作られていることである。
本丸の標高は三百五十一メートルなので、標高差は二十メートルである。
このことにより、三つの曲輪群が平面構成だけではなく、
立面構成にも高度な計算がなされていてことが分かる。 」
北千畳曲輪から三の丸にかけて枡形虎口が敵の進入を防ぐ役割を果たしていた。
「 竹田城の下には円山川があることから、寒暖差の激しい秋を中心に早朝に川霧が発生し、 城部が霞むことことから、天空の城とか日本のマチュピチュとも呼ばれるようになった。 城の対岸の山に数か所展望台があり、途中までは車がいくが、その後は徒歩でのぼるが、 霧が出るのを待つため、暗いうちからカメラマンが上っていくという。 」
三の丸は変わった形をした曲輪だが、
地形を活かし北側の入口に枡形虎口を配し、
中央には東に向ってコの字に掘られており、
その下には古い時代の遺構である堅堀が下に向って続いている。
また、西側は下に向って絶壁になっていて、地形を利用した要塞であることが分かる。
三の丸の先の左側に二の丸はあるが、ここからは細い道になって、
本丸の下まで続いている。
三の丸の左側に石垣が見えるがこれが二の丸である。
左側に坂があり、両脇が石垣になっているが、
ここに二の丸への虎口()入口があったのだろうと思った。
左側の石垣には石段があり、かって楼門があったのかもしれない。
二の丸は三の丸より狭い面積で、羽子板のような形になっていて、本丸下に続いている。
奥の小高い石垣は本丸天守台である。
二の丸から見ると本丸、天守台の左に一段下がって南二の丸、
更に下がって南千畳曲輪があることが分かった。
本丸石垣は天守台南側の石垣で、高さは十・六メートルである。
本丸へは人工で造られた階段を上がる。
本丸は標高約三百五十四メートルの古城山(虎臥山)の山頂部に築かれ、
その正面に天守台がある。
天守台への登り口には石段や穴蔵がないので、
天守脇の付櫓か、本丸にあった建物と連結して、その内部から階段等によって、
天守に登ったと思われる。
「 天守台は少しいびつな形の約十一メートル×約十三メートルで、
天守台には二層か三層の天守が建っていたようで、いくつかの礎石跡が確認でき、
柱間は六尺五寸の京間で建てられたとされる。
また、天守台下の高見殿曲輪(本丸)には本丸御殿があったと推定されている。 」
天守から西を見ると、南二の丸や南千畳曲輪の石垣や櫓跡と思える遺跡が見えた。
本丸から南二の丸に向うと、立派な石垣がある。
石垣の傾斜には算木積みが使われている。
「 算木積みとは、石垣の出角部分において、
長方形の石の長辺と短辺を交互に積んでいく技法である。
これにより、石垣の強度が増し、崩れにくくなる。
竹田城では、天守、本丸、北千畳など多くの場所で、算木積みを確認できる。 」
降りたところは平殿で、その右手(南西側)には花屋敷と呼ばれる曲輪がある。
更に一段降りると、南二の丸である。
南二の丸は平成二十五年(2013)から遺構や下草の保護を図るため立ち入りを禁止していたが、
「 踏圧のダメージが軽減されたことで下草が生え、樹木の状況も改善した。
遺構の露出も起きない状況にまで環境が回復した。 」 ことから平成三十年(2018)八月から見学できるようになった。
その先にあるのが南千畳曲輪と南二の丸を仕切る虎口跡である。
そこを抜けると一面広々とした広場に出るが、ここは南千畳曲輪である。
かって一本の大きな唐松があったというが、見学者が根元を踏みつけたため、
枯れてなくなったという。
そのためか、見学者の道には杭とロープが張られていて、
それ以外のところには行けなくなっていた。
振り返ると本丸、南二の丸などの石垣群がで〜いんと鎮座していた。
南千畳曲輪の出口には搦手口の門があったようであり、石垣が残っていた。
そこを下ると、先程歩いてきた道に出て、竹田城の探訪は終了した。
料金所出口に近い表米神社登山道の石段を下り、約40分歩いて駅に戻ろうかと思ったが、
その時間だと駅で二時間近く待つことになるので、
先程のタクシー降車場に行くと客待ちのタクシーがいたので、
それに乗ること駅では十分程待って、姫路行きの各駅停車に乗ることができた。
竹田城へはJR竹田駅から徒歩40分、
タクシーで山腹のバス、タクシー駐車場に行けば約10分で、入口の入城料金所に着く
日本100名城の竹田城のスタンプは竹田城料金所か、
竹田駅構内の和田山観光案内所にて