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花岳寺に立ち寄る。 赤穂城の西惣門だった山門がある。
説明板「花岳寺」
「 花岳寺は初代赤穂藩主浅野長直により、
正保二年(1645)、浅野家の菩提寺として建立された。
元禄赤穂事件後は歴代赤穂藩主(永井家、森家)の菩提寺となった。
山門は赤穂城の西惣門だったものを明治六年に当寺二十一世仙珪和尚が購入し、
移設したものである。
柱は当時のものより約三寸短くなっていると思われ、建材は栂(つが)を主としている。
屋根は本瓦葺き、棟木と出桁が一支半継ぎたしされている。
高麗門の形式をとり、西惣門の遺構であるため、素朴無骨で武家門の風格を備え、城郭附属建築として
史跡の価値のある貴重な門といえる。 」
門をくぐると右手にあるのが、鳴らずの鐘である。
「 梵鐘は赤穂二代藩主長友が父長直のために鋳造したものである。
三代長短の元禄十四年(1701)、浅野長矩は江戸城松之大廊下で吉良義央へ刃傷に及び、
これにより赤穂浅野家は三代で断絶した。
元禄十五年(1702)十二月十四日、家臣四十七人は吉良邸に討入り、
長短の無念をはらし、見事に自刃した。
この知らせが赤穂に届き、町民は四十六士の死を悲しみ、花岳寺に集まり、
この鐘を延々についた。
爾来音韻を失すること五十年、「寛政九年改鋳」と梵鐘に銘記されている。
音韻を失している間、この鐘は誰がいうこともなく、鳴らずの鐘といっていた。
第二次大戦の時、義士との由緒深きことから供出を免れ、今日に至る。 」
花岳寺は曹洞宗の寺院で、浅野家、永井家、森家の菩提寺であり、 本堂の裏にはその墓所と大石良雄の祖先が眠る大石家墓地がある。
「 赤穂浪士三十七回忌にあたる元文四年(1739)、境内に有志により義士墓が建立された。
ここには遺髪が納められているとされる。
また、宝暦二年(1752)、赤穂浪士五十回忌にあたり、
大石良金(主税)と関わった藤江熊陽(ふじえゆうよう)の撰による碑文が刻まれた義士塚が建立された。 」
報恩堂の前に野口雨情の詩碑がある。
「 野口雨情の詩碑は昭和十四年に民謡行脚の道すがら、
四月十八日から三日間赤穂に滞在し、
詩作した十節よりなる赤穂民謡の冒頭の第一節、
「 春のあけぼの 花ならば桜 武士の鑑ぢや 赤穂義士 」
文字は雨情自筆のものを写刻したものである。 」
以前に東京の高輪泉岳寺の墓にお参りしたことを思い出した。
また、吉良邸跡にも京都祇園一力にもでかけたが、全て京都から江戸での出来事に思えていたので、
赤穂にきて、地元の人達の反応を知ることができたのは収穫だった。
花岳寺を出て、南西に向うと車道に出ると「本町筋」と書かれた道標があり、
「↑花岳寺300m、←赤穂城跡(塩屋門330m 180m赤穂城跡(大手門)→」の表示があった。
道の向こうには水堀と石垣、そして、隅櫓の跡のようなものが見えた。
「 赤穂城の創築時期ははっきりしないが、
文正元年(1466)〜文明十五年(1483)頃、岡光広が築いた加里屋城が始めである。
姫路藩主、池田輝政の弟、長政が慶長五年(1600)に大鷹城を築いた。
慶長十八年(1613)、赤穂の地は備前岡山藩主、池田忠継(輝政の次男)の所領となったが、
一重の堀、石垣、櫓、門が造営された。
元和元年(1615)、 忠継の弟、政綱に三万五千石が分与され、
赤穂藩が立藩し、城には御殿が造営されたが、
寛永八年(1631)、 政綱が嗣子なく死去したため、弟の輝興が入封し、
更に櫓、馬屋を造営された。
しかし、正保二年(1645)、輝興は発狂により、妻や侍女を殺害し、改易となる。
代わりに常陸笠間より浅野長直(あさのながなお)が五万三千石で入封し、
浅野長直が正保二年(1645)に入城して、
正保三年(1646)から近世城郭建設の準備が始まり、慶安元年(1648)に着手して、
三角州の先端という要害地にあった陣屋を
工事により近世城郭に整備し、寛文元年(1661)に完成した。 」
突き当たった堀を左折して百八十メートル行くと、
駅前から来た赤穂城通りが交叉点で合流する。
その先には大手門に渡る橋があり、大手門の右手には隅櫓がある。
「 大手門は三の丸に入る入口で、高麗門と楼門、枡形石垣で構成されていた。
現在の大手門と三の丸隅櫓は古写真を基に昭和三十年(1955)に再建されたもので、
隅櫓の初重には唐破風付出窓が配されている。 」
道標 | 大手門と隅櫓 | 大手門と隅櫓 |
赤穂城(あこうじょう)は、近世になって発達した軍学、兵法に従って縄張した城で、 本丸、二の丸、三の丸のすべての郭が残された貴重な近世城郭遺構であることから、 昭和四十六年(1971)に国の史跡に指定された。
「 赤穂城は熊見川(現在の千種川)河口の西岸に位置し、
南に瀬戸内海に面した海域で、変形輪郭式の平城である。
縄張は藩の軍師であり、甲州流軍学者だった近藤三郎左衛門正純が行い、
本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれ、
十二の城門と十の隅櫓を築いた。
銃砲撃戦を意識した設計となっており、
十字砲火が可能なように稜堡に良く似た横矢掛かりが数多く用いられている。 」
赤穂城の案内図 |
赤穂城の表虎口である大手門は石垣を方形に積み上げた枡形と高麗門、
櫓門の二重の城門を構えた最も厳重な枡形だった。
再建された高麗門をくぐると、右折、左折、更に左折するが、
枡形は長辺十間(約20m)、短辺六間(約12m)、面積は234平行メートルである。
かってはその先に幅四間半(約8.9m)奥行二間(約4m)楼門があったが、今は両側に石垣が残っている。
その先にある案内所は番所跡で、江戸時代には門番として足軽三名、
下番二名が詰め、大手門の警護にあたっていたという。
左側に「近藤源八宅跡長屋門」の説明板がある。
「 近藤源八正憲(まさのり)は甲州流軍学を修め、
千石番頭の重職にあった。
源八の妻は大石内蔵助良雄(よしたか)の叔母にあたり、
大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟に加わらなかった。
彼の父は甲州流軍学者で、赤穂城の縄張、設計をした近藤三郎左衛門正純である。
現存する建物は長屋門の長屋部分である。
門部分は大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、
長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として使われていた。
現在はその内の北端部の一戸とその南隣の一戸の北端の一部が残されている。
この長屋門は十八世紀以降に建てられたものと推察されるが、
当時は総長二十一間半(約42m)の長大な長屋門だった。 」
右側にある大石邸長屋門は浅野家筆頭家老、 大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり、 住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。
「 門口約26.8m、奥行約4.8mの建物で、
屋根瓦には双ッ巴の大石家の定紋がついており、
元禄の昔に思いをはせ、内蔵助の偉業をしのぶ唯一の建物になっている。
かっては内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、
又元禄十四年三月主君の刃傷による江戸の悲報を
伝える早打ちがたたいたのもこの門である。
安政三年(1856)に大修理が行われ、大正十二年に国の史跡に指定された。 」
大石家住宅跡と右に右に曲がっていくと、 「片岡源五右ェ門宅址」の石柱が建っている。
「 三の丸には城を守りを兼ねて、家臣が住んでいた。 片岡源五右衛門高房は浅野内匠頭長短と同年齢で、 児小姓頭から側用人となり三百五十石を与えられた。 元禄十四年(1701)三月十四日、内匠頭の登城に従い、 江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待中、 主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、 藩邸留守居の諸士に大事を伝え、事態の収拾にあたった。 田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、 主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだ。 討ち入りの時は表門隊に属し、宮森助右衛門、武林唯七と三人組合って、 真っ先かけて、屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字槍をふるって戦った。 細川家にお預けののち、二宮新右衛門の介錯で、従容として切腹、行年三十七歳。 」
その先にあるのは大石神社である。
「 明治三十年(1897)、大手門枡形の南側と北方多門を埋められ、
大正元年、討ち入りした四十七士を祀る神社として創建されたのが大石神社である。
大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命を主神とし、浅野長直、長友、長矩、赤穂浅野家三代の
城主と、その後の藩主、森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀されている。 」
赤穂城は本丸と二の丸は輪郭式、二の丸と三の丸は梯郭式になっていて、
近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とされる。
三の丸と二の丸の間に小川が流れているが、くずれかけた石垣の近くに「二の丸門跡」の案内板があり、
その奥にかんかん石といわれる二つの大きな石があった。
説明板「二の丸跡・かんかん石」
「 浅野長直に仕えて赤穂に滞在した軍学者山鹿素行が築城工事中の承応二年(1653)、
この門周辺(二之丸枡形虎口)の縄張を一部変更したとされる。
二の丸の面積は一万七千二百五十九坪、二の丸門は櫓門で、
桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪である。
長直の招きで、一千石の厚遇で江戸の藩士に兵学を教えていた山鹿素行が、
三十二歳の時、赤穂に七カ月滞在して縄張りについて助言。
これにより二の丸周辺の手直しがされた。
それまでは一重の堀に囲まれた掻上城(かきあげじょう)という質素なものだった。
素行は後日、幕府の御用学問であった朱子学を批判したことで流罪になり、
この赤穂城内に住んだ。
また、文久二年(1862)十二月九日、赤穂藩森家の国家老森主税が藩士達に暗殺される文久事件の舞台になったのはこの付近である。
ここに置かれている半畳ほどの二つの大きな石は、
小石でたたくとかんかんという音をたてることから、かんかん石と呼ばれる。 」
その先左側の奥まったところには「山鹿素行」の銅像が建っている。
説明板「山鹿素行」
「 山鹿素行は江戸時代の兵学者、儒学者として名高い。
承応元年(1852)から万治三年(1660)の間、赤穂藩主、浅野長直に千石で召抱えられ、
承応二年には赤穂城築城に参画して、二の丸虎口の縄張を一部変更し、家中に兵法を指南した。
その後、寛文五年(1665)に「聖教要録」が幕府の忌諱に触れ、
翌年から延宝三年(1675)まで赤穂に配流され、
二の丸内の家老大石頼母邸の一隅に謫居した。
この間に素行の学問を代表する著書が完成したとされる。
この銅像は大正十四年(1925)に謫居した跡地に建立されたが、 平成十年に現在地に移された。 」
道を直進し、左折すると左側に「大石頼母助(おおいしたのもすけ)屋敷門」 の説明板がある。
「 二の丸には二之丸庭園をはじめ、馬場や米蔵などがあった。
大石頼母助良重は大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人物で、家老職にあった。
藩主浅野長直(ながなお)に重用され、二の丸に屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。
山鹿素行が赤穂に配流された際、この屋敷の一角に八年余りを過ごしたという。
この門は発掘調査で発見された土塀の基礎石列、建物礎石などに基づき、
平成二十一年に薬医門形式の屋敷門を復元したもので、
一間一戸潜戸付薬医門で、木造、切妻造、本瓦葺きである。 」
元禄七年(1694)、浅野長矩の弟の長広は、播磨国赤穂郡の新田三千石を分与され、
旗本の寄合に列した。
元禄十四年(1701)、長矩の江戸城中での吉良義央に対する刃傷事件により、
浅野氏改易となると、連座した長矩の弟、長広は、赤穂新田三千石の所領もいったん召し上げられだが、
宝永七年(1710)、長広は安房国朝夷郡、平郡五百石に移され、
減封となったが旗本に復した。
長広のあとは嫡男の長純が家督を受け継ぎ、
長直系浅野氏の子孫は安房国で存続している。
赤穂藩は、浅野家三代目浅野長矩の刃傷により、改易後、永井直敬が藩主になるが、
信濃国飯山藩へ転封となり、備中国西江原藩より森長直が二万石で入部した。
森氏は廃藩置県までの十二代百六十五年間、赤穂藩主を続けた。
門をくぐると視野が広く広がり、「二之丸庭園」の看板があった。
「 二之丸庭園は二の丸北西部にあった大規模な回遊式庭園で、東は大石頼母助屋敷から 始まり、西は西仕切りまで及ぶ、ひょうたん形の雄大なものだった。 山鹿素行も頼母助屋敷の一角に寄寓生活を送った時に、この池泉で遊興したとされる。 発掘調査の結果を受け、二之丸庭園は本丸庭園とともに国の景勝に指定され、現在復元工事が行われている。 」
江戸時代の本丸図を見ると、本丸門から左右に水掘が続き、
本丸を囲む石垣が折れまがった縄張を多用し、横矢掛りが出来る構造になっていたことが分かる。
正面の本丸門は高さ四・六メートルの左前枡形の石垣と脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺の一の門と
小戸付高麗門、切妻造、本瓦葺の二の門で構成されていて、
明治十年代に取り壊されるまで、約二百三十年間建っていた。
今ある門は平成八年に古写真を基に復元されたものである。
まず高麗門の一の門をくぐる。
赤穂城は五万石の浅野氏には過度に広壮なもので、
これがために財政難に陥いる。
長直は姫路から浜人、浜子を入植させ、塩業村を興し、赤穂塩の経営を始めた。
次いで、塩水濃縮法による入浜塩田法を導入して大量増産をはかり、
やがて赤穂塩は日本全国の塩の七パーセントのシェアを占めるようになった。
本丸一の門の楼門をくぐると、
本丸櫓門(9時〜16時30分)の下に日本100名城のスタンプが置かれていたので、
捺印した。 なお、日本100名城のスタンプは
赤穂市立歴史博物館(赤穂市上仮屋916−1 0791―43―4600)にも置かれている。
目の前に広い空間が広がっているのが本丸跡である。
「 本丸の面積は約一万五千uで、 その三分の二は屋敷、番所、倉庫などの建物と天守台、池泉などで、 残る三分の一はくつろぎとよばれる場所だった。 本丸御殿は右手(西)から大部屋を主とする表御殿、中奥、小部屋を主とする奥御殿に分れていた。 永井家の赤穂御城絵図を基に 昭和五十八年(1983)から行われた発掘調査の結果を反映させた建物跡に床高だけ高くしたコンクリート盤の上に、、 番所、納戸間、内玄関などの部屋の間仕切りを表示している。 」
右側に藩主が政務を行う表御殿があり、
大書院と小書院、藩主が使う上之間があり、広間は使者との間と組み合わされて
控室となり、その他、勘定所や上台所が加わり、藩庁として使用されていた。
大書院、小書院、藩主が使う上之間があり、
御殿内部の坪庭や右(西)側の縁側の外に「くつろぎ」と呼ばれた池泉庭園があったようである。
左半分は奥御殿で、中奥と大奥に分れ、中奥には藩主が住む居間や寝室があり、中台所があった。
中奥の縁側の先には池泉式庭園があったことが説明板に表示されている。
説明板「国名勝 赤穂城址本丸庭園 大池泉」
「 元禄期の絵図によれば、本丸庭園は藩主御殿と隣接して、
築山を背景とした方形の池泉があり、
中島内にソテツや松が植えられて、八つ橋が掛かる景観を見せていた。
池泉の東側にあった藩主の居間(十七畳半)には縁側の先に白砂が敷かれ、庭を眺めることができた。
江戸時代後期に改変された池泉周辺には塀が設置されていた。
赤穂城内水筋図には旧赤穂上水道を使った給水ルートが描かれており、
南側の本丸外堀へと排水された。
この池泉は昭和五十九年(1984)の発掘調査によって全容が明らかになり、
見つかった遺構をそのまま活用して、浅野、森時代の庭園を復元整備したもので、
平成十四年(2002)には国名勝に指定された。 」
奥御殿は藩主の寝室と五部屋と台所からなり、
その内二部屋は風呂と便所が備えられていた。
藩主が住む本丸では庭の水の他、
生活用水はすべて約七キロ上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われたという。
奥御殿の左側に天守台がある。
五層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、
天守台のみが今日に残っている。
天守台に上る石段は途中で終わり、その先は鉄製の階段になっていた。
天守台から下の本丸を眺めた。
「 赤穂城は廃城令により、明治時代前期に城内の建物は破却され、
石垣と堀のみが残った。
昭和中期から平成にかけて櫓、門、塀、庭園が徐々に再建され、
現在も二の丸庭園の再建が進められている。 」
以上で、赤穂城の見学は終了した。
赤穂城へはJR赤穂線播州赤穂駅から徒歩約15分
赤穂城のスタンプは本丸櫓門(9時〜16時30分)か、
赤穂市立歴史博物館(赤穂市上仮屋916−1)にて