mrmaxの城めぐり 兵庫県5 (明石城)


明石城は西国諸大名に対する監視と押さえとして、 二代将軍徳川秀忠よりの命により築城された城である。 
日本100名城の第58番に選定されている。 


かうんたぁ。




明石城

平成三十年十月二十七日、赤穂城を見学後、明石城を訪問した。 

「 明石は古来より山陽道が通り、北には丹波国、 但馬国への道が分かれ、また、対岸の淡路島を経由して四国へのルートがあり、 交通の要衝であった。 
小笠原忠真は元和三年(1617)、信濃松本から転封になり、 明石川河口西岸にあった船上城に入城する。  翌年、二代将軍徳川秀忠より、西国諸大名に対する監視の押さえとして、 明石海峡を望む丘陵に築城するよう命令が下る。  忠真の岳父の姫路藩主、本多忠政が築城の指導にあたり、その手腕が発揮され、 元和五年(1619)から一年間で築城を完了した。   また、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった付近の三木城、高砂城、 枝吉城、船上城の廃材が用いられたことも大きかったと思われる。 
小笠原忠真が豊前小倉に転封となった後は、 松平戸田氏、大久保氏、松平藤井氏、本多氏と、僅か五十年間に、 城主が目まぐるしく入れ替わった。 
本多氏の転封の後、越前家の松平直明が六万石で入城し、 以後、十代、百八十九年間、松平氏の居城となり、明治維新を迎える。  最後の明石城主は松平直致で、明治七年(1874)の廃城令により廃城となる。 」 

明石駅に降りると、目の前が明石城跡である。  当日は菊の展示会が行われ、土曜日だったこともあり、家族連れで混雑していた。 
駅を出ると水掘があり、堀に沿って左に行くと、 信号交叉点の正面に明石城に入る石垣で組まれた道がある。 
道の左右は水掘で、右側の堀は明石小学校の手前で左折し、 その先にある箱堀の手前まで続いている。 

「 明石城は明石海峡を望む丘陵(人丸山)の端に築城された連郭梯郭混合式の平山城である。 
自然地形を巧みに利用した三重三段構えの堀と曲輪の縄張で、 本丸を中心に配し、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、 南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられた。  西側は明石川を自然の外堀とし、 南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(現在の明石港)とし、 北側は鴻の池(剛の池)と自然林、谷筋で防備を固めた。
本丸に巨大な天守台が築かれたが、天守は建てられなかった。  」 

堀を渡った先にある常夜燈の乗った石垣は三の丸に入る大手門跡である。 
昔は枡形虎口になっていて、石垣は江戸時代初期の造りの打込みハギである。 
その先の広い空地が三の丸の跡である。 
入って直ぐの右側に、明石公園サービスセンターがあり、ここで100名城のスタンプをもらった。 
その先の右側にはひぐらし池、乙女池や御茶屋があり、 明石城武蔵公園になっている。 
宮本武蔵が小笠原氏の客人だった時、 現在の陸上競技場付近に「樹木屋敷」と呼ばれる庭園を造ったが、 資料に基づき再現したという。 

明石城水堀
     常夜燈が乗った石垣      明石城武蔵公園
明石城水堀
大手門跡
明石城武蔵公園



左側は西芝生広場であるが、当日は菊の展示場と出店で占拠され、 それを利用しようとする家族連れで混乱していた。 
客越しに見える石垣の上には右側に巽櫓(たつみやぐら)、 左側に坤櫓(ひつじさるやぐら)が建っている。 
城壁の手前にある日時計は中央部が兜形になっていた。  明石が日本標準時子午線を通ることから明石市が設置したものである。 

「石垣の上にあるのは右から東の丸、二の丸、本丸で、 明石城の主郭部を成す。 
この部分の石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が担当し、 三の丸と町屋は小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められたといわれ 徳川幕府が力を入れた城であることが分かる。  」 

三の丸から本丸と二の丸へは石段を上る。 その周囲の石垣は美しく、 高く積み上げられていて、勾配は美しく、隅部は算木積みである。 
石段の巾は駕籠の巾に合わせたといわれ、普通より巾広いため、歩きずらかった。 
石段の道S字になっていて、上の石段の両側は二の丸虎口で、 江戸時代には大の門という楼門があった。 
 

本丸石垣
     石段      二の丸虎口跡
本丸南石垣(左側-坤櫓、右側-巽櫓)
本丸と二の丸下の石垣と石段
二の丸虎口跡



石段を上ると二の丸跡で出た。 
江戸時代には二の丸、そして、右手にある東の丸に屋敷が建っていた。 
今は樹木が茂る公園になっている。 
二の丸から本丸に入るところに本丸虎口があり、その奥に巽櫓が建っている。 

「 連郭式の縄張の中心の本丸には、 巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓という四基の三重櫓が築かれた。 
坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられている。  また、築城と並行して城下町の町割りも実施され、 当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと史書に記録されているという。 
北東の艮櫓は明治十四年(1881)、小学校の建築用材とするため、解体された。  北西の乾櫓も明治三十四年(1901)に解体されたが、 その際、本丸南面を固めていた巽櫓と坤櫓は修理作業が行われた結果、 現存し、国の重要文化財に指定されている。 」 

巽櫓(たつみやぐら)は辰巳(南東)の方向にあることから、その名が付けられ、 桁行五間、梁間四間、高さ七間一寸、入母屋造で、妻部は東西に向いている。  

二の丸跡
     本丸の虎口      巽櫓
二の丸跡
本丸虎口跡の石垣
巽櫓(たつみやぐら)



巽櫓の反対側に見えるのは坤櫓(ひつじさるやぐら)で、その間に土塀が連なっている。 
坤櫓は本丸の南西側に位置し、 初重に千鳥破風、二重目に唐破風が置かれた白漆喰総塗籠の端正な三重櫓で、
桁行は六間、梁間五間、高さ七間二尺九寸、入母屋根造、妻部は南北に向いている。  即ち、坤櫓と巽櫓の棟(破風)の方向が違っているのである。 

「 平成七年(1995)の阪神淡路大震災で、 櫓の石垣が崩れるなどの大きな被害を受けた。  平成七年から八年、巽櫓と坤櫓の二棟の櫓を曳家で移動させ、 土台や石垣を修復して、平成九年、櫓を元の位置に戻し、 平成十一年まで軸組の補正や壁、屋根の修復作業を行った。 
明治三十四年(1901)、傷んでいた本丸と二の丸そして本丸土塀が取り壊されたが、  上記工事に合わせ、巽櫓と坤櫓を繋ぐ本丸土塀を復元させた。 
坤櫓は奇数月、巽櫓は偶数月の土日祝限定で、 一階部分だけだが一般公開されている。 」 

坤櫓横の本丸南西部隅に熊本城天守台に匹敵する百五十二坪の天守台が築かれたが、 天守は建設されなかった。 
天守台は回りが樹木に覆われたところにあり、気がつかないで通過しそうになった。 
本丸跡には乾櫓跡や艮櫓跡に案内板があったが、 本丸御殿だったところは公園になっているだけである。 
本丸から西に下ると稲荷郭であるが、本丸を出る両側に石垣があり、 虎口の門があったことが分かる。 
以上で、明石城の見学は終了。 
これで兵庫県内の日本100名城は全て訪問したことになる。 

復元された土塀
     坤櫓      天守台
復元された本丸土塀と坤櫓
坤櫓(ひつじさるやぐら)
天守台



「 明石城の遺跡としては、国の重要文化財に指定されている巽櫓と坤櫓、 そして、本丸、二の丸、東の丸を囲む石垣と稲荷郭を囲む石垣だけである。  しかし、巽櫓と坤櫓とを結ぶ土塀を含めた風景は、 往時の明石城の美しい姿を彷彿させ、 また、徳川幕府の威信かけて築いた石垣が立派で、訪問する価値を高めていると思った。 
明石公園は日本さくら名所100選に指定されているので、桜の時期は賑わうだろう。 」 

明石城へはJR山陽本線明石駅・山陽電鉄山陽明石駅から徒歩約5分  
明石城のスタンプは明石公園サービスセンター(078-912−7600 9時〜17時 )にて  




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