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その先に家老屋敷があった。
この建物は、家老屋敷跡に家老級の高級武士の屋敷を移築したもので、
仙石騒動の仙石左京の屋敷ではない。
正面から建物を見ると、平屋に見えるが、実際は二階建てになっている。
説明板「出石家老屋敷」
「 この建物は、江戸時代後期に出石藩士の居宅として使われていたもので、
出石城の内掘に囲まれた三の丸にあり、藩主の居宅兼執務施設であった対面所
(現在の出石庁舎敷地)の近くに建っていることからも、
この屋敷の主が藩の上級武士(家老クラス)であったことがわかります。
明治維新時に、本丸、二の丸の櫓など、城に伴う建物の大半が取り壊され、
明治九年(1876)の大火で、周囲のほとんどの建物が焼失する中残った、
出石藩時代の面影を偲べる重要な建築資産と言えるでしょう。
その後、公共施設として使われたことから、用途に応じた改修がされ、
曳家により若干場所が移るなどの変化はありますが、
基本的な建築材や部屋割はほぼ往時の姿をとどめています。
建物内では、そうした構造を見ることができるほか、
江戸時代後期の武士の暮らしの一端を感じることができます。
なぜ、二階建てを隠すような外観になっているか、
その答えが見つかるかもしれません。 」
100円を支払い、建物に入ると、狭く急な階段に、「隠し二階」の説明板があった。
「 この隠し二階は、十二畳と七畳の二間あり、
敵から襲撃を防いだり、秘密の会議に利用したものです。
二階に上ってのち、階段を上に引き上げ、天井板で隠してしまい、
下から見るとまったく二階がないように見せかけ、身を守る仕組みになっています。 」
二階の部屋は隠し部屋と思えないおしゃれな部屋で、明るく快適なものだった。
その奥に押し入れに説明板があった。
「 この押し入れの棚は強く出来ており、
足場として屋根づたいに出入りでき、外へ通じるようになっています。
”いざ”というときの逃げ道、隠密などの出入口になっていたものです。 」
家老屋敷を出て、登城門に向う。
橋が架かっていて、「谷山川」「登城橋」と橋の欄干に書かれていた。
江戸時代にはここに谷山川はなかったので、橋はなく、門も埋門であった、という。
橋は史実に関係なく、平成六年(1994)に造られたという。
橋の手前は三の丸、門をくぐると下の曲輪である。
ここで、出石城の縄張を見ておこう。
下図は出石城縄張図である。
「 出石城(いずしじょう)は、
有子山の麓に築城された梯郭式の平山城である。
城域は東西約四百メートル、南北約三百五十メートルで、東西の斜面に竪掘、
西側に蓮池、城の周囲に水堀と土塁を巡らせ、
最上段の稲荷曲輪から下に、本丸・二の丸・下の曲輪と階段状に曲輪を配置し、
脇を西の曲輪と山里丸、平地部分の三の丸で、城を構成していた。
更に重要な三御門(大手門・東門・西門)は枡形虎口で、防御を固めていた。
本城は吉英の時代にほとんど完成しているが、
松平忠周(忠徳)が三の丸に対面所を建てて、
本丸と二の丸にあった藩主御殿と藩政機関を移した。
」
@稲荷曲輪 A有子山稲荷社 B東隅櫓 Cお城坂(稲荷参道) D山里丸 E東門 F大手門 G本丸庭園 H諸杉神社 I辰鼓楼 J対面所 K稲荷曲輪高石垣 L西隅櫓 M渡り櫓跡 N西の曲輪 O埋門跡 P家老屋敷 Q西門
登城門の両側にある石垣は江戸期のものである。
ゴツゴツした荒い石垣である。
門をくぐると、横にかなり広い石段があり、緩やかに続いていた。
その先の左側の空地に石碑が立っていたが、ここは下の曲輪跡である。
石垣は二の丸石垣。 登城門の石垣より、城らしいので、当初のものかそれに近いと
感じた。
登城門の石垣より高く、堅固な石垣である。
二の丸石垣の左側を上って行くと、右側には空地があるが、これは西の曲輪跡である。
これは、文化十二年(1815)、仙石久道が隠居所を自から建設したことから、
西御殿と呼ばれたことによる。
久道は趣味で、コウノトリを飼っていた、という。
道の先には石段があり、左は本丸である。
石段を上ると、左と正面に上る階段があった。
左の階段を上り、入ると、二の丸跡で、「二の丸跡」の石碑が立っていた。
「二の丸跡」の石碑の先には、本丸隅櫓と本丸石垣が見える。
「 二の丸には政治を行う役所が建ち、本丸の城主御殿と渡り櫓で、
連結されていた。
中枢機能が三の丸の対面所に移ると、ほとんど使用されなくなったが、
正月行事などはここで行われた。 」
渡り櫓の跡を確認したが、左側の石垣に段差があるのが痕跡のようである。
二之丸は桜の名所といわれ、当日、お花見をしているグループがあった。
階段下まで戻り、正面の石段を上る。
左側は本丸石垣で、その上に多聞櫓が連なっていた。
石段を上り、左手に入ると本丸跡である。
本丸には現在、感応殿、隅櫓が東西にある。
「 築城時には藩主御殿があった。 松平氏以降ほとんど使用されなくなったが、明治元年に取り壊されるまで、 建物は残っていた。 庭園は残っている。 」
本丸跡に建つ感応殿は、明治期に仙石家の旧家臣達が造営したもので、 中には小諸時代から伝わるとされる、秀久の木像が安置されている。
説明板「感応殿」
「 この社殿は、感応殿といい、出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っています。 公は美濃の人で、豊臣秀吉に仕えて、功があり、洲本、高松の城主となり、
一時勘気を受け浪人しましたが、小田原城攻めで奮戦し、小諸城主に返り咲きました。 その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捕えた豪傑として伝説化されています。 仙石氏は、公のあと、子の忠政が信州上田に移り、
玄孫政明が宝永三年(1706)の出石に移封されて五万八千石を領し以来、廃藩まで
七代百六十三年間続きました。
明治に入って旧家臣らによって、本丸跡に公を祀る感応殿が建立され、
今日に至っています。 以後、町の人々は本丸を権兵衛さんと愛称をもって呼び、
例祭は五月の祥月命日に行われています。
仙石科野大宮社御神木奉讃会 」
感応殿の前に「出石そば」の石碑があった。
石碑「出石そば発祥の由来」
「 ここは旧出石城本丸跡で、祠は感応殿といい、
城主仙石氏の藩祖権兵衛秀久公(信州小諸城主)を祀り、
その為権兵衛さんと市民から親しまれている場所です。
四代政明公上田城主の時、
尊崇されていた古社・科野(信濃)大宮社御神木の大欅が枯死したのを大層憂い、
切株に覆い屋を施し大切に保存され、現在も、在りし日の面影を偲ばせて
遺されています。
政明公は大変そば好きで宝永三年(1706)出石の松平忠徳公(のちの忠周=老中)と
お国替えて出石に入部の際、信州一の蕎麦打ち名人を伴われ入国し、
そばを当地に広められました。
後永年に亘り改良と技術研鑽を重ね、出石焼の小皿に盛り付ける独特の「出石そば」を創出し、今日まで受け継いできました。
本念そば伝来三百年を迎え、科野大宮社三柱の御祭神の依代として、
大欅の一部を譲り請け「出石皿そば」の守護神とし、政明公への報恩の念を込め、
当祠に奉斎しました。
ここに関係者一同末代迄のお祀りを誓い合い、
「出石そば」の品質向上と発展を期し、碑文を刻み由来を記しました。
平成十八年十一月三日 仙石科野大宮社御神木奉賛会 」
出石そばは町内のいたるところで食べることができる。
小さな出石焼の小皿に手打ち蕎麦が盛られていて、五皿を一人前として、
追加すると更に三皿が提供されるスタイルのようである。
小生は城めぐりを終了してから、店に入っていただいた。
大きな出石焼のとっくりから汁を注ぎ、薬味はねぎ、大根おろし、わさび、海苔、
そして生卵を
お好みでチョイスし、いただく。
汁は濃くややからめで、麺は黒い実をそのまま挽く「丸挽き」と
そば粉とつなぎが10対1の十割そばで、腰が強く、
おいしくいただいた。
関西はうどんばかりと思っていたが、その歴史を知り、当地に根ずいた訳を得心した。
本丸に二つの隅櫓が建っていた。
「 本丸の東西に建つ、白漆喰総塗籠・二階の隅櫓。
かっては本丸東端、二の丸東西に合計三つの櫓が建っていた。
現在建っているものは、昭和四十三年(1968)に町民の寄付により建設されたもので、
時代考証をえない模擬隅櫓である。 」
西隅櫓の石垣には普請時の刻印が見られる、とあった。
東隅櫓の右側には本丸の庭園、その奥に稲荷曲輪の高石垣、
そして赤い鳥居が連なっている。
「 本丸の南にある石垣は稲荷曲輪の高石垣である。 高さ十三・五メートル、但馬地方で最大規模を誇り、 築城時の土木技術の高さがうかがえる。 」
鳥居をくぐり、稲荷参道を上って行くと、稲荷曲輪に出る。
ここには有子山稲荷社が祀られていた。
「 稲荷曲輪は出石城の最上部に位置する曲輪である。
ここに建つ有子山稲荷社は、小出吉秀が城内鎮護のために、
有子山城の稲荷社を移したものとも、旧領岸和田の稲荷社の分霊を勧請したものとも
いわれる。
現在の社殿は江戸時代後期の建築d、毎年三月の初午大祭が有名である。 」
稲荷曲輪から稲荷参道を通って下山した。
かっては「御城坂」と呼ばれ、石段ではなく、土の坂であった。
「 江戸時代、最上段の有子山稲荷社への参道であった。
明治期に157段の石段と37基の鳥居が整備された。
春は若葉、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪化粧と、四季折々の表情をみせる。 」
稲荷参道を下ると、右側に石碑がいくつか立つ空地が山里丸である。
「 城内で一番新しい年代の石垣が残り、算木積や矢穴が見受けられる。 平成二十八年(2016)に改修工事を行い、美しい姿を取り戻した。 」
下に降りると、左手に諸杉神社がある。
「 諸杉神社の創立時期は不明であるが、延喜式内の古社で、
始めは出石川側の出石町水上にあったが、当国守護山名氏が居城を此隅山より有子山に移すに及び、現在地に移転させた。
祭神は但馬の開祖・天日槍(新羅国王子)の子、但馬諸助神。
城内北東の鬼門に祀られ、歴代藩主が篤く信仰した。
松平忠徳は社殿を改造、仙石政辰は社殿を改築したが、明治九年に焼失した。
現在の本殿、拝殿は明治十七年に建てられたものである。 」
諸杉神社境内の外は明治以降に川が流れるように造り変えされている。
その先に駐車場とレンガ色の建物が見える。
このあたりが対面所があった場所である。
行ってみたが、その表示は見わたらなかったが・・・
「 元禄十五年(1702)松平忠周が対面所を建設して、本丸より移った。
千八百二十五坪、九十数部屋もある壮大な屋敷で、藩主の居所であると共に藩邸で出石藩の政務を行った。 」
諸杉神社を出て、北に向うと大きな時計台(辰鼓楼)があり、その先に橋が架かっている。
説明板「辰鼓楼(しんころう)」
「 廃城となった出石城三の丸大手門石垣を利用して、明治四年(1871)に建設された。
名称の「辰」は時間、「鼓楼」は太鼓を叩くやぐらを意味する。
高さ約十三メートル。 内部は四階建の構造。
かって城下町の人々は寺院の鐘で時刻を知ったが、明治時代に入り、
これに替わるものとして竣工した。
当初は最上階から太鼓を鳴らして時刻を知らしていたが、
明治十四年(1881)にこの町で開業していた医師、池口忠恕が大時計を寄付してからは
時計台となった。 池口は大時計を寄贈するにあたり、青年二人を東京(一説では長崎)に派遣して、時計作りの研修・製作をさせたといわれる(現在の時計は電気式)。
同じ明治十四年に時計が設置された札幌時計台とともに、
日本最古の時計台として親しまれている。
豊岡市教育委員会 」
橋の北側は城下町になっていたようで、「大手通り」の標示板があり、
奴姿の看板の下に「←酒蔵 (八木町) 役場 出石城跡→」の道標があった。
その先には出石そばやお土産やおおくある商店街で、
「出石そば 本陣中央店」の看板を掲げている店があった。
以上で、出石城の見学は終わった。
有子山城
有子山城(ありこやまじょう)は出石城が誕生する前にあった戦国時代の山城である。
有子山城は此隅山城跡と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定を受けている。
「 有子山城は、山名祐豊が、標高三百二十一メートルの
有子山に築いた東西約七百四十メートル、南北七百八十メートルの大城郭である。
主郭を中心に、三方面に延びる尾根に放射状に曲輪及び竪堀・堀切を配置した、
堅固な山城で、但馬の王者・但馬国守護の居城に相応しい「獅子の山城」であったといえる。
山名氏時代は土の城であったが、天正八年(1580)、羽柴秀吉の攻撃を受け、城は落城し、但馬国守護の山名氏は滅亡。
新たに城主になった羽柴秀長により、野面積みの石垣の城に改修される。
以後、元和元年(1613)に一国一城令により、廃城となるまで使用されたようである。 」
有子山城へは、稲荷参道を上りきると、左側に小さな祠があり、
その奥に「↑有子山登山口」という道標があり、そこが有子山城への入口である。
そこから有子山城へは40分〜1時間の行程と案内にあるが、足場が悪く、険しい箇所やすべりやすい場所があり、ハイキングの装備で健脚向きである。
このルートは地元の方の努力で開発された、ときいた。
「 山頂部は徳川政権に気を使い、荒れるままに放置されたというが、地元民の努力で遊歩道に整備されている。
といっても、一寸した山道である。
頂上までに堀切や段曲輪があり、頂上付近には郭がいくつかあり、石垣が残っている。
主郭は東西四十二メートル、南北二十メートル、石垣は高さ四メートル、長さは二十メートル以上ある。
井戸曲輪までの登城道は今は通行不能で、かっては竪掘であった、谷の道を進むようになっている。
づーと岩がむきだした急坂で、途中、トラロープを上るところもある。 まさに、ちょっとした登山である。
井戸曲輪を過ぎると石垣がある曲輪が上に繋がっていて、主郭に至る。
この時代の石垣はシノギ積み(鈍角に曲げられた石垣)で、算木積みではない。
本郭は東西四十二メートル、南北二十メートル、現在は説明板と休憩用の日除け小屋がある。
大堀切の先に千畳敷があり、千畳敷は広い削平地で、かっては居館があったことを
示す、医師列や築地塀による区分け跡が残っている。
千畳敷の奥は高台になっていて、櫓台跡とされる。
その下に堀切が通されている。 」
歩き始めたが、道が狭く、急で、往復二時間かかる様子。
当日は旅の最終日で、時間切りのため、井戸曲輪まで行かないところで、ひき返した。
所在地:兵庫県豊岡市出石町内町ほか
JR山陰本線・福知山線豊岡駅・江原駅・八鹿駅から全但バス「出石行き」で約30分
出石城・有子山城のスタンプはいずし観光センターにある