|
内掘に架かる内下馬橋の手前の左側に「目安橋」と書かれた説明板がある。
「 目安橋は大手(表口)から本丸へ通じる橋で、 池田光政の時代に橋の袂に領民からの投書を受けるための目安箱を設けたことから、 この名が付いた。 橋は明治になって撤去され、土橋に改められたが、 欄干を飾っていた擬宝珠(ぎぼし)は天守閣内に展示されている。 」
内下馬橋を渡ったところは下の段で、
江戸時代には橋を渡った先に本丸の正門、内下馬櫓があったという。
残った石垣の一角に「大石の使用」という説明板がある。
「 岡山城築城当時には大名の勢威を誇る目的で、
石垣に巨石を集めて築くことが流行していた。
岡山城の大石はこの辺りで多く使われている。
石垣の石は瀬戸内海に浮かぶ犬島などから集められた。
このあたりは岡山城本丸の正門(大手門)があったところで、
城の威厳や大名の権威を示すため、巨石で石組されている。
最大の石は高さ四・一メートル、幅三・四メートルだが、
厚みはなく、板石を立てたものである。
関ヶ原合戦後に池田氏が築いたと思われる。 」
江戸時代に本丸中段の表書院から下段の南部にあった楼門は、
鉄門(くろがねもん)である。
不明門から下りてきたきたところに位置し、
木部全体を鉄板で覆ったいかめしい門だった。 明治期に壊されて今はない。
その先に聳える石垣の前に「大納戸櫓跡」の説明板がある。
「 関ヶ原合戦後に小早川秀秋が築き、
池田利隆が大幅に改修したと思われる石垣である。
加工はあまり施さない自然石を用いているが、
上部ほど傾斜が強くなる特徴を持っている。
上に建っていた大納戸櫓は西南長二十メートル、四階建ての雄大な櫓だった。 」
右に石垣に沿ってすすむと、前方に広場が開くが、
工事中でどうやら、かってあった敷地の再現に取り組んでいるようである。
左折したところにあるのは鉄門(くろがねもん)跡である。
「 鉄門は下の段の南側から中の段の不明門から下りてきたきたところに位置し、 本丸中段の表書院(藩庁)に通じる楼門で、 木部の全体を鉄板で覆ったいかめしい門だった。 明治期に壊されて今はない。 」
石段の踊り場の上に見える櫓は不明門の渡櫓で、その下の石垣についての説明板がある。
説明板「不明門下の石垣」
「 右隅は宇喜多秀家の石垣に被せて造られていて、
関ヶ原合戦の後に小早川秀秋または池田氏により築かれた。
上部は不明門を建てた時に積み足され、中程の一部は天保九年(1838)に崩れて、
修理を受けている。 」
石段を上った突き当たりには「大納戸櫓跡」の説明板があり、
「 本丸の大手を守る要となる三重四階建の城内最大の櫓である。
一階の平面は長辺二十メートル、短辺十メートルで、壁は黒い下見板が張られていて、
藩邸の書類や道具類が保管されていた。 」 とある。
また、 明治初期に撮影した写真が付いていた。
鉄門からUターンするとあるのが、
中の段から本段に上る正門である不明門である。
天守閣がある本段全体の入口を守った大型の城門である。
説明板 「不明門」
「 表書院(藩庁)の南端から本段(城主住居)へ上がる石段の入口に設けた渡櫓門、
天守閣のある本段全体の入口を固めた大型の楼門である。
普段は閉ざされていたことから、不明門と呼ばれた。
明治の廃城後取り壊されたが、
昭和四十一年(1966)に鉄筋コンクリートで再建された。 」
本段には藩主が日常生活を営む御殿があり、
入ることができるのは特に限られた身分の人だったので、
平素の出入は北端の渡り廊下を使用し、この門はほとんど閉ざされていたことから、
不明門(あかずのもん)と呼ばれたようである。
不明門の左側石垣の石に「岡山中学の址」と刻まれている。 岡山中学移転の経緯を記した記念碑である。
「 明治六年(1873)の廃城令により、
順次建物の取り壊しや堀の埋め立てが行われ、
明治十五年(1882)頃には、天守、月見櫓、西之丸西手櫓、
石山門を残すのみとなった。
明治二十九年(1896)、本丸跡に県立岡山中学校が建てられた。
岡山中学校は藩校を母体とすし、戦後女子校と合併し、県立岡山朝日高校になり、
昭和二十五年に旧制第六高校の跡地に移転した。 」
その先の空地は本丸表書院跡で、当時の様子が分かるように空地に礎石が並べられていた。
説明板 「本丸表書院跡」
「 表書院は表向御殿と呼ばれた藩主の公邸兼藩庁で、
城内最大で最高の格式を有する御殿だった。
数棟からなり、六十を越える部屋があった。
登城した家臣らは南東の玄関から入り、広い廊下を通って奥に進み、
それぞれ所定の部屋に詰めていた。
廊下に面した徒番所は城内を警備や雑用にあたる家臣の詰所だった。
北に広間、書院が続き、その奥に藩主公邸である中奥と台所が建ち並んでいた。
藩主は住居である本段の御殿から渡り廊下を通って、北西の招雲閣に入り、
南座敷で政務をとった。 泉水を備えた中庭には数寄屋(茶室)が建っていた。
北東部の台所は藩主の食事や儀式用の料理を作っていた。
表向の郭自体が池田忠雄によって完成されたため、
表向御殿も同時期の完成と思われる。
御殿はたびたび改修や建て替えを受けながら明治まで存続したが、
今は残っていない。 」
不明門をくぐるとすぐに急な階段があり、
階段を上り振り返ると、門の上に上屋を架けた櫓門が軍備を高めていることが分かった。
階段を上ったところは本段で、江戸時代には正面に物置と下男小屋があり、
左折すると本段御殿の玄関があった。
前述の通り、明治時代に岡山中学が建てられた場所であり、
今は植栽のある空地になっていて、奥に再建された天守閣が見える。
「 本段御殿は、藩主の私邸で、日常生活の場である。
御殿は南端に玄関、ついで台所が設けられ、その奥の右側に長局(奥女中の部屋)、
左側に藩主御座所があり、縁側から庭園を眺めることができた。
そして、最も奥に側室の部屋があった。 」
本段の一角に「天守閣の礎石」という説明板があり、 創建当時のレイアウトで礎石が並べられていた。
「 天守閣は昭和二十年六月の戦災で焼失し、 昭和四十一年に元の位置に鉄筋コンクリートで再建されたため、 礎石のみをここに移し、元通りに配置している。 」
天守台の石垣は慶長二年(1597)までに築かれたもので、 加工を施さない自然石を用いた野面積みによるもので、高さは約十五メートルあり、 この位置は岡山の丘のもとの崖面に当り、石垣の背後はその堅い地山に持たせている。
「 喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての天守閣は、
大入母屋造りの基部に高楼を重ねた、望楼型と呼ばれる様式で、
外壁に黒塗りの下見板を張っているため全体的に黒色が強調された姿をしていて、
それに金箔瓦が彩を添えていた。 烏城、金烏城という異称はこれに由来する。
一見するとひとつの建物のように見えるが、
天守閣の西側三分の一は塩蔵と呼ばれる別の櫓である。
このような渡櫓なしで直接櫓が天守閣に付属している形式を複合式天守という。
天守閣は北に大きく突き出た不等辺五角形で、
二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造の望楼形天守閣で、
城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を持つ。
下見板も、初期の天守によく用いられた手法である。
天守閣二階に書院造りの藩主の部屋である城主の間が設けられたのは、
初期の天守閣の特徴であるが、江戸時代を通じて使用されることはなかったという。
再建された天守閣にも城主の間は復元されている。 」
本丸御殿跡 | 天守閣の礎石 | 再建された天守閣 |
本段の右手には「六十一雁木上門」の説明板があり、 「 本段から川手に通じる門で、石段がもと六十一段あったことから、 こう呼ばれたらしい。 」 とある。
「 本段御殿へは一般の藩士の出入りは厳しく禁止されていて、 本段と表向を隔てる不明門は常時閉鎖されていた。 そのため、御殿への出入りは、藩主は渡り廊下を、 御殿勤めの下働きの者は六十一雁木を使用していた。 」
中の段に戻ると、「本丸表書院跡」の説明板には再現された本丸の想像図があった。
「 岡山城の本丸は東側の天守閣の建つ最上段の本段、 その西側に一段下がった中の段、 この両段を南側から西側に取り囲む平地の下段の、三段構えとなっている。 」
中の段には「宇喜多秀家築城当時の石垣展示」の看板があり、
その下に石垣の一部があった。
「多聞櫓跡」の説明板があり、敷石が横に並べられ、大きさが確認できた。
説明板「多聞櫓跡」
「 石塁の上に建てられた長屋を多聞櫓といい、
大納戸櫓と伊部櫓の間には長さ三十七メートル、
幅四メートルの平屋の多聞櫓が建っていた。
壁には下見板が張られ、
格子窓、石落としが設けられていた。 」
また、「伊部櫓(いんべやぐら)跡」の説明板もあった。
「 白壁造りの三階建ての櫓で、平面は正方形だった。
石塁に寄せ掛って建てたため、城外から二階建てに見られた。
備前焼の生産で栄えた伊部村によって建造された櫓ではないかといわれている。 」
その先には「数寄方櫓(すきかたやぐら)跡」の説明板があった。
「 白壁造りの三階建ての櫓であるが、石塁に寄せ掛って建てたため、
伊部櫓と同じように城外から二階建てと見られていた。
表書院の数寄屋(茶室)で使う茶道具類が保管されていたと思われる。 」
空地に池があるが、これは数寄屋(茶室)が建っていた中庭の泉水を再現したものである。
また、「穴蔵跡」の説明板があった。
なお、中の段には穴蔵が四つと井戸が一つあったようである。
「 香川県豊島の凝灰岩(豊島石)の切石で造られており、 幅三・八メートル、奥行二・九メートル、深さ二・三メートルで、 もとは屋根があり、非常用の食料が保存されていたと思われる。 」
中の段の北西、地面から少し高いところに、 国の重要文化財に指定されている月見櫓がある。
説明板「月見櫓」
「 二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築に際して、
本丸搦め手に備えて建てた江戸時代初期の隅櫓である。
月見櫓は岡山城本丸を構成する一二三の段の二段目に当る中の段の北西角を固める隅櫓で、
池田忠雄が岡山城主だった元和年間から寛永年間前半の建築とされ、
一部地下付きの塗込め造り本瓦葺き二階建てで、
城外の北西側から眺めると二層の望塔に見えるが、
城内の南東側から眺めると三層の層塔型の景観である。
櫓の下層は南北九・一メートル、東西七・三メートル、
上層は四十五・五メートル四方の建物で、
一部に地階を設け、重層な土蔵造りである。
屋根は入母屋造りの本瓦葺きで、
下層の南、南西面には唐破風と上層の西面には千鳥破風を配し、
北面には唐破風を飾るなど、外観に変化をもたせている。
地階と一階の桁行(東西)三十二尺三寸(約9.8m)、梁間(n南北)二十六尺二寸(約8m)、
二階が方形で、桁行、梁間とも十六尺五寸九分(約5m)、
棟高四十五尺(約13.7m)である。
地階は一階床下の貯蔵場所で、一階の床板を引上げ式の戸造りになっていて、
有事の際に一階へ通じる作りになっている。
一階は西面に石落とし付きの唐破風造りの出格子窓、
北面に石落とし付きの片流れ屋敷の出格子窓を設けて、
城外側への臨戦に備えをなし、南面西寄りに入口を設けている。
二階は西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、
北面の踊り場北窓に唐破風造りの武者窓、
北壁に引き違い窓を設け、一階同様に城外側の備えを厳しくしている。
その一方で、二階の城内側の東面と南面には、雨戸を立ての手摺付きの縁をめぐり、
内側に腰高明り障子を立てていて、
二階のたたずまいは城内側が日常生活仕様になっていて、
平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を備すのに格好な構造になっている。
この櫓は武器や食料の貯蔵庫であったが、天守閣と同じ望楼式で、
二階の城内側は廻り縁側を設けて開け放した佇まいで、
日常の生活にも使用できるような構造となっていて、
名前のとおり月見にも適していた。
岡山城に残る当時の建物の一つで、国の重要文化財に指定されている。
なお、月見櫓の下の石垣の隅部は、表面を平らに整えた方形の割石を配し、
その長辺を交互に振り分けた算木積みになっている。
石材は白色度が高い花崗岩で、瀬戸内海の犬島で切り出されたものと思われる。 」
その先にあるのは廊下門で、 本丸の北側から中の段に上るための裏(搦手)門である。
説明板「廊下門」
「 本段の張出部から中の段にかけて上屋が渡され、
その下に門扉を設けた櫓門の型式をとっている。
上屋は本段御殿に住む藩主が中の段の表書院に降りる道筋に当たり、
この門の名の起こりとなった。
月見櫓と同じく1620年代に池田忠雄が建てたものであるが、
明治になり取り壊された。
現在の建物は昭和四十一年(1966)にコンクリートで再現されたものである。
なお、三十メートルほど背後の中の段内に、
廊下門の前身となる裏門跡が埋め込まれていることが発掘調査で分った。 」
廊下門をくぐり、下に行くと「小納戸櫓下の石垣」の説明板がある。
説明板「小納戸櫓下の石垣」
「 池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、
搦手の廊下門脇を守る小納戸櫓が上に建っていた。
一帯の石垣の石材は岡山市の犬島から運ばれたとみる割石で、
丸に十の字やLの字などの刻印があるものもある。 」
小納戸櫓は、本丸の搦め手にある廊下門に迫る敵を迎え撃つために設けられた櫓である。
「 小納戸櫓は白壁造り二階建て、平面は正方形で、 一階の壁には格子窓と石落としが設けられていた。 この櫓の西と南にはそれぞれ平屋の多聞櫓が続いていた。 明治に壊されて残っていない。 」
旭川に臨む水の手から本段へ直に登る「勝手筋」の階段は、 「六十一雁木」と呼ばれていた。
「 このあたりは江戸時代初期、池田氏の時代に整備されたが、 六十一はその時の階段数に因むものと思われる。 階段の下に本格的な櫓門があったが、階段の上にも軽量ながら門(要害門)を設け、 軍備に万全を期していた。 両門とも明治になって取り壊されたが、 昭和四十一年(1966)に上門だけが木造で再建された。 現在の六十一雁木上門は絵図に示された当時の構造と細部が異なっているようである。 」
岡山城は豊臣時代の城が増改築をされ、江戸時代にも引き続いて使用されたため、
石垣に構築技法の発達の様相が見られる。
築城時の「野面積(のづらづみ)」から江戸時代初頭「打込ハギ(うちこみはぎ)」、
その後の「切込ハギ(きりこみはぎ)」と各時期の石積みが観察できる。
「 高石垣は関ヶ原合戦後に小早川秀家が築き、
それに続く池田忠興の時、改修された石垣で、
左端は1620年代に忠雄が築いた割石積みの石垣が被さっている。
あまり加工を施さないで石材を積むのが特徴で、高さは十一メートルある。
長年の変化で石材がせり出いたため、平成十一年から十三年にかけて解体修理した。
石垣の十二メートルの位置に宇喜多秀秋が築いた石垣が埋め込まれている。 」
岡山城へはJR山陽本線・山陽新幹線岡山駅下車、路面電車「東山方面行き」で約5分、城下下車、徒歩約10分
岡電バス「岡電高屋行き・両備バス「東山経由西大寺行き」で約15分、県庁前下車、徒歩約10分
岡山城のスタンプは岡山城天守閣1F御みやげ処(300円、9時〜17時30分入館は17時まで)にて