|
石垣を右に進むとかっては城門があったところに入城料を払う窓口がある。 その手前には城の歴史と城主の説明板が立っている。
説明板 「津山城跡」 国指定史跡(昭和三八年九月二八日指定)
「 津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に、
森忠政が慶長九年(1604)に起工し、元和二年(1616)の完成まで十三年の歳月をかけて築城した
輪郭式の平山城です。
往時には五層の天守閣がそびえていましたが、
この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、
唐破風・千鳥破風等の装飾のない実践的なものでした。
また、本丸、二の丸、三の丸には、備中櫓をはじめ、
栗積櫓、月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、
本丸には七〇余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、
津山城の縄張の巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、
近世平山城の典型とされています。
明治六年(1873) 廃城令によって城郭は公売され、翌七年から八年にかけて、
天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、
豪壮堅固な石垣は残りました。
その後、明治三十三年(1900) 城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、
昭和三十八年に国の史跡に指定されました。 」
津山藩初代藩主でこの城を築いた森忠政の銅像がある。
「 森忠政は清和源氏の流れをくみ、
本能寺の変で亡くなった織田信長の小姓、森蘭丸の末弟にあたる。
天正二年、兄長可が長久手の戦いで戦死後、家督を継ぎ、
豊臣秀吉より美濃金山七万石を与えられ、関ヶ原の戦いの戦功により
徳川家康により、十三万七千五百石の信濃川中島の城主に、
そして、慶長八年(1603)に美作国十八万六千五百石を与えられた。
森忠政は鶴山(つやま)の地に築城し、城地の名を「鶴山」から「津山」に改めた。
寛永十一年(1634)、三代将軍家光に随伴して、津山より上京するが、
食傷により急死する。
亨年六十五才。 この像は、津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。
森氏は四代九十五年にわたって美作国を治めましたが、四代藩主長成に嗣子がなく、
津山森藩は改易となりました。
その後、森家は二代藩主長継の子長直が備中西江原藩主として森家を再興し、
さらに、宝永三年(1706)播州赤穂に移りました。 」
料金を払い中に入ると両側に石垣が並び、枡形を形成している。
冠木門跡からUターンして枡形虎口進むと、前に広く広がるのが三の丸跡である。 今は公衆トイレしかない。
右手には二の丸に進む幅ひろい石段と右側には高石垣があるが、
表中御門跡である。
石垣の手前に「津山城跡」の説明板がある。
説明板「津山城跡」
「 城郭構成
津山城は吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い山(鶴山)を利用して築かれた「平山城」といわれる形式の城郭です。
山頂を平坦に削って本丸とし、本丸を囲むように二の丸、三の丸が高い階段状に配置され、
南を大手、北を搦手としています。
三の丸下段の南、西、北側は総曲輪を形成し、その周囲を土塁と堀で固めています。
一方の東側は急な断崖であり、その直下に南北に流れる宮川を自然の防御線にしています。
本丸への通路は、大手、搦手とも鍵の手状に曲がる「枡形虎口」が繰り返し形成されており、
きわめて防御を意識した構成となっています。
城内の櫓の数は六十棟を数えます。
これは全国にある他の近世城郭と比べても多い方で、
城内には建造物がひしめき合うように建ち並ぶ堅固な城郭構成をなしていました。
城内最大の表中門
表中門は三の丸から二の丸にいたる通路の正門にあたります。
門の形式は、一階部分が城門、二階部分が櫓となる、いわゆる櫓門で、
城内に存在する門の中で最大です。
櫓の東側は袖石垣上に載り、西側は鉄砲櫓の高石垣に取り付いていました。
門の櫓部分の長さは十六間(約三十二メートル)もありました。
これは大坂城や江戸城に匹敵するほどの規模です。
発掘調査により、東西方向に三列、南北方向に五列(東端五石、西端四石)の礎石が確認できました。 」
江戸時代、ここには二つの石垣をまたぐ二階建ての櫓門があり、
城内最大の門、表中御門が建っていた。
石段の途中は右(東)に分岐し、その先に石段と石垣があるが、
江戸時代にはその上に二の丸の東曲輪である見付櫓があった。
また、正面に見える高石垣の上には、鉄砲櫓と呼ばれる長い櫓が建っていた。
鉄砲櫓の下の道を進み、左折すると石段がある。
右側に備中櫓、左側に江戸時代には四足門(よつあしもん)があった。
説明板「四足門」
「 四足門は、大手の二の丸の入口にある門です。
門は廃城後の明治7年に、中山神社(津山市一宮)の神門として移築されました。
絵図に比べると、屋根が瓦葺から檜皮葺に変わっていますが、現在でも見ることが
できる数少ない津山城の建物の一つです。 絵図や現在の神門の調査から、
薬医門であったこと、柱の位置関係が絵図と重なることが分かりました。
発掘調査では、門の礎石の根石を確認しています。 」
下図は表中門から入ると枡形になっていて、
正面の石垣の上に横に細長い鉄砲櫓、敵は左側の石段を上ると左側に四足門がある
ことが確認できる。
門をくぐると、その先は二の丸である。
二の丸からは本丸南側に建つ復元された備中櫓が見える。
また、四足門では礎石の跡を確認できた。
二の丸は備中櫓の下にあり、森氏の時代には二の丸御殿を建て、居住していたが、
森氏改易後、入城した越前松平氏は撤廃したという。
今は桜が植えられ、通路とその他の部分が区分された空地になっていた。
本丸へ向って、二の丸左に続く長い石垣を進むと、
右側に「切手門跡」の標柱が立っていた。
切手門は本丸に入る門で、階段手前に大きな楼門があり、
その右側に弓櫓があり、これと繋がっていたという。
また、弓櫓の先には辰巳櫓、正面の石垣の上は土塀、
左側の石垣の上に使者櫓が建っていたというから、
守りが頑丈だったことが分かる。
石段はまっすぐ上がれないようになっていて、途中で曲がっていて、
右側に二つ目の石段がある。
石段を上ると正面の右側の小高いところに江戸時代には
鼓櫓(包櫓)とその奥に十四番門があり、今も石垣は残っていた。
本丸の入口は表鉄門(おもてくるがねもん)で、 「表鉄門跡」の標柱と説明板が立っている。
説明板「表鉄門(おもてくろがねもん) 」
「 表鉄門は、本丸の入口にある櫓門で、
門扉全体が鉄板に覆われていたことからこの名前がついています。
門を北向きにくぐると、西向きに石段があります。
石段を登り、南に180度方向をかえると、そこに本丸御殿の玄関があります。
この玄関は、先に門をくぐった表鉄門の二階の櫓部分にあたり、
全体は北に向ってのびる「コ」の字形をしていました。
玄関の石段を東向きにのぼると、式台と呼ばれる板敷の部屋があり、
四十二畳の「広間」に続きます。
東南隅の小部屋を過ぎて、北に折れると「旗竿の間」があり、
さらに西に折れると「鑓(やり)の間」と続きます。
ここから北に向うと、御殿の大広間につながります。
表鉄門は城門としてだけでなく、二階の櫓内部は本丸御殿への正式な入口としての役割も持っていました。
本丸の面積が狭く、限られた敷地を有効に利用するためにとられた手段のひとつであったのでしょう。
文化六年(1806)の火災により、本丸御殿のすべての建物及び表鉄門、裏鉄門などは焼失しています。
表鉄門と両脇の石垣が再建されたのは、八年後の文化十四年(1817)です。
東側にある石垣を観察すると、熱を受けて赤く変色した石を確認できます。 」
石段を上ると左側に「城内表玄関」と書かれた標板が立っている。
「 ここから常用の部屋が北に廻り廊下を左に渡って奥の用場へ通じますが、
本丸一帯を建てこめた部屋数は上殿を合わせて六十七室、畳の数は千四百畳余でありました。 」
表鉄門の石段を上がると本丸跡である。
明治維新後、全ての建物が廃却されたので、空地になっているが、
左側には藤棚があり、その奥に復元された備中櫓が建っている。
空地の一角に「津山城」の説明板が立っていた。
「 本丸は西端を石垣で区切って天守曲輪とし、
その中央に天守が築かれてました。 天守は地下1階、地上5階で、
最上階の屋根以外に破風をもたない層塔型と呼ばれる構造のものです。
天守の高さは、天守台石垣を除いて約22メートルという大きなものでした。
本丸御殿は、儀式や政務を行う表向きの御殿と、
藩主の生活の場にあたる奥向きの御殿に分けられます。
表向きの御殿は「玄関」「大広間」「大書院」「小書院」で構成され、
奥向きの御殿は「料理之間」「台所」「居間」「主殿」などが配されています。
本丸の面積が狭かったため、表鉄門、長局、備中櫓など、
防衛用の建物を御殿の一部に取り込まざるを得なかった点など、
築城の苦労がしのばれます。 」
下図は本丸御殿の配置図だが、本丸一帯に建てられた建物は主殿を含め、六十七部屋、
畳は合計千四百畳余だった。
明治六年(1873)の廃城令により、これらの建物は売却あるいは破却されたので、
今は残っていない。
本丸御殿跡の左奥に復元された備中櫓がある。
説明板「備中櫓」
「 備中櫓は本丸御殿の南西隅に位置し、
その名は鳥取城主、池田備中守長幸に由来すると伝えられる。
森藩時代の基本的な史料である「森家先代実録」には「備中矢倉 池田備中守長幸入来之節出来」とある。
森忠政は長女於松を池田備中守長幸に嫁がせており、長幸は忠政の娘婿にあたる。
その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられている。
備中櫓跡の発掘調査で池田氏の揚羽蝶紋の瓦が出土したことも、
この建物が池田家と深い関係にあったことを物語っている。
備中櫓の外観は漆喰仕上げで通常の櫓と同様だが、
本丸御殿指図には備中櫓がその東に接続する長局・到来櫓ともに描かれており、
これらの建物が御殿の一部として認識されていたことを示している。
さらに指図よると内部には御座之間や茶室を備え、建具には「唐紙」を用いるなど、
内部は完全に御殿建築であり、なおかつ繊細で女性的仕上げであったことがわかる。
そのため、この櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、
城主にごく近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられていたと考えられている。
このような特異な構造をもつ櫓は類例が少なく、津山城の建物の中で特徴的なものであるため、
復元整備の対象となったものである。 」
備中櫓の隣の「天守閣跡」と書かれた冠木門を入ると、 枡形の石垣と土塀が現れた。
説明板「五番門と土塀」
「 五番門は備中櫓の北側に位置し、天守曲輪への南側からの入口になっています。
絵図によれば、この門は冠木門(屋根のない二本柱の門)と記されていますが、
発掘調査では、主柱と控柱の痕跡が発見されているので、
高麗門あるいは薬医門であったと推測されます。
備中櫓管理用の門として整備を行いました。
五番門の南側の石垣は変形が著しく、崩落の危険性が高い石垣であったため、
積み直しを行い、石垣の上には土塀を復元しました。
土塀の外観については、絵図や古写真から、白漆喰塗仕上げ、
瓦葺であったことがわかります。
塀の高さは、宮川門付近を写した古写真や三の丸の石垣に残る塀の屋根の痕跡等から、
概ね七尺(約21m)程度と推測されました。
塀の構造は、「勘定奉行日記」の記事に、「二重塀」という語がみられることから、
土塀の土壁を表側と裏側に別々に設けて中を空洞にし、
そこに栗石を詰めた「太鼓塀」と呼ばれる構造で復元しました。
このような構造の塀の現存例は金沢城の石川門表門が唯一の例です。
塀の城内側には、控柱が設けられています。
また、雁木(石段)については、
発掘調査により出土した際下段のものを参考に復元しました。 」
その先には「七番門と虎口」の説明板がある。
「 津山城の本丸は逆L字形をしていており、
天守はその南西端に位置しています。
天守の東側には高さ4m程度の石垣で区切られた部分があり、
これより西側を天守曲輪と呼んでいます。
七番門は、この天守曲輪の北西部にあり、
曲輪から石段を降りた一段低いところに西向きに開口する門です。
枡形部分の発掘調査では、七番門の礎石が2石残っており、
円礫が一面に敷かれていたことが分かりました。
また、豊島石(てしまいし)製の排水溝が天守曲輪から枡形部分にかけて検出されました。
整備工事では、この礎石を露出展示し、周囲は土系舗装を施しています。
また、門北面の石垣は一部積み直しを行い、
東面の石垣及び南側の雁木(石段)は発掘調査や資料に基づき復元しました。
七番門の外観(西側)は、腰曲輪を経由して二の丸へ通じていますが、
この間には約3mの落差をもつ石垣になっており、
この落差を考える際のヒントが「勘定奉行日記」に記されています。
記事には「七番門外橋子」の記載があることから、七番門の外に「橋子」つまり、
木の階段のようなものが取り付けられていたものと推測されます。
二の丸から天守曲輪に向う最短コースがこの七番門です。
藩主も利用したであろうこの門は、日常は階段を利用して通行が可能ですが、
非常時には階段を外すことより、敵の侵入を防いでいたものと考えられます。 」
天守曲輪の中央に立派な天守台の石垣がある。 江戸時代にはここに四重五階地下一階(穴蔵)の天守閣が建っていた。
説明板「天守台」
「 津山城の天守は、地上五階建てで、最上階以外に破風を持たない質素な造りでした。
高さは石垣を除いて約22メートルで、一般的な五層の天守としては最大規模のものです。
形は、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型」と呼ばれるものです。
この壮大な天守を支える礎石は、地下の穴蔵部分で確認されています。
上から見ると、平らな礎石が並んでいる様子が分かります。
絵図と比較すると、柱の位置と礎石の位置がほぼ一致しています。
柱は約38センチ角もある巨大なものであったことが分かっています。
天守をはじめ城内の建物が明治7年から8年(1874〜75)にかけて取り壊され、
石垣を残すのみになりましたが、その後昭和11年(1936)に開催された「産業振興大博覧会」の呼び物として、
本来の天守の3分の2の天守閣が建てられました。
「張りぼて」の愛称で親しまれてきたが、空襲の目標になるという理由から、
昭和20年8月に取り壊されました。 」
天守に入るには地下一階の穴蔵から入ったようで、
そこから木の階段で上っていたようである、
壮大な天守を支える礎石は、地下の穴蔵部分に今も残っている。
「 穴蔵の高さは十一尺五寸、天守の建物の高さは二十二メートル、
南側に六番門(櫓門)を付属させる複合式平面の天守であるが、
天守へは東側の穴蔵入口から出入りする構造である。
形はほぼ正方形で、上階が規則的に小さくなっていく層塔型と呼ばれる天守閣は、
初重の梁間十間、 桁行十一間で、壁面の四隅には袴形の石落としが付けられ、
各階に鉄砲狭間と矢狭間を設けていた。
天守台の石垣は打込みハギという手法(石を折って整えられているが、
形はバラバラ)によるものである。
北東端にある入口の石段は四角に形を整えた切り込みハギで造られていて、
天守が建てられた時はなく、後で建てられたものである。 」
天守台の南西側に多門櫓の説明板があり、天守閣の西側に多門櫓が建っていたことが分かった。
「 多門櫓は、天守台の南西側、西側、北西側を取り囲むように存在した櫓です。 絵図からは、西面は長さ二十四間、幅三間の細長い平櫓で、 東北端に三間X四間の二階部分が置かれていることが分かります。 南面は長さ八間半、巾三間の平櫓、北面は長さ五間半、幅二間の平櫓となっており、 北側の櫓は七番門に接続しています。 整備工事では、建物の輪郭を御影石で表し、内部は自然石の樹脂舗装を施しています。 また、二階建て部分と平屋部分との違いが分かるように色を変えて表示しています (碓井灰色が二階建ての隅櫓部分)。 北西の隅櫓から東に続く櫓は、天端面を土系塗装とし、 石垣内部へ雨水が入らないようにしています。 地下には裏込めの栗石が石垣の表面から奥行き6m(約三間)もの範囲に充たされていたことが、 発掘調査によって分かりました。 」
天守台を抜け、広場に出ると天守曲輪の石垣群の中に
「森侯入封満三百年記念碑」が建っていた。
右手にある石垣に「長ヤグラ跡」の木柱、それの手前の空地には「涼ヤグラ跡」の木柱があった。
城の裏口にあたる搦手門に向うと、今は空地になっている本丸御殿を守る高石垣が幅ひろく広がっている。
江戸時代には東曲輪と呼ばれ、月見櫓、走櫓、太鼓櫓、白櫓、鉄砲櫓が連なって建っていたようである。
東曲輪の高石垣の左手を進むと、左側に「長屋ヤグラ跡」の木柱があり、
石垣が続いていた。
江戸時代には細長い平櫓が建っていて、長屋櫓は大戸櫓に続いていたようである。
その右側にあるのが粟積櫓台である。
なお、月見櫓と粟積櫓との間に仕切門の十一番門があったようである。
説明板「粟積櫓(あわつみやぐら)」
「 粟積櫓は本丸の北東隅を囲むように存在した櫓です。
粟積山(旧真庭郡川上村)の木材を用いて造られた櫓であるため、この名前が付けられました。
絵図や古写真からは、北東隅が二階建ての櫓であったことが分かります。
粟積櫓の石垣は、廃城後東面や南面が大きく孕み出し、当時最も危険が高かったため、
昭和49年に解体修理工事を行いました。
津山城が昭和38年に国指定の史跡となってから、最初の解体を伴う石垣修理工事です。 」
東曲輪の櫓群と長屋櫓、大戸櫓、粟積櫓は、本丸中央から二の丸北側を守るために築かれた櫓である。
道を引き返し、左側に「腰巻ヤグラ跡」の木柱が建っているところ戻った。
腰巻櫓の石垣は崩れかけていた。
腰巻ヤグラ跡の横には、二の丸北側に抜ける裏道の搦手道があり、
江戸時代には裏切手門があったようである。
「階段は急勾配なので注意」の案内があり、石段は左に直角に曲がるが、 下に「裏鉄門」の説明板がある。
「 裏鉄門は本丸から搦手に到るための門で、裏切手門をくぐり、 石段を下りて直角に曲がってところに西向きに位置する櫓門です。 表鉄門と同様、門扉全体が鉄板で覆われていたことから、この名前が付いています。 この門については、絵図と発掘調査によって、その内容が明らかになっています。 発掘調査から、門の規模は幅約8メートル、奥行約4メートルで、 門扉の南側に番所をもつ構造であることが明らかになりました。 これは絵図ともよく一致しています。 また、絵図では門の東側に青色でトイレが描かれていますが、 実際に該当の部分でトイレの痕跡がみつかりました。 裏鉄門は、文化6年(1809)の本丸の火災で焼失しており、 それ以降は再建されなかったことがわかっています。 裏鉄門の東側には、平行でない上下二段の石垣があります。 これは、本丸御殿を少しでも広くとるために下段石垣を付け足し、 上部石垣と下部石垣を挟まれた三角形のスペースは地下室のような形になっていたのです。 絵図の該当部分に「梯子(はしご)上り口」の記載があることからも、 梯子で下段石垣の上面に下りる構造になっていたことがわかります。 」
二の丸に下りてきたところにあったのが「裏中門」である。
説明板
「 裏中門は搦手の本丸から二の丸にいたる間にある門です。
門は櫓門で、石垣に囲まれた枡形構造になっています。
発掘調査により、裏中門の礎石がみつかっています。
門の南側の枡形部分は、豊島石やぎょう灰岩を使った排水溝が巡り、
本丸からの水を三の丸に向けて効率的に処理していたことがわかりました。
また、裏中門周辺は岩盤を削り出して造成されています。
これは、枡形石垣北側の根石(最下段の石垣)の下に岩盤が露出していることからも分かります。
枡形東側の雁木(石段)は、昭和26年度の整備工事により、
廃城以降に追加された石段をとりのぞき、江戸期の姿に戻しています。 」
石段の先では調査中なのか、整備のためか、青いビニールで自由には行動できない。
左手に「道明寺ヤグラ跡」の木柱があり、その隣に「荒和布ヤグラ跡」の木柱が立っていた。
江戸時代には荒和布櫓、道明寺櫓、干飯櫓、紙櫓で、枡形を守っていたようである。
道は右折するが、正面と左に、石垣が重なって見える。
三の丸への搦手口にあたる裏下門の石段はかなり傷んでいるように思えた。
門自体は階段の上がったところの左側に建っていたようである。
左右の高石垣の上には肘櫓や白櫓があったようである。
石段を下り、左折し、三の丸を左に進み、津山城の探索は終わった。
予想していた以上に石垣が多く残り、楽しく見学できた。
(ご参考) 津山城の歴史
「 嘉吉年間(1441〜 1444)、美作国の守護大名であった山名教清が、
一族の山名忠政に現在津山城のある丘陵(鶴山)に鶴山城を築かせたのが最初である。
しかし、応仁の乱で山名氏衰退ののち廃城となる。
森忠政が慶長九年(1604)から元和二年(1616)まで十三年かけて、総石垣造り、
五階天守を持つ城を築きあげ、津山城と名前を変えた。
津山藩森家は元禄十年(1697)に断絶し、城は広島藩主、浅野綱長の預かりとなった。
翌年の元禄十一年(1698)、越前松平家の松平宣富が越後高田藩より十万石で入封。
以後、 明治四年(1871)の廃藩置県まで城主を務めた。
文化六年(1806)の火災により、本丸御殿のすべての建物及び表鉄門、裏鉄門などが焼失した。
明治維新後、天守や櫓などの建物は破却されたが、石垣や建物の礎石が残った。
明治二十三年(1890)、腰巻櫓の石垣が崩落し、これを契機に城の保存運動が起こる。 、
明治三十三年(1900)、城跡は町有化され、鶴山公園となった。
以後、津山町の管理下のもと保存整備され、桜の木が多数植えられた。
現在は鶴山公園(かくざんこうえん)として桜の名所となっていて、
日本さくら名所100選にも選ばれている。 」
津山城へはJR津山線津山駅から徒歩約15分
市内循環バスで城下まで行ける
津山城のスタンプは備中櫓受付に置かれている