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道の左側に「鐘の段」の道標があるので、道標に従い中に入っていく
樹木が茂る空地の先は少し小高い地形になっていて、
近くに「鐘の段」の説明板があった。
この郭は沼田小早川氏の初期に築かれたものだろうと思われた。
説明板「鐘の段」
「 城山の南斜面中段に半独立的小丘をなしている郭で、鐘の段と呼ばれる。
この鐘の段は北方背後に土塁を設けた二郭、東側に大小二郭、
西南部に三段の郭を配置している。
鐘の段を中心としたこれらの郭は地形や縄張からみて、
中世初期の独立した山城(丘城)の形態をなしており、
この部分の築城年代は古いものと思われる。 」
登山道に戻り、更に進むと右側に「番所跡」の道標があり、 上がって行くと左側の斜面に「番所跡」の説明板があった。
「 軽石の段、中の段、下の段の三郭からなり、 大手道を警固する番所が設けられていたところである。 この番所の東方と西方にもそれぞれ東の番所、西の番所と呼ばれる郭が残っている。 」
番所跡は山を削平したようになっていて、土塁が今も残っている。
木の階段を上ると、石垣が崩れたように石が転がっていて、
その先は階段が石積みになっていた。
その先の左側に「匡真寺跡」の説明板があるが、
このあたりは城の南側中腹の腰曲輪である。
説明板「匡真寺跡(きょうしんじあと)」
「 小早川氏の菩提寺跡で、隆景が天正五年(1577)、亡父、毛利元就の七回忌、
亡母妙玖尼の三十三回忌に際して、ここに匡真寺(現在三原市宗光寺)を建立し、
法会を盛大に営んだ。
寺跡は東西四十一メートル、南北七十二メートル に及ぶ広大なもので、
全面に瓦片が散乱し、築庭と思える涌水池、築地塀の跡などが残っている。 」
中に入って行ったが、雑草が茂っているので瓦片は見つからず、
大きな岩があることは確認しただけ。
帰宅後、絵図を見ると、ここの南に寺院が長く拡がっていることがわかった。
新高山城の全体図である。
新高山城は標高二百九十七・六メートル、
東よりの中腹以上の斜面には岩山が露出し、
いたるところに岸壁がそそりたち、するどく聳えた俊厳な山容である。
外曲輪は斜面の中腹から張り出した二つの尾根を利用し、
大手側を固める意図をもって巧妙に配置され、
匡真寺跡、鐘の段、番所跡、紫竹の丸、シンゾウス郭、大手道などがあった。
標高約二百九十八メートルの新高山の山頂尾根や鞍部を巧みに利用して、
東から東の丸、その南にライゲンガ丸、詰めの丸があり、
その西に本丸、その西に中の丸、釣井の段(井戸郭)を配置し、
その西に石弓の段、西の丸、北に北の丸、南に紫竹丸を配する東西約四百メートル、
南北五百メートルの大きな城郭であった。
眼下には本郷の町と当時は新高山城下まで瀬戸内海が深く湾入していた沼田川が見えた。
坂を登ると岩塊があるが、ここは中の丸の下である。
右に行くと中の丸で、「中の丸(二の丸跡)」の標柱と説明板が立っていた。
礎石のような石も見られたが、礎石は重臣の居館の跡と思われる。
説明板「中の丸(二の丸跡)」
「 本丸北方に四段の郭からなる東の丸、井戸郭、
五段からなる中の丸の各郭が配置され、これらが二の丸の縄張である。
中の丸の郭には随所に土塁が築き、曲輪を設けて、防備を固めている。
また、北方の中の丸の広い郭には礎石の配置が一部みられるが、
規模の大きな建物があったことが知られる。 」
右(東)に進むと木の階段があるが、階段の上は門跡とされる。
ここは本丸の西南隅で、かっては内枡形の門が建っていたと推定されている。
階段の左側には巨石が散乱しているが、これは本丸土塁で、
昔は土塁の斜面を巨石の石垣で補強していたと思われる。
この横を北に進むと右は本丸の土塁左は谷という狭い道で本丸腰曲輪。
そこを過ぎると広い空間に出るが、この部分も中の丸である。
中の丸は複数の段で構成され、随所に土塁を築き、いくつかの曲輪を設けて、防衛していた。
中の丸の東部は重臣の居館の跡で、礎石が残っているというが、
草木が茂っていて確認はできなかった。
ここの東方にあるのが釣井の段(井戸曲輪)である。
その北に東の丸があるが、井戸曲輪も中の丸も二の丸の一部である。
草ぼうぼうの中に井戸があるのが釣井の段(井戸曲輪)である。
説明板「釣井の段(井戸曲輪)」
「 上下二段からなるこの井戸曲輪は東西南北ともに50m余という城内最大の曲輪である。
上段の曲輪には径約2mの円形石積井戸が4ヶ所、
下段の曲輪には 径4.2mと2.2mの円形石積井戸が残っている。
今なお、清水を湛えるものもあり、
城主をはじめ多くの家臣団の城内生活を物語るものである。 」
釣井の段の南に一段高いところにあるのが本丸で、
釣井の段との間には土塁が築かれていたという。
登城道は大手道で、その道を登ると大手門の説明板が立っている。
ここは本丸北西で、本丸への入口の大手門があったところである。
説明板「大手門跡」
「 大手道を登りつめたこの場所は外枡形の大手門跡お推定される。
三原市の宗光寺の山門は重要文化財で、
高山城(新高山城)の大手門を移したものと伝えられるが、
ここにその門が建っていたものと思われる。 」
大手門をくぐると本丸で、礎石の一部と思われるものがあった。
説明板「本丸跡」
「 本丸は山頂の尾根を削平した四段からなり、東西125mに及ぶ広大な郭出、
西側と北側の斜面は巨石による石垣で補強している。
東端の最高部は標高197.6mで、巨石が露出しているが、
この上に櫓をあげていたものと思われ、近世の城郭の天守台にあたる櫓である。
本丸の広い曲輪には居館の跡と思われる礎石が一部露出しており、
また、西側の中の丸から登り口にあたる本丸南西隅には内枡形の跡が残っている。 」
小早川家文書によれば、永禄四年(1561)に毛利元就と隆元親子が新高山城を訪問し、
小早川隆景の居館に十日間滞在し、
隆景は会所、表屋敷、裏屋敷、高間、常の茶の湯の間などの建物で、
連日、能楽や連歌、太平記 読みなどを催して饗応接待している。
東端の最高部の詰の丸へ行く。 本丸の東端にあるのは詰の丸で、その先は急崖になっている。
露出している巨石の上には、石造物がのっているが、
往時はこの上に櫓が建っていたと思われる。
「南無阿弥陀仏」と書かれた石碑と石仏が祀られているが、
いつからのものだろうか?
新高山城は沼田川を挟んで高山城と対峙し、
北側と東側は沼田川によって天然の濠をなしている。
詰の丸に立つと、眼下に沼田川によってひらけた本郷の町や瀬戸内海が望める。
「 対面に見える山は高山で、 土肥実平から四代目茂平の時代に築かれた高山城があったところである。 この城は十七代を継承した隆景が新高山に城替えをするまでの約三百五十年間、 沼田小早川氏の居城であった。 」
この後、下城したが、時間の関係もあり、
中の丸の西にある西の丸や北の丸方面には行かなかった。
それでも一時間四十分かかった。
そのため、予定していた三原城は明日にして、宿泊地の広島に戻った。
新高山城へはJR山陽本線本郷駅から登城口まで徒歩約20分、登城口から本丸まで約30分〜40分
新高山城のスタンプは本郷生涯学習センターの受付カウンターにある。