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山口県庁へ向って歩くと、交叉点を越えた右側に山口市歴史民俗資料館(月休)があり、
そこで続日本100名城のスタンプを捺印した。
歴史資料館の東側に山口県庁があるが、
ここは幕末に毛利藩の居城となった山口城の跡である。
「 幕末の文久三年、毛利敬親は萩城から山口の中河原御茶屋に入り、 元治元年(1864)、毛利敬親により山口城が築かれた。 第一次長州征伐が始まると、毛利敬親、元徳父子は完成したばかりの山口城を一部破却して、 萩へ退いた。 毛利敬親は慶応元年に再び山口へ移り、 翌年には修理が終わった新館へ居所を移し、 同年の第二次長州征伐では、防長二州の政治、軍事の拠点として山口城は機能した。 この時、高嶺城は山口城の詰めの城として使用された。 」
県庁前交叉点を北に行くと、「旧山口藩庁門1棟」の説明板があり、 その奥に門が見える。
説明板「旧山口藩庁門」
「 この門は元治元年(1864)、
時の藩主、毛利敬親(もうりたかちか)が、
藩政の本拠地を萩から山口に移すために建設した山口政事堂の表門として築造されたものといわれています。
築造当時は幕末の動乱期にあたり、高杉晋作、桂小五郎、
伊東博文等の藩士が足早にこの門を往来したと思われます。
門の構造は切妻造、本瓦葺の薬医門で、主材はけやき、松を用い、木割ではなく、
豪快で、いかにも城門らしい風格を残しています。
明治四年(1871)の廃藩置県までは藩庁門として使用され、
その後は山口県庁正門として、
新県庁舎(現県政資料館、国重要文化財)が完成した大正五年(1616)からは
西口の門として使用され、現在にいたっています。 」
門をくぐると植栽があり、
その先には大正五年に建てられた県政資料館(旧県庁の建物)が風格を漂わせながら建っていた。
その右手奥には同じ時代に建てられた思われる旧県会議事堂が建っていた。
県庁前交叉点を東に向って歩く。
警察体育館前の交叉点を過ぎると、上堅小路交叉点がある。
この交叉点まで五百メートル程だっただろうか?
交叉点の左右(南北)の道は萩往還である。
幕末の志士はこの道を通って山口に入ってきたのだろう。
交叉点を左折し北に向うと左手に小川が流れている道があるので、
その道に入ると一の坂川のほとりに、
「山口ゲンジボタル発生地」の看板があった。
橋を渡って進んでいくと、右側に五重塔が見えてきた。
瑠璃光寺五重塔は日本の歴史公園100選に選ばれている香山公園の一角にあり、
大内文化の最高傑作として、国宝に指定されている。
「 室町時代、大内氏二十五代、大内義弘は、
現在地に香積寺を建立したが、応永六年(1399)、応永の乱を起し、足利義満に敗れて戦死。
弟の二十六代、大内盛見が兄を弔うため、五重塔の建築を始めたが、
九州の少弐氏、大友氏との戦いで、永享三年(1431)戦死した。
五重塔はその後、嘉吉二年(1442)に完成。
五重塔の高さは約、屋根は檜皮葺き、二層のみ回縁がついているのが特徴。
建築様式は和様だが、回縁勾欄の逆蓮頭や円形須彌檀などには唐様が取り入れられている。
初重(一階)には円形須彌檀があり、僧形の大内義弘像と阿弥陀如来像が祀られている。 」
香積寺は江戸時代に萩に転封となった毛利輝元により、萩に移転したが、 その跡地に移転してきたのは山口市仁保高野にあった瑠璃光寺で、 元禄三年(1691)に移転してきた。
「 瑠璃光寺は曹洞宗の寺院で、 陶氏七代、陶弘房を夫人が弔うために、 文明三年(1471)に山口市仁保高野に建立した安養寺が前身で、 明応元年(1492)に現在の名に改められた。 」
池の近くに画聖雪舟の銅像があり、説明板が立っていた。
「 雪舟は応永二十七年(1420)に備中国で生まれ、
京都の相国寺で禅と画技を学び、四十才前後に山口に来て、
天花の雲谷庵に居を定め、画業に親しんだ。
応仁元年(1467)、大内氏の遣明船に乗り、明国に渡り、絵の修行に励み、
文明元年(1469)に帰国し、山口に居住したが、漂白の旅に出て、
文明十八年(1486)頃、山口に戻り、雲谷庵にて国宝の四季山水図などを描いた。 」
上堅小路交叉点に戻り、県道62号(萩往還)を南に向う。
信号交叉点の先の左側にバス停があり、「史跡大内氏遺跡築山」の標柱の先に
「築山神社」の標柱があるので、左に入っていくと築山神社があった。
「 築山神社が鎮座するのはは築山御殿跡である。 大内氏館が手狭になったため、その北側に大内義弘が別邸として築山館(築山御殿)を築いたといわれる。 」
築山神社の隣に「箏曲組歌発祥之地」の石碑が建っていた。
「 組歌は八橋検校が確立した箏曲の根本形式であるが、
数首の歌を組み合わせた歌詞についての所伝が当地にあることから、
この碑が建立されたようである。
天文年間(1532〜1554)のこと、大内義隆は京から迎えた北の方を慰めるため、
都から公郷や楽人を招いて、詩歌管弦の遊びを催したが、
その際に組歌が誕生した、とある。 」
築山神社の右手に八坂神社があるが、本殿は国の重要文化財に指定されている。
「 八坂神社は今から六百年前、
大内弘世が京都の八坂神社から勧請したもので、素戔鳴尊、手名槌命、足名槌命を祭神としている。
社殿は上竪小路に建立されたが、永正十六年(1519)に大内義興が、
大神宮を高峰山麓に建立した時、その地に移転し、社殿を新築した。
江戸時代末期、毛利氏は社殿をこの地に移したが、
本殿は永正年間に建立したままのものである。
本殿は三間社造り、檜皮葺きで、
本殿の周囲に配された十三個の蟇股は室町時代の特色をあらわしている。 」
神社を出て、元の道に戻り七十メートル歩くと、
「大内氏館跡(龍福寺)300m」の道標があるので、
南下すると右側に山口ふるさと伝承総合センターがあり、公衆トイレがある。
更に進むと、左側に「大内氏遺跡 館跡」の看板があるので、
左折すると「西田幾太郎」の案内板があり、
その先に龍福寺がある。 ここが大内氏館跡である。
「 大内氏館は、大内氏二十四代当主、
弘世が周防国と長門国を本拠と定め、山口に移り住んだ時、
大内氏の居館(守護館に築かれた居館)として建てられたもので、
京都を模した山口の街に相応しく、城郭でなく館として建てられたものである。
最盛期の館は、堀を含めると東西百六十メートル、
南北百七十メートル以上の規模を誇る方形の居館で、
京都の将軍邸を模していたとも言われる。
最初の館は溝と塀で囲まれた程度のものだったが、
十五世紀中頃には空堀と土塁が築かれ、防御力を備えた城館になった。
その子の大内義弘の頃には手狭になったようで、
館のすぐ北側に別邸として築山館(築山御殿)が築かれた。
天文二十年(1551)、大内氏三十一代、大内義隆は陶隆房の謀反にあい自害した。
陶隆房により後継者に擁立された豊後大友氏二十代義鑑の次男、大内義長も、
後援者の陶隆房が弘治元年(1555)の安芸宮島の戦いで毛利軍に敗れ自害したことで、
翌弘治二年(1556)、毛利元就の侵攻により、山口から逃亡したことで、
大内氏館は役目を終えた。
その翌年の弘治三年(1557)、毛利隆元により、
大内義隆の菩提を弔うため大内氏館跡に龍福寺が建立された。 」
発掘調査が行われる前の大内氏館の遺構は、 龍福寺山門近くに残っていた土塁程度だったという。
「 龍福寺は明治十四年(1881)の火災によりほとんどの建物が焼失したが、 古敷郡大内村(現山口市大内御殿)の大内氏氏寺、天台宗興隆寺から釈迦堂を移築し、 曹洞宗の龍福寺本堂へ改造した。 改造された龍福寺本堂は文明十一年(1479)に建造されたと伝えられる、 桁行五間、梁間四間、檜皮葺の入母屋造りの建物で、 正面にしおり戸があり、内部の大虹梁、板蟇股、組物などに、 室町時代の建物の特徴が現れていることから、国の重要文化財に指定されている。 」
薄暗い境内にあったのは宝現霊社である。
「 大内氏の祖、琳聖太子から三十一代の大内義隆に至る大内氏歴代の当主の神霊をまつる祀で、
龍福寺の鎮守としてここに建立されている。
この社殿は最初大内教弘が築山館に創建したのが始まりで、
敬神崇祖の念の篤い大内氏霊台の当主によって、
その各忌日には祭祀がなされてきた。
江戸時代には毛利氏により祭祀が行われてきたが、
明治に入り、一時多々良神社と称したことがある。
現在の建物は今から二百五十年前、江戸中期の建築で、
両側に大内氏の家紋、大内菱が付いている。
(注)琳聖太子は百済の聖明王の第3王子で、日本に渡り、
周防国多々良浜に着岸したことから、多々良氏と名乗り、
後に大内村に居住したことから大内を名字にした、といわれる。 」
寺の境内の南東部には大きな池を持った庭園があるが、
大内氏館跡に復元された池泉庭園(2号庭園)である。
大内氏館にあった庭園では最大だったようで、中央部にひょうたん池があり、
水は庭園東側の水路から入れている。
池の東側にはソテツが植られて、
国際交流が盛んだった大内文化を感じされるものになっていた。
池の畔にある説明板には
「 館跡の南東部には屋敷地の東を区画する溝や堀、大きな池をもつ庭園がみつかった。
溝や堀は時期の異なるものが複数確認されている。
これは大内氏館が何度か改修されたことを示すもので、
大きな池を持つ庭園は1400年末につくられ、
大内氏が滅亡する1500年代中頃まで使われていたと考える。
池の北には台所(かまど)や蔵(せん列建物)があったことから、
池の北は庭園(ハレ)とは性格の異なるケの空間だったことが分かる。 」 とあった。
周囲には庭を鑑賞する建物だったと思われる建物の基盤の標柱があった。
また、石組井戸の説明板には
「 石を組んで造られた井戸で、 直径は約1.2m、深さ4m、池泉庭園と同時期に作られ、1500年前半に埋め戻された。 井戸から外面に金箔を貼った土師器皿が三枚出土した。 」 とあった。
池の北側に移動すると、中央に「石組かまど」の標石があり、 奥の隅に「せん列建物」の標石があった。
説明板「石組かまど」
「 東側からまぎなどの燃料をくべるつくりになっている。
U字形に石を組んだ焼燃部が二つあり、
北側のものは南北約0.8m、東西約1.2m、南側のものは南北約1m、東西約1.3mの大きさである。
かまど周辺からは調理具などの日常雑器が多く見つかったことから、
この場所は台所と考える。 」
その奥に「せん列建物」の説明板が立っている。
「 池泉式庭園と同時期につくられた建物で、 地面にはせん(土へんに専の字の漢字だが、焼成した煉瓦のこと)を埋め込んでいる。 この建物には縦約30cm、横30cm、厚さ2cmのせんが使われている。 建物は南北約46m、東西の幅は建物が更に西に広がるため、不明。 中世の遺跡で検出されるせん列建物の多くは蔵であることから、 この建物も大内氏館に作られた蔵の一つと思われる。 」
その右手に縦に伸びる石積水路が復元されていた。
大内氏館はこれまで数十回にわたる発掘調査が行われ、
多くの遺構が発見されたという。 小生は訪れなかったが、
寺の北西部には大内義隆時代に構築とされる小規模な枯山水庭園の復元したものがある。
「 この庭園(3号庭園)は、十六世紀前半の大内義隆時代に構築とされる小規模な枯山水式の庭園で、 その後、陶隆房の謀反により焼失し、 火災後に大内義長によって庭石のいくつかは動かされ、改変されたと推定される。 現在の庭は平成十八年(2006)に復元整備されたものである。 」
そのほか、庫裏改修の際に発見されたのが1号庭園であるが、
埋め戻されているので、見ることはできない。
龍福寺を出て、南に下り、県道204号(宮野大歳線)を左折して少し行くと、
山口駅に入る交叉点がある。
交叉点を越えたところにバス停があったので、バスにのり湯田温泉に戻った。
バスを降りると中原中也記念館があったので、訪問した。
「 中原中也は明治四十年(1907)にここで生まれた。 小学校高学年から短歌を制作して、雑誌や新聞に投稿、ますます文学に熱中して、 山口中学三年で落第。 京都の立命館中学へ転校し、高橋新吉や富永太郎の影響を受けて、詩人の道に進む。 大正十四年(1925)、 十八歳の時、上京し、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らを知り、 昭和四年(1929)、河上らと同人誌「白痴群」を創刊、 昭和九年(1934)には第一詩集「山羊の歌」を出版し、詩壇に認められるようになった。 また、フランス詩の翻訳も手がけ、訳詩集「ランボオ詩集」を刊行する。 昭和十二年(1937)、山口への帰郷を願いつつ、鎌倉の地で三十歳の短い生涯を閉じた。 」
中原中也記念館は平成六年(1994)に生誕地に開館した施設である。
「 中原中也の生家は湯田温泉に近い広い敷地をもつ大きな病院だったが、 昭和四十七年(1972)の火事で茶室と蔵を残して焼失。 記念館はその生家跡の一部に建てられていて、 火事の際に遺族により運び出された中也の遺稿や遺品を中心に貴重な資料を公開している。 」
その前には湯田温泉観光回遊拠点施設「狐の足あと」が建っていた。
ここはカフェや展示スペース、足湯を備え、
湯田温泉の食や文化、観光スポットを紹介する施設である。
見学後、ホテルに戻り、温泉につかり、疲れをほぐした。
大内氏館へはJR山陽新幹線・山陽本線新山口駅から山口線で20分、
山口駅下車、バスで5分県庁前で下車、
徒歩約10分
大内氏館と高嶺城のスタンプは山口市歴史民俗資料館(月休)にて
高嶺城
高嶺城は鴻の峰城、鴻之峯城とも記され、
山口県山口市上宇野令字高嶺にあった山城である。
県庁西門口交叉点の西側の山が高嶺山(鴻の峰)で、麓に山口大神宮があるが、
その頂上に高嶺城があった。
大内氏館の西北西に位置し、県庁はその中間にある感じである。
登城道は県庁西門前の山口大神宮の高嶺稲荷神社横にあり、そこから徒歩で七十分かかる。
車で訪れる場合、鴻ノ峰南麓の木戸神社の脇から城域の一角にあるテレビ中継所まで行くことができ、
そこから山頂まで五百メートル、徒歩約十五分である。 手前の駐車場(26台)から道幅が一台分しかない
狭い道なので、対向車に注意、駐車できるのは三台程度。
「 高嶺城を築城したのは、周防国、長門国を本拠とした戦国大名大内氏最後の当主、大内義長である。
大内氏館の詰の城として整えられた標高三百三十八メートルの鴻ノ峰に築かれた山城で、
四方に延びる尾根筋を削平して曲輪を配した連郭式縄張で、頂上部に砦と称する主曲輪がある。
頂部曲輪(砦)は周囲に石垣が築かれ、この城でもっとも防備を施した曲輪である。
大内義長は厳島の戦いで陶晴賢が毛利軍に敗れ自害し、大内氏の主力も壊滅的な被害を受けたことから
石見の吉見正頼や安芸の毛利元就に備え、弘治二年(1556)築城を開始したが、
毛利氏による攻勢は予想以上に早く、翌弘治三年(1557)に山口に侵攻したため、
大内義長は未完成のままの高嶺城に拠らざるを得なくなり、
結局、大内義長や重臣の内藤隆世は城を放棄して長門の且山城へと逃れ、
その地で自害した。
大内氏滅亡後、高嶺城は毛利氏により築城が再開され、完成し、
城代として吉川氏一門の市川経好が入り、毛利氏による山口支配の拠点となる。
永禄十二年(1569)には、豊後の戦国大名、大友義鎮の支援を得た大内輝弘が周防へ侵攻し、
高嶺城を包囲し、攻撃したが、留守を守っていた経好の妻が指揮を執り奮戦し、
城の守りは固く、輝弘は城を落とすことはできず、
大内輝弘は九州より反転してきた毛利軍の前に敗北し、自害した。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利氏は周防、長門の二ヶ国に減封された際、
毛利輝元は新たな根拠地として、長門国萩の指月山、
周防国防府の桑山とともに高嶺を幕府に提出したが、
幕府は要地である山口への拠点移動は許さなかったため、萩城が毛利氏の本拠とした。
元和元年(1615)の元和一国一城令により、高嶺城は破却されることが決定し、
寛永十五年(1638)に廃城となった。 」