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岩国城は城郭案内図の通り、城山の尾根沿いに長さ百八十米、
横に百八米〜五十四米の敷地に、本丸の南西に二ノ丸、北東に北ノ丸が配された縄張で、
石垣の高さは五・四米の総石垣で築かれ、要所に五つの櫓、
折り回し大門が二つ、埋門が一つ、井戸が二つがある厳重な造りの山城であった。
山麓からロープウエイーに乗り山頂駅を降り、右手に行くと石段があり、
上ると左手に「出丸跡」がある。
出丸跡の石段を上ったところが大手門跡である。
その左側に公園があるが、このあたりが二の丸跡である。
右手に行くと天守閣があるが、この一帯が本丸跡で、
天守は昭和三十七年(1962)に復元されたものである。
「 本丸の北隅に築かれた天守の外観は四重で、
内部は六階、三重目に入母屋屋根をかけ、その上に望楼を乗せる形式である。
望楼は内部を二階に分けていて、四重目の六階は廻縁を内縁に取り込み、
五階の屋根を省いたため、五階より張り出す構造になっている。
岩国城の特徴は三重目も内部が二階に分かれ、四階も廻縁を内縁に取り込んで、
三階の屋根を省き、四階が張り出した形になっていた。
当時このような三階よりも四階を、五階より六階を大きく張り出した、
特異な形式の天守を南蛮造(唐造)と呼ばれていた。
岩国城の城郭の建設には八年の歳月が費やされたが、
完成してわずか七年後の元和元年(1615)の一国一城令により、
山上の天守を始めとする建物や石垣は破却された。
その後、城跡は石垣の一部を残し、荒涼たること三百六十年過ぎた。
昭和三十六年(1961)三月、天守構造図という絵図に基づき、
天守閣は工事に着手、昭和三十七年(1962)八月完成した。
過去の図面により忠実に再建したコンクリート製の高さ二十メートル余の天守閣である。
しかし、麓からの見えるように建設されたため、
本来の天守台より南側約三十メートル離れた場所に建てられている。 」
天守台に入ると、岩国城の紹介や金重と備州長松則光の刀が展示されている。
望楼からの眺めが売り物で、下には錦川に架かる錦帯橋と町並が見えた。
吉川広家が建てた天守閣の天守台は再建された天守閣の北側、 約三十メートルのところで、平成七年(1995)の発掘調査で発見された。
説明板「天守台」
「 天守台は古式穴太積みを基本にしながら、
戦国時代、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。
天守台の石垣は大きめの石と隙間に詰めた小さな石からなり、
隅部の角石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。
その隅部には反りがなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、
見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重きを置いた造りになっている。 」
天守台の北東には東矢倉があったようだが、今は草木が茂った小山になっていた。
小山の周囲を廻ると橋があり、その下は空掘になっている。
岩国城の周辺には数多くの空堀があり、広家がいかに防衛に力を入れていたか分かる。
この空堀は幅約十九・六メートル、深さは約七・四メートルだが、
草に覆われているので、実感に乏しかった。
橋を渡ると北の丸広場にでた。 北の丸は本丸の北東に位置し、
東櫓や北櫓が建っていたところである。
北側の石垣は麓にあった御土居の保存のために残られたもので、
四百年前築城当時の石積を見ることができる。
北の丸広場を出て、城山園道を下っていくと、大釣井(おおつるい)がある。
説明板「大釣井」
「 大釣井は慶長十三年(1609)築城と同時につくられたもので、
非常用の武器、弾薬等の収納をはかるとともに敵に包囲されたり、
落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられる。 」
ロープウエイー山頂駅にある公園にはからくり時計があった。
「 初代岩国藩主となった吉川広家は、関ヶ原の戦いの前、 西軍に味方することを主張する安国寺恵瓊と対立し、 東軍につくことを主張し、徳川家康より毛利家六ヶ国の所領安堵の約束を得ていた。 関ヶ原の戦いが始まると、毛利勢の動きを封じ、戦いに参加させなかった。 家康は毛利輝元が西軍の総大将だったことから、毛利家を改易し、吉川広家に周防、 長門の二国を与えると伝えたが、それを固辞し、毛利家の存続を願い出て、 認められた。 吉川広家の徳川家康の接近には毛利家の家臣には反発が多かったようで、 その後、毛利宗家の代々当主は吉川家当主を陪臣として扱い、 将軍に直接目通りをすることを許さず、官位を与えることにも反対した。 しかし、江戸幕府は外様大名として扱い、参勤交代の義務を負い、 当初は居城の築城許可も出していた。 一国一城令が出た時、 周防国には岩国城のみしかなかったが、長府藩の毛利秀元の居城・櫛崎城を破却 することが決まっていたので、岩国城の廃城も致し方なかったのだろう。 」
吉川家を毛利氏の分家ではなく、家来と幕府に主張していた毛利家にとって、
岩国城を廃止するチャンスだったのかもしれない。
山上には上記以外には岩国城を示す痕跡は残っていなかった。
ロープウエイーからは錦帯橋などの岩国の市街地や瀬戸内海までも一望できた。
岩国城が築城された時、横山の山麓には居館(御土居)が築かれたが、一国一城令で廃城になった後は 御土居が岩国領の陣屋として、また慶応四年の立藩後はその陣屋として、 明治維新まで存続した。
「 岩国領は本藩である長州藩より長期にわたって独立した支藩として認められず、陪臣として扱われた。 明治維新の慶応四年(1868)に漸く、独立の藩(岩国藩)として認められ 諸侯に列したが、明治四年(1871)の廃藩置県により廃藩になったため、 正式に独立した藩の藩庁として機能した時期はわずかである。 」
明治十八年(1885)、土居(居館)跡が吉香公園になり、
公園内には吉川広喜像が建っている。
岩国を象徴する錦帯橋は吉川広喜が建てたのである。
「 岩国藩第三代目の当主・吉川広喜が、
錦川出水のたびに交通が途絶されるのを憂い、大洪水にも流されない橋を架けて、
住民の苦難を救おうとして延宝元年(1673)に構築したのが錦帯橋である。
五連のアーチからなるこの橋は、全長百九十三・三米、幅員五米で、
石積の橋脚に五連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、
継手や仕口といった組木の技術により、釘一本も使わずに造られている。
日本三奇橋のひとつとして名高いだけでなく、
木造の五連の橋としては世界的には類を見ない珍しい木造アーチ橋として知られる。
中国杭州の西湖の堤に架かる連なった橋からヒントを得て創建されたといわれ、
西湖の錦帯橋とは姉妹橋となっている。
昭和二十五年(1950)の台風で全て流失したため、
現在の橋は昭和二十八年(1953)に建造当時のまま復元されたものである。 」
公園の右手の堀の先には岩国藩主吉川家を祀る吉香神社がある。
堀端にある建物は錦雲閣(きんうんかく)である。
「 錦雲閣は明治十八年(1885)に岩国藩主吉川家の居館跡が公園として開放された際、
旧藩時代の矢倉に似せて造られた絵馬堂である。
桁行六間、梁行四間、身舎五間×三間の入母屋造、桟瓦葺き楼閣風の建物で、
階上は板敷で高欄付切目縁を廻した造り、階下は土間敷、
外周は入口を除き腰を板壁として内側に腰掛縁が設けている。
正面に芦野文亀(ぶんき)が描いた鍾馗の絵が掲げられている他は、
現在では目ぼしい絵馬は残っていない。
なお、鍾馗(しょうき)は中国で、厄病神を追い払う神として信仰されており、
岩国では疱瘡(ほうそう)に対するお守り札とされていた。
建物は岩国市の登録有形文化財となっている。 」
民家の前に「吉川経家公忌魂碑」が建っている。
説明板「吉川経家公」
「 天正八年(1673)の羽柴秀吉による鳥取城攻めの際、鳥取城主山名豊国は降伏し、
城外に脱出したが、城内の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、
元春は石見国温泉津福光城主吉川経家を鳥取城の城督とした。
天正九年三月、経家が入城して調査すると貯米は二ヶ月分しかなく、
食料の補給を図ったが、輸送船はすべて秀吉軍により捕獲され、
時期を追う度に餓死者が続出したので、経家は開城を余儀なくされ、
城兵全員の救助を条件に切腹し、三十五才の命を絶った。
その子孫は岩国藩に仕え、藩政に貢献した。
弔魂碑はこの英魂を弔うため、昭和十四年に建立された。
礎石に鳥取城の石十二個が使用されている。
この場所は江戸時代に経家の子孫・石見吉川氏の屋敷のあったところである。 」
吉香公園の中にある香川家長屋門は岩国藩の家老だった香川家の住宅の表門である。
「 1693年に香川正恒が建立したもので、 瓦に一個づつ家紋が刻してある長屋門の他に、通用門、平時門などがあり、 身分、用件によって使いわけられていたという。 」
錦川は夏には鵜飼が行われる。 また、巌流ゆかりの柳や橋倒しの松がある。
錦川で佐々木小次郎がつばめ返しの技を究めたという伝説があり、
巌流像(佐々木小次郎像)が建立されている。
以上で岩国城の探訪は終了。
岩国城へはJR山陽本線岩国駅から市営バス「錦帯橋行き」で、約20分、錦帯橋で下車、
又は、山陽新幹線新岩国駅からバスで錦帯橋下車
錦帯橋から徒歩10分で岩国城ロープウエイ「城山山麓」、ロープウエイ約3分「山頂」下車、徒歩約5分で天守
岩国城のスタンプは天守一階受付(0827−41−1477 9時〜16時45分)にて