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石垣を右折し、左折すると石垣の前に「塩矢倉跡」の標柱が建っていた。
石垣を出ると左側に萩焼の窯元があるが、この左手一帯は萩城の二の丸跡である。
萩焼資料館の前方には左側に「史跡萩城址」、右側に「志都岐神社」の石柱が建ち、
土橋を渡ると萩城の入城券売場があり、
ここに日本100名城のスタンプが置かれている。 ここが本丸門の跡である。
「 萩城の本丸は東西約二百メートル、南北約百四十五メートルで、 本丸御殿を中心に南西に天守、南東に着見櫓、北東隅に井上櫓を配し、 正面となる南側には本丸門と極楽橋を設け、 二の丸との間に幅二十間(約40m)の内堀と石垣を巡らせていた。 」
目の前の極楽橋は現在は土橋であるが、往時は木橋だったという。
本丸門は外側が高麗門、内側が渡櫓門で構成された内枡形の虎口だったという。
本丸門の左側の石垣に上れる階段があるので、上っていき、
下を見ると、渡櫓門の石垣の様子が確認できた。
石垣は左に着見櫓まで続き、右に少し行く。
右に折れて十数メートル先でまた、左に折れ曲がり、その先は天守台まで続いている。
その前に幅四十メートルの水堀が広がっていた。
天守台の手前まで石垣の上を歩き、階段状(雁木)に築かれたところを降りた。
なお、天守台に続く石垣の脇に設けられた雁木(石段)は、
全国でも最大規模のものである。
下に降りて進むと、左側に「萩城天守閣」の説明板が立っている。
「 萩城は毛利輝元が慶長九年(1604)に起工し、同十三年(1618)完工した。
桃山初期の形式を示す、白亜天守閣は高さ八間(14.4m)、
初層は東西十一間(19.8m)南北九間(16.2m)、最上層は東西三間半(6.3m) 南北三間(5.4m)である。
初層は石垣全面にわたって、半間を張出し、俯射装置になっていた。
明治七年(1874)の解体まで二百七十年間、
毛利氏十三代の萩城の象徴として偉容を誇っていた。 」
「萩城天守閣跡」の標柱がある石段を上ると、 その先に天守台に上る石段が見えた。
「 天守台の高さは六メートルで、本丸南西隅に突き出す形で築かれ、
堀側の勾配のゆるやかな裾から上に行くに従って、急勾配に立ちあがっていく
「扇の勾配」と呼ばれる美しい反りを持つ。
これは三角州の地盤の強度を補うため底面を広げることで荷重を分散させる工夫である。 」
天守台の上には柱石と思える礎石が多く残っていた。 また、天守台からは城の四方が見渡せた。
「 前述の旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の中には、
立体模型と明治時代に撮影されたと思える写真の展示があった。
これを見ると、「天守は五階五層の複合式望楼型で、
白漆喰の総塗籠で窓は銅板を貼った突き上げ戸を備えている。
また、初層は堀側にせり出していて、無数の銃眼の狭間になっている。 」
明治維新後、萩城の全ての建物が壊された。 今は本丸などが指月公園になっている。
本丸跡に志都岐山神社、花江茶亭などが建っている。
志都岐山神社の参道に架かる万歳橋は嘉永二年(1849)に現在の江向の地に
建てられた藩校明倫館にあったものである。
手前右側にある樹木はミドリヨシノといい、
がくが緑色であることからその名が付けられた。
奥に見える社殿は志都岐山神社(ちづきやまじんじゃ)である。
志都岐山神社縁起
「 明治十一年(1878)、
萩城本丸内に、山口の豊栄神社(祭神毛利元就)と野田神社(祭神毛利敬親)の遙拝所が創建され、
翌明治十二年(1872)に両遙拝所を両神社の分社とし、指月神社と称した。
同十五年に志都岐山神社と名を改め、
同三十三年、毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を五祭神とし、
毛利氏十二代の藩主を配祀した。 」
神社の南西に花江茶亭(はなのえちゃてい)がある。
「 安政の始め(1854年ごろ)、十三代藩主毛利敬親(もうりたかちか)が、
三の丸の橋本川沿いにあった花江御殿(川手御殿、常磐御殿)内に造った茶室である。
この茶室で敬親は支藩主や家臣と茶事を託して、時勢を論じ、
国事を画策したといわれている。
維新後、長尾氏に譲渡されたが、明治二十二年(1889)ごろ、
品川弥二郎等が主唱してこれを買い取り、指月公園内の現在地に移築した。
建物は木造、入母屋造、茅葺き、平屋建、桁行六・八四メートル、梁間三・六二メートル、
本床と脇床がついた四畳半の茶室と三つの水屋からなっている。 」
その近くに庭と建物があり、「梨羽家茶屋(煤払いの茶屋)」の説明板がある。
「 東郊、中津江にあった萩藩寄組士梨羽家(三千三百石)の別邸茶室で、
年末萩城内すす払いの際、藩主が一時ここに休憩したことから、この名があります。
茶室としても、江戸時代中期の花月楼形式の優れたものです。 」
志都岐山神社の西側に行くと「詰丸跡」の立派な説明板があり、 左側には石段があり、上っていけるようになっている。
説明板 「詰丸跡」
「 萩城は山の名をとって指月城とも呼ばれ、
ふもとの平城にあわせ、山頂に詰丸を設け、
せまいながら本丸、二の丸を置いて、陸と海とを監視するため、
矢倉数箇所、天水溜数箇所などをもつ望楼であった。
山頂の詰丸は石垣と土塀で囲まれた本格的な山城で、
東側の上段を本丸、西側の下段を二の丸として、
石垣と掘で仕切られた両者の間には棟門でつながっていた。
門櫓以外の七基の櫓が建てられたが、 籠城の時に備え武器が貯蔵されていた。
山頂には井戸がないため、水溜があり、昭和四十年に土塀の一部とともに復元され、
登城道も整備されている。 」
藪蚊が多いとの情報を得ていたので、虫除けスプレーも用意していたのだが、
往復四十分以上かかるので、登頂を断念した。
詰丸がある指月山の南側の麓には水掘が入り込み、その先に石垣が門跡のように残っていた。
石垣の前に「八間矢倉跡」の標柱があったので、
ここには八間の櫓が建ち、西側からの攻撃に備えていたのだろう。
石垣の先は現在は石彫公園になっていて、北側には湾の白浜があった。
ここから本丸跡まで戻り、東側に向う。
本丸の東にある二の丸との間には石垣があり、それが残っていた。
石垣の北側には六代藩主宗広が東園と名付けた回遊式庭園が残っている。
説明板 「東園」
「 東園は萩城本丸の東北方面に位置し、
二の丸内につくられた回遊式の庭園で、池の側には御茶屋もあった。
萩藩の儒学者山県周南が著した「東園記」によると、
六代藩主毛利宗広(1717〜1751)の時、この地に古くからあった池を浚渫し、
庭をつくって東園と成し、高い館を建てて園を総覧できるようにした、とある。
そして、七代重就(1725〜1789)が家督を継いた時も、旧に従いこの地を遊息後とし、
庭内の各所に六景二十勝の名称をつけ、その景観を装飾したという。
なお、東園と名づけて整備される前にも、この地には御花畠と称した庭園があり、
御茶屋も建てられていた。 」
東園から東に向って歩くと、日本海が見えるところに出た。
二の丸は本丸と指月山を囲むように北から東、そして南にぐる〜と造られた曲輪である。
「 東西百五十三間、南北五十八間で、その中に十三の矢倉と三十四の井戸、蔵元役場、 寺社などがあった。 また、東門から潮入門に至る石垣の上には、 鉄砲を撃つための四角い穴をあけた銃眼(鉄砲狭間)土塀が巡っていた。 」
土塁の上から菊ケ浜を見ると、石垣の上に白壁塀があるが、
この土塀は昭和四十年に復元されたもので、銃眼土塀と呼ばれるものである。
横光利一は 「 蓬生ふ 銃眼の中 海光る 」 という句を詠んでいる。
復元された二の丸銃眼土塀の北側にあるのは潮入門跡である。
菊ヶ浜に面した東側には潮入門櫓の他、いくつかの城門があったが、
それらの門は石垣のみが残っている。
東門に向って進むと、城門跡の石垣があり、
左には海に入れる開口部が設けられていた。
石垣の前の松が植えられているところに「華矢倉跡」の標柱が建っているので、
櫓があったのだろう。
その先の枡形石垣が残るところが東門跡で、
右折すると内掘前に出て、そのまま進むと本丸門前に出た。
これで萩城を一周したことになり、萩城の探索は終了した。
三の丸と萩城城下町
萩城の駐車場から東に向い、小川を渡ると三の丸跡である。
「 江戸時代、三の丸は重臣の居住区で、厚狭毛利家の萩屋敷もここに建てられていた。
大身の武士の居住地区だった堀内地区は旧藩時代のままの姿をとどめている。 」
萩城の東南に口羽家住宅があり、 「口羽家住宅二棟(国の指定重要文化財)」の説明板が立っていた。
「 口羽家は萩藩の寄組士(1018石余)で、代々萩城の三の丸に住んだ。 表門は現存するものでは最大の長屋門で、片潜戸の左に門番所を設けている。 長屋は東面切妻造り、西面入母屋造り、桟瓦葺きで、 東面に入母屋造りの突出部を設けた形式になっている。 いずれも十八世紀後半から十九世紀初めのものと思われる。 」
その他にも、武家屋敷が残っている。
北門近くの「旧繁沢家長屋門」の説明板がある。
「 繁沢家は阿川毛利家(7391石余)の分家で、萩藩寄組(1094余石)に属し、 給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていた。 建物は桟瓦葺き、切妻造り、桁行三十五・五メートル、梁間四・九メートル、 中央から左寄りに門が設けられている。 同家藩政初期の当主、繁沢就充(はんざわなりみつ)は藩要職として活躍した。 」
なお、阿川毛利家は元就の二男、吉川元春の長男、元長を始祖とする家系である。
弟の二男、元氏が吉川家を継ぎ、岩国城の城主になった。
その南にある「益田規施旧宅地」の石柱が建つ住宅前に「旧益田家物見矢倉」の説明板がある。
「 益田家は萩藩永代家老(12062石余)の家柄で、
阿武郡須佐に領地をもっていた。 建物は木造本瓦葺き、入母屋造、
桁行十一・〇六メートル、梁間は五・〇六メートルである。
石組の上に単層の堅固な建物で、矢倉長屋と称され、物見も兼ねていた。
棟瓦、懸魚、格子窓などの意匠や規模がすぐれている。
当家幕末の当主、益田規施は藩主毛利敬親のとき、国家老などの要職をつとめ、
藩政改革に尽したが、
元治元年(1864)禁門の変の責任者として徳山藩へお預けとなり、切腹されられた(年三十二歳) 」
繁沢家の北側に「旧周布家長屋門」の説明板がある。
「 周布家(すうけ)は萩藩永代家老益田家の庶流で、 石見国周布郷の地頭職として周布村に住し、周布を氏としたことに始まる。 藩政時代は大組士の筆頭として、千五百三十石余の知行地を長門市渋木に領していた。 この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建、本瓦葺、東西の桁行二十一・九メートル、 東端から北に折れ曲がった部分の桁行十一・二メートル、 梁間三・九六メートルの道路に沿った長い建物である。 中央から東寄りの所に二・四六メートル幅の門を構えて、開き扉を設けている。 建物の外観は腰部を下見張りとし、基礎に見事な切石積みがあり、 上部は白漆喰大壁造りである。 江戸中期の代表的な武家屋敷長屋様式を残している。 」
旧益田家物見矢倉の東には再建された北の総門がある。
説明板「北の総門」
「 北の総門は三の丸(堀内)の入口である総門の一つである。
総門は北、中、平安古の三ヶ所があり、あわせて大手三つの門と呼ばれていた。
昼間は門番が常駐して出入りの者を監視し、夜は門を閉じて鑑札を持つものしか通れなかった。
天文年間(1739〜1740)の絵図によると、
北、中の総門前に新たな枡形と南北の船着場が描かれている。
枡形と土橋には土塀が巡り、船着場に続く箇所は喰い違いになっている。
この時期に北、中の総門周辺が再整備されたことがうかがえる。 」
萩市は北の総門を平成十六年(2004)に復元。
北の総門の周囲は発掘調査で枡形や土塁、裾の石組、
船着場の石段や石敷遺構を検出し、修復。
土塀は萩城の土塀を参考として復元し、平成二十三年(2011)に完成した。
なお、行かなかったが、三の門の一つ、南門は平安古の総門と呼ばれ、
先程訪れた口羽家住宅の東、堀内鍵曲という小路の先の旧児玉家長屋門の右手にあった。
外掘に架けられた玄武岩の石橋、平安橋は現存している。
当日は、海に面した温泉旅館の「萩一輪」に宿泊した。
宿泊した旅館も三の丸にあった。
翌日の九月五日の午前は萩の城下町を探索した。
江戸時代の絵図を見ると、北の総門の東(この絵図では下)に外掘があり、
その先は下級武士や商人が住む城下町だった。
「 萩城外掘は萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける長さは約七百四十メートルの堀で、
元和八年(1622)に完成したといわれる。 当初は二十間(約40m)の幅があり、
堀端には町家はなかった。 十七世紀の終り頃から次第に町家がつくられるになり、
外掘は城下町の発展で埋め立てられ、十四間に、
天文四年(1739)には八間(16m)幅と狭まっていった。
新しく出来た町は北片河町、南片河町と呼れた。
現在は、一つ南の道に橋が架かり、北の総門とは遊歩道で繋がっているが、
江戸時代には北の総門からこの橋まで遊歩道の両脇に民家が立ち並んでいた、という。
このあたりには菊屋家住宅や久保田家住宅など、古い建物が残っていた。
説明板「菊屋家住宅」
「 菊屋家住宅は国の指定重要文化財で、
主屋は十七世紀前期、本蔵、金蔵、米蔵、釜場は十八世紀〜十九世紀の建築である。
萩藩の御用を勤め、藩を支えた豪商の家で、御成道に面し、伊勢屋横丁、菊屋横丁の南北二筋の小路にまたがる。
毛利藩の本陣、御用宅として藩主や藩の賓客をもてなした書院や書院庭園が残っている。 」
説明板「久保田家」
「 呉服商、酒造業を営んでいた久保田家は主屋、門、塀、離れが旧御成街道に面し、
菊屋と対峙するかのように立ち並んでいる。
両家の主屋同士が向い合い、立ちの低い菊屋家の主屋に対し、
久保田家の主屋は屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、
立ちが高く、両者の対比はそれぞれの建物が建てられた時代的特色をよく表している。
幕末から明治前期にかけてのの建物で、
意匠、構造技術に優れ、酒造業で繁栄した往時の状況を良く伝えている。 」
小路に入ると「史跡萩城城下町」の石柱があり、傍らに説明板がある。
「 小路沿いは中、下級の武家屋敷で、 木戸孝允旧宅、青木周弼、周蔵の旧宅(江戸屋横丁)、 高杉晋作旧宅跡(菊屋横丁)などがある。 」
左手に「木戸孝允誕生地」の石柱が建つ家があった。
この通りが江戸屋横丁で、その先に交叉する小路が慶安橋通りで、
その通りに入り、右折した先ににあるのが菊屋横丁である。
「青木周弼、研蔵、周蔵の旧宅」の標柱がある屋敷前に説明板がある。
「 青木周弼は萩藩の藩医で、日本屈指の蘭学者である。
この屋敷は安政六年(1859)に建てられたと思われる。
実弟の研蔵も長崎で最新の医学を学び、種痘の技術を初めて藩に持ち帰り、
天然痘を予防することに尽くした。
また、映画のロケによく使われる。 」
円政寺前には「高杉晋作、伊東博文両公幼年勉学之所 二孝子祈願之金毘羅社」 の石柱があり、小さな説明板があった。
「 法光院(明治三年に改名し、現在は円政寺)住職、恵運は伊東博文の母(林琴子)と従兄弟である。 伊東博文は山口県熊毛郡大和町東荷(現光市)で1841年に生まれた。 十一歳の時、法光院に一年半預けられて、住職から読み書きを習った。 」
菊屋横丁には「高杉晋作誕生地」と「高杉春樹旧宅」と書かれた石柱が建っている。
説明板
「 高杉晋作は萩藩士高杉小忠太の長男として天保十年(1839)に生まれ、
安政四年(1857)久坂玄瑞のすすめで、松下村塾に入門し、吉田松陰の教えを受けた。
奇兵隊の創設、四国艦隊との講和談判、下関挙兵を行い、明治維新のため尽力したが、
維新を待たず慶応三年(1867)、二十八歳の若さで病死した。
旧宅内には産湯に使ったといわれる井戸が残っている。 」
白壁の家の一角に田中義一の説明板がある。
説明板
「 田中義一は幕末頃、藩主の御六尺(かごかき)田中家の三男として、
文久三年(1863)にこの地に生まれた。
幼名は乙熊、三歳のとき、平安古に移り、成長して義一に名を改めた。
萩の乱に参加したが、陸大に進学し、大正七年陸軍大臣に、
昭和二年には内閣総理大臣となり、外務大臣、拓務大臣を兼務した。 」
近くの晋作広場には「高杉晋作立志像」が建っていた。
高杉晋作が師事した吉田松陰を祀る松陰神社に行った。
場所は津和野から萩に入る入口に面している。
境内には国の指定史跡の「松下村塾」があり、説明板が立っている。
説明板
「 吉田松陰は安政四年(1857)実家の杉家宅地内にあった小屋を改造して八畳の塾舎とし、
更にその翌年、十畳半の増築した。 これが現在の松下村塾である。 二十七才のことである。
ここで松陰が教育した期間は一年であり、
実家に幽閉室時代を通算しても二年半に過ぎない。
この短い期間にこの粗末な教室から若い松陰塾グループが育ち、
安政の大獄で刑死した師を継いで、尊穣倒幕運動に挺身し、
明治維新の原動力となった。
同志の主な者は激動期に死んでいったが、生き残ったものは維新の中枢と立って、
新しい日本を指導することになった。 」
部屋の中を見ると写真が飾られていたが、松下村塾の生徒達なのだろう、と思った。
松下村塾の奥にあるのが吉田松陰の実家、杉家住宅である。
「国指定史跡 吉田松陰幽囚の旧宅」の説明板
「 この建物は吉田松陰の父、杉百合之助の旧宅であるが、 始め家禄四十九石余の親族、瀬能家から借りたもおで、かなり広い。 松陰は伊豆下田港で海外渡航に失敗して、江戸獄に移されていたが、 安政二年(1855)許されて、実家へお預けとなり、三畳半室に幽囚されることになった。 ここで父兄や近親が松陰の講義を開き、やがて入門者が増えて、 私塾の形態ができるようになった。 この講義は安政四年松下村塾に移るまで一年半ばかり続いた。 松陰は安政五年、老中間部詮勝の要撃を企てたために野山獄に再入獄前の約一月間、 再びここに幽囚される身となった。 」
境内にある「茶室花月楼」の説明板
「 萩藩七代藩主毛利重就(もうりしげたか)が安永五年(1776)、 三田尻(防府市)の別邸内に建てたもので、藩政時代に萩に移してあったが、 昭和三十四年にここに移された。 花月楼形式の茶室は江戸中期に考案された花月式の茶会ができるように設計されたもので、 それには八畳、八畳以上の広間が必要とされている。 」
松陰神社は明治二十三年八月、松下村塾が改修された際、
その西側に間口一間半、奥行二間の土蔵造りの小祠を建立し、
私祠として松陰を祀ったが、明治四十年に松陰神社となり、その祠が本殿になった。
現在の立派な社殿は昭和三十年に建立されたもので、
旧社殿の小祠は北隣に移されて、
松下村塾生、門下生四十二柱を祀る松門神社の社殿になっている。
以上で、萩城の旅は終了した。
萩城へはJR東萩駅から萩市内循環「まあーるバス(西)回り」で、萩城跡・指月公園入口で下車、徒歩約4分。
日本100名城の萩城のスタンプは本丸入口の料金所にて