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「長州報国隊都督 野々村勘九郎旧邸」の石碑が建っている。
「 野々村勘九郎は文久三年、 長府藩の青年武士達を集めて精兵隊を結成し、 文久元年、京都を追われた三条実美ら七卿を護衛する。 慶応元年に報国隊を創設し都督となるが、同隊の軍監で保守派の熊野九郎と対立。 保守派要人の暗殺をくわだてたとして、切腹を命じられた。 」
長府黒門東町に行くと敷地面積が約三万一千平米と広大な長府庭園がある。
「 長府庭園は長府毛利藩の家老格だった西運長の屋敷跡を整備した廻遊式日本庭園である。
芝生広場の先に八畳と十五畳の和室のある書院があり、池に面している。
その先は自然を活かした庭園で、小滝、菖蒲池、竹林などがあり、
四季折々の庭園美が楽しめる。
池のそばに建っている一の蔵と一の蔵と二の蔵は売店や作家による展示販売の場所になっていた。
この先には茶室もあった。 」
長府惣社町に行くと「長府毛利邸」の幟が建っていて、石垣と白壁に囲まれた城郭的な屋敷がある。
「 長府藩は毛利元就の四男穂井田元清の子で、毛利輝元の養子となった毛利秀元を藩祖とする。
政治的、経済的要所であった下関を領地とし、
歴代藩主の中で三代、綱元の子、毛利吉元と八代藩主の匡敬(重就)が、
宗藩の長州藩主を継いでいて、岩国藩の吉川家とは違い、宗藩との関係が深い。
幕末に宗藩の長州藩が下関を直轄領としようとしたために対立したが、
後に和解し、幕末の攘夷戦や四境戦争で、宗藩の長州藩と行動を共にしている。
なお、清末藩は第四代長府藩主毛利綱元が叔父の毛利元知に一万石の分知を与えて立藩した支藩で、
長州藩から見れば孫藩に当たる。 」
石垣の前には 「総社跡」の石碑がある。
「 総社とは大化の改新後の律令制度のもとで、 中央から赴任した国司が管内の神社を巡拝することが義務だった。 平安中期以降になると、管内の神社を便宜的に集めて一社を建てて総社とし、 管内官社の巡拝に替えるようになった。 長府国府のあった長府では国府に近いこの地に総社が建立された。 惣社町は惣社は総社と同意義語で、総社の名残を残す町名である。 」
長府毛利邸は長府藩の最後の藩主で、 元豊浦藩知事だった毛利元敏が明治三十一年(1898)に着工、明治三十六年(1903)に完成し、 大正八年(1919)まで長府毛利氏の本邸として利用された屋敷である。 昭和二十三年(948)、長府毛利氏が東京に移る際、土地と邸宅を下関市へ寄付、 その後、改装され平成十年(1998)から一般公開されている。 」
約一万平米の敷地は石垣と白壁に囲まれている。 表門(大手門)から入った区画より武家屋敷造の母屋がある区画が一段高く配されるなど、 城郭的な構造をしているのが特色である。
「 完成直前の明治三十五年(1902)、熊本で行われた陸軍の演習を視察する際、
明治天皇の行在所(仮の御所)となり、往路の十一月九日と、復路の十一月十五日に宿泊された。 」
玄関脇には毛利氏邸紀念碑が建てられている。
また、明治天皇御宿泊の間は当時のまま保存されている。
庭は書院庭園、池泉回遊式庭園、枯山水庭園の三つの庭があり、紅葉の名所である。
平成十六年(2004)に築後百十年以上の茶室・淵黙庵(えんもくあん)が移築され、
有料で利用できる。
長府侍町は毛利の支藩五万石の城下町として、
江戸時代には家老職、御馬廻役などの藩の重臣、側近が屋敷を構えていた町筋である。
侍町と壇具川が交わる地点には木戸が設けられ、傍には藩の御用所も置かれた。
移築された長府藩武家長屋が建っていた。
「 長府藩武家長屋は、長府藩家老職の「西家」
の分家(長府藩御馬廻り役二百二十石)の本門に附属していた建物である。
元は五百メートル程南の壇具川沿いに建っていたが、保存のためここに移築した。
建築時期は不詳だが、建築規模や格子窓の形態から江戸後期の建築物と推測される。
一見長屋風であるが、構造は桁行八間、梁間二間、単層、入母屋造り、
桟瓦葺き、屋根は化粧垂木と野垂木を使い、軒下勾配がゆるく、
屋根面に反りをつけた社寺建設の技法が見られる。
四畳と八畳の間や玄関は原形を留め、構造の重厚さ、
特に仲間部屋格子窓の造り等は江戸期の上級武家屋敷の遺構を残している。 」
侍町の背後の小高い丘陵は土肥山と呼ばれ、
寿永四年(1185)三月に繰り広げられた源平壇の浦合戦の後、追捕使として
源氏方の勇将、土肥次郎実平がこの山に居城したことにちなんでその名が付いた。
壇具川は清流に錦鯉が泳ぎ、夏にはホタルが飛び交う。
流れに沿い、山手に進むと壇具橋、宮路橋、川中橋、川上橋、両山橋へと至る。
橋の左手に笑山寺、右手には功山寺があり、これらは毛利家の菩提寺である。
川の名称は神功皇后が三韓鎮治の際、この豊浦の地(長府)で祭壇を築き、
天神地祇を祭り、
その祭壇に用いた道具を川に流した川ということから名がついたといわれる。
長府川端町にある功山寺(こうざんじ)は曹洞宗の寺で、
中国三十三観音霊場第十九番札所である。
「 功山寺は、嘉暦二年(1327)に開基は北条時仲、 開山は虚庵玄寂として創建された寺で、当初は臨済宗で金山長福寺と称し、 足利氏、大内氏など部門の崇敬厚く隆盛を誇ったが、 弘治三年(1557)、周防大内氏最後の当主、大内義長がここで自刀、 この戦乱によって一時堂宇は荒廃した。 その後、慶長七年(1602)、長府藩祖毛利秀元が修営し旧観に復し、曹洞宗に転宗した。 長府藩二代目藩主毛利光広が秀元の霊位をこの寺に安置し、長府毛利家の菩提寺となり、 秀元の法号智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで、功山寺に改称した。 」
山門は安永二年(1773)長府毛利藩第十代毛利匡芳の命により再建されたもので、 禅宗に見られる三間三戸の二重門である。
「 土間に自然石の礎石を並べ、本柱十二本、控柱八本で支えられた重厚な門である。 入母屋造、本瓦葺きの屋根は見事な反りを見せる。 櫓を支える太い十二本の柱は全て円柱で、柱の上部をわずかに円く削り込み、 その下部先端は急に細めた粽型になっている。 櫓の中には二十八部衆立像が国宝の仏堂より移され、安置されている。 」
山門をくぐると正面に仏殿、右側に書院と庫裏がある。
「 仏殿は善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。
なお、仏殿の建立は上記創建年より早い元応二年(1320)である。
入母屋造、檜皮葺きで、一重裳階(もこし)付き、方三間の身舎の周囲に裳階をめぐらした形状で、
堂内には本尊の千手観音坐像を安置している。 」
法堂の裏手にある毛利家の墓地の近くに大内義長主従の墓といわれる三基の宝きょう塔があった。
陶晴賢により、大内氏の後継として擁立された大内義長(大友宗麟の弟、晴美)は、
弘治三年(1557)、毛利軍に追われ、長福寺(現在の功山寺)まで敗走、
客殿において自害した。
辞世の歌 「 さそうにも 何かうらみん 時来ては 嵐の外に 花もこそ散れ 」
ここに名族大内氏の名は歴史上から消えていった。
書院と庫裏の所に「七落潜居跡」の説明板がある。
「 文久三年(1863)八月の政変によって朝議は公武合体の方針をとり、尊攘派の長州は皇居の護衛の任を解かれたために 三条実美ら尊王派の七卿を奉じて山口に帰った。 翌元治元年(1864)第一回長州征伐の恭順講和の条件として、当時五卿になっていた三条実美らを大宰府に移すことになった。 その十一月十七日はやむなく諸隊に護られ、一旦長府に移り功山寺書院に二ヶ月滞在して大宰府に移った。 十二月十五日夜、高杉晋作は五卿を前に潜居の間に決意を述べ、 義兵をこの門前に挙げた。 」
俗にいう高杉晋作の回天義挙で、 昭和四十七年の建立された「高杉晋作回天義挙銅像」が建っていた。
「 幕末には攘夷のために櫛崎城跡も砲台とされ、
東側から海峡に入って来る外国船を一番早く発見する役割を果した。
真鍮砲三門と木砲四門が配備されていたが、
四国艦隊下関砲撃事件の休戦協定が結ばれた翌日の元治元年(1864)八月九日、戦利品として持ち去られた。
下関市立長府博物館には櫛崎城破却時に取り外された大鬼瓦が展示されている。 」
櫛崎城へはJR山陽本線下関駅からバスで21分、松原下車、徒歩7分
壇ノ浦
下関駅よりバスでみすそ川バス停で降りると丸尾公園があり、
頭上に高速道路の関門橋があり、下関と門司を結んでいる。
ここは関門海峡の中で一番せまく約七百メートルしかないため、
潮の流れが速いことでしられるところである。
公園の一角に「壇の浦古戦場跡」の記念碑と「安徳帝御入水之処」の石碑がある。
記念碑「壇の浦古戦場跡」
「 西に東に一日四回その流れを変える関門海峡。
寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と源義経ひきいる源氏が、
この壇の浦を舞台に合戦をした。
当初は平家が優勢であったが、潮の流れが西向きに変わり始めると、
源氏が勢いを盛り返し、平家は敗退。
最後を覚悟した知盛がその旨を一門に伝えると、
二位の局は八才の安徳天皇を抱いて入水。
知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。
この時を期に、日本の政治は公家から幕府の武家政治へ移行していった。 」
「安徳帝御水之処」石碑には、 二位の尼の辞世の句として
「 今ぞ知る みもすそ川の 御(おん)ながれ 波の下にも みやこありとは 」
と書かれている。
源義経の八艘跳びの銅像と平知盛入水の銅像が向い合うように建っている。
「 関門海峡は、 幕末に長州藩兵と英、仏、蘭、米四ケ国連合艦隊との交戦が、 くり広げられた舞台である。 文久三年(1863)五月〜六月にかけて長州藩は、 関門海峡を通る外国船を五回に渡り砲撃した。 翌年八月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊十七隻が報復のため下関に来た。 海峡のもっとも狭い所に築かれた壇之浦砲台は前田砲台と共に重要な役割を果たしたが、 長州軍は大敗し、すべての砲台が占領、破壊された。 外国の進んだ軍備にめざめた長州は開国倒幕に転換し、明治維新実現への原動力になった。 長州藩の主力となったカノン砲は、 天保十五年(1844)に萩藩の鉄砲家郡司嘉平治の手によるものである。 青銅製の大砲で、球状の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて損害を与えるものだが、 連合軍の新しい大砲は距離、威力ともはるかに優れていた。 元和元年(1864)八月、長州軍の敗退により、 下関海岸の砲台に装備された青銅砲はすべて戦利品として外国に運び去られた。 」
長州砲は現在ここに置かれている青銅砲はパリの軍事博物館にあるものを複製したものである。
バスに乗り、赤間神宮前バス停で下車すると正面に竜宮城のような赤い楼門がある。
これは赤間神宮の楼門で、水天宮の幣額がある。
由来書「赤間神宮」
「 壇の浦戦いで崩御した安徳天皇を赤間関紅石山麓の阿弥陀寺境内に奉葬した。
建久二年、 朝廷は長門国に勅し、御陵の上に御影堂を建立し、
建礼門院の御乳母の女 少将の局・命阿尼を奉侍し、朝廷の勅願寺とした。
明治維新の廃仏棄却により阿弥陀寺は廃寺となったが、 御影堂を天皇社と称することになり 明治八年に官幣中社に指定し、
地名をとり、社号を赤間宮とし、社殿を造営した。 」
赤い楼門は水天門といい、明治九年に昭憲皇太后が奉献された 「 いまも猶 袖こそぬるれ わたつみの 龍のみやこの
みゆき思へば 」 という御歌にちなみ、昭和三十三年に竜宮造に造営されたものである。
門の脇をくぐると階段の上に外拝殿などの建物が見えるが、
これは第二次世界大戦の空襲により焼失したものを昭和四十年に再建したものである。
赤間神宮の御祭神は第八十一代安徳天皇で、御祭祀は安徳天皇と一緒に沈んだという八咫鏡である。
境内には耳ない芳一堂があり、その先に平家一門の墓があった。
隣にある安徳天皇阿弥陀寺陵は非公開である。
赤間神宮へはJR山陽本線下関駅からバスで10分、赤間神宮前下車、すぐ
巌流島と下関
下関グランドホテルの裏から巌流島行きの船が出ている。
「 巌流島は下関市彦島から約四百メートルの関門海峡内にある小島で、 島全体が平らな地形で、標高は海抜十メートルに満たない。 慶長十七年(1612)に佐々木小次郎と宮本武蔵との決闘が行われたことで有名である。 決闘が行われた当時は豊前小倉藩領の船島だったが、小次郎が「巖流」を名乗ったことから巖流島と呼ばれるようになった。 かつてはすぐ隣に岩礁があり、難所として恐れられていた。 豊臣秀吉も名護屋から大坂への帰路の途中でここで乗船が座礁転覆し毛利水軍によって助けられたといわれている。 岩礁は大正年間、航行する船舶の増加と大型化の障害となるため爆破されたが、 この部分もあわせて三菱重工業によって埋め立てられ、現在の巌流島の一部となった。 第二次世界大戦の前には周辺が日本軍の要塞地帯となったが、 戦後、島に移住者があり一時は三十世帯に達していたが、今は無人島になっている。 」
宮本武蔵が渡ってきたとされる浜に一艘の舟が置かれている。
「巌流島 決闘の地」 「佐々木小次郎と宮本武蔵との決闘」の経緯が書かれた碑があった。
あっという間に見学は終わった。 舟で唐戸市場のある船着き場に戻る。
下関は戦前、韓国への渡航として賑わい、下関市唐戸には古い建物が数軒残っている。
その中の一つ、旧下関英国領事館は領事館用途で建設された日本における現存最古の建築である。
「 駐日英国大使アーネスト・サトウの本国への具申により、
明治三十四年(1901)、下関市赤間町26番地に英国領事館が開設された。
その五年後の明治三十九年(1906)、
英国工務局上海事務所技師長ウィリアム・コーワンの設計により、
唐戸町に新築されたのがこの建物で、
昭和十六年(1941)の日本の真珠湾攻撃による開戦まで英国領事館だった。
昭和二十九年(1954)に下関市の所有となり、下関警察署唐戸派出所、下関市考古館、
現在は記念館・市民ギャラリー等、公共の施設として利用されている。
平成十一年(1999)に国の重要文化財に指定された。 」
下関市上新地町に嚴島神社があるが、 この神社と高杉晋作とは縁があるというので訪れた。
「嚴島神社記録帳」によると、 「 治承寿永の乱(いわゆる源平合戦)の時、 平家の守護神として安芸国嚴島神社の御分霊を安徳天皇の御座船に祀っていたが、 壇ノ浦の戦いの後、磯辺に放棄されていたという。 その後、「 吾は嚴島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり 」 との神託が里人にあり、、 ふしぎに思ってそこに行って見ると、磯辺に御鏡太刀様の物を見附けた。 文治元年(1185)に里人たちが社殿を建立し、更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請し、今日に至る。 」 とある。
社殿は平成四年(1992)に放火により全焼したが、
平成十三年(2001) 以降に本殿、拝殿、瑞垣、翼舎が再建された。
神社の境内に直径百十センチ、重量三百九十キログラムの大太鼓を納めた櫓がある。
この太鼓はかって小倉城内北側の櫓で城下に時を告げていたものである。
「 慶応元年(1865)四月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、 翌慶応二年(1866)六月、大島口、芸州口、石州口、小倉口の四境で戦いの火ぶたが切られた。 俗にいう四境戦争であるが、この戦争の長州軍の勝利が倒幕の重要な契機となった。 中でも高杉晋作が指揮する小倉口の戦闘は最大の激戦となったが、 高杉晋作はこの戦い挑むに当たり、本神社において戦勝祈願を行ったといわれる。 長州軍は奇兵隊、報国隊の二隊を先鋒とし戦い、 遂に慶応二年(1866)八月一日、幕軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出、 小倉藩は自ら城に火を放って敗走した。 攻め入った長州軍は余燼の中からこの太鼓を持ち帰り、 <高杉晋作が嚴島神社に戦勝御礼として奉納したものである。 」
上新地町3−8に「高杉東行終焉之地」の碑が建っている。
「 高杉晋作は四境戦争時すでに結核を患っていて、 慶応三年(1867) 四月十四日、新地の庄屋、林算九郎邸の離屋があったこの地で没した。 二十七才と八月という短い生涯だった。 遺骸は奇兵隊陣屋の近くの吉田清水山に埋葬された。 」
明治維新を自分の目で見られなかったのは残念だっただろう。
また、彼が生きていたら、明治の政治府も変わっていたかもしれないと思った。
巌流島へはJR下関駅からサンデン交通バス「長府方面」行きのバスで8分、 唐戸バス停下車、唐戸桟橋から関門汽船で10分、巌流島下船。