|
JR高松駅で降り、JR高松駅前交叉点に来ると、「玉藻公園」の石碑が建っている。
このあたりは高松城西の丸があったところだが、西の丸は埋め立てられ、
現在はJR高松駅や西の丸町のサンポート高松などが建つ市街地になっている。
公園の入口は西門があったところで、中に入ると木が植えられている広場があるが、
二の丸跡である。
二の丸は東西二十五間、南北五十二間の長方形の曲輪だった。
二の丸には、生駒時代から松平氏初期までは藩主の御殿があったが、
寛文十一年(1671) 、松平頼常により御殿は三の丸に建てられたため、
二の丸御殿は取り壊され、
周辺の五つの隅櫓(簾櫓、弼櫓、文櫓、武櫓、黒鉄櫓)だけを残し、
戦時に本丸を保護する役割を果たす広場に変えられた。
「 生駒親正は、天正十五年(1587)、讃岐国十七万六千石の大名に任じられ、
引田城そして聖通寺城に入ったがいずれも手狭なため、
天正十六年、当地(香東郡篦原庄玉藻浦)に築城を開始し、
天正十八年(1590)、高松城が完成し、入城した。
生駒氏四代目、生駒高俊は寛永十六年(1639)、生駒騒動により、
出羽国矢島藩一万石に転封となった。
寛永十九年(1642)、 江戸幕府は西国諸藩の監察する役目を与え、
水戸藩初代藩主、徳川頼房の長男、松平頼重に十二万石を与え、
讃岐高松藩を立藩させた。
徳川頼房は尾張家、紀州家より男子の誕生が早かったことから、
長男を水戸家の跡取りとせず、三男の光圀を水戸藩二代目にした。
光圀は長男の気持ちを汲み、水戸家の後継を頼重の子にし、
自分の子、頼常を讃岐高松藩主としたので、
光圀の血は高松藩として明治維新まで続いた。
高松城の築城は生駒親正によるが、
現在見られる遺構は徳川光圀の兄の松平頼重の時代に改修されたものである。 」
現在、二の丸の隅櫓はすべて取り壊され残っていないが、
西の門を入った左手隅(北西)に、「簾櫓跡」の標柱が立っている。
なお、簾櫓は二重の櫓だったという。
二の丸の通路は直線に延び、周辺の石垣や見事な刈り込みの老松などから、
かつての二の丸を偲ぶことができる。
三の丸に入る手前を右折して進むと、内掘脇の南西隅に、「文櫓跡」の標柱がある。
文櫓は一重の櫓だったという。
二の丸北西にはもう一つの隅櫓があり、「弼櫓」といい、一重の櫓だった。
更に二の丸東北には二重の櫓だったという「武櫓」という隅櫓が建っていたという。
二の丸という本丸に次ぐ重要な曲輪の防備のため、
石垣は大形の石材を使用している。
波で浸食された丸い石材が多い石垣は、頂部が平らになりにくいので、
平石を並べて、簾櫓や多聞櫓の土台を平らにしていたといわれる。
二の丸から本丸への唯一の通路として、二の丸の東南端に鞘橋が架けられていて、
この橋を落とすことにより、本丸だけを守ることが出来るようになっていた。
説明板「鞘橋」
「 鞘橋の長さは三十一メートル、幅は三・五五メートルで、
切妻造りの屋根で銅板葺き、
切目のない腰板の付いた珍しい木橋で、北面に開戸が付いている。
鞘橋の名称は、屋根と側壁がある廊下橋の構造をしていて、
刀の鞘に見立てたことによる。
絵図によると、築城当初から同位置に架けられていたが、
当初はらんかん橋と呼ばれ、
1640年代半ばの絵図でも、らんかんが描かれており、屋根のない橋だった。
その後、文政六年(1823)の絵図では、屋根付の橋として描かれており、
江戸時代中頃に改修されたとうかがえる。
現在の橋は明治十七年(1884)、天守解体時に建て替えられたものと伝えられており、
大正期に、橋脚が木製から石製に替えられたことが写真から判明している。
昭和四十六年(1971)には老朽化による解体修理が行われ、
平成十八年から開始された天守台石垣の修理工事に伴い、
本丸側の一部が解体され、平成二十三年に修理された。
橋が架かっていた石垣が修理されたことに伴い、
解体前よりもやや全長が長くなっている。 」
鞘橋の東側(三の丸南西隅)の石垣は鋭角な角石垣になっている。
海辺を浚渫(しゅんせつ)して堀にしたため、石垣の地盤は弱いので、
石垣の角を直角でなく、七十五〜八十度の鋭角にして崩れにくくしているのである。
平成十九年(2007)から天守台の解体、補強、積み直し工事を開始され、
平成二十四年(2012)に天守台補強工事が完了し、
平成二十五年(2013)から天守台の一般公開を再開した。
本丸は面積が狭かったため、御殿などの居住施設はなく、
多聞櫓で囲まれた天守と地久櫓(ちきゅうやぐら)があるだけだった。
説明板「地久櫓」
「 地久櫓は本丸の南西隅の櫓で、
本丸内には天守と地久櫓以外には規模の大きな建造物がないことから、天守に次いて重要な櫓だったと考える。
建築時は不明だが、生駒氏時代から存在した櫓で、
十七世紀中頃の高松城下図屏風には、二重二階、屋根は瓦葺、
外壁は黒壁として描かれている。
明治時代の城内の建物が解体された中で、地久櫓も解体された。
なお、発掘調査で地下室が発見された。 」
本丸の一番奥にあったのが天守である。
「 天守台は本丸の東端に突き出していて、
三の丸の方から見ると天守が海上に浮いているように見えたという。
天守は独立式層塔型の三重四階、地下一階、
初層平面が東西十三間二尺(約26.2メートル)、南北十二間二(約24.2メートル)、
高さは十三間半(約24.5m)といい、
現存する高知城天守や松山城天守を凌ぎ、四国で最大だった。
また、四階平面が三階平面より大きいという、いわゆる唐造で、
一重目も天守台から外には張り出させ、石落としを開いていたと考えられる。
ほかに、一重目と二重目の比翼入母屋破風と唐破風、
四階の火灯窓などに特徴があった。
創建時の天守は下見板張りの黒い外観だったが、
寛文十一年(1671)の松平頼重による大改修の際、白漆喰総塗籠の天守に改築された。
天守は老朽化のため、明治十七年(1884)に解体され、
大正九年(1920)に松平家初代藩主松平頼重を祀った玉藻廟が建立されたが、
今回の天守台石垣の解体修復工事で、玉藻廟は解体された。
現在は天守台が復元され、展望デッキになっている。 」
二の丸に戻りすすむと、三の丸との間にあったのは鉄門(くろがねもん)である。 現在は門はないが、門跡の石垣を見るとかなりなものだったことが分かる。
「 二の丸から三の丸へは二間一口の櫓門の鉄門があり、
敵の侵入に備えていた。
鉄門の名は階下の柱や扉など、外側面に鉄板が一面に打ち付けられていて、
外側が黒塗りの板張りになっていることから付けられたという。 」
右側の内掘には玉藻丸乗船所があり、舟で内掘遊覧ができる。
ここには海に通じる水門がある。
公園の入口に「鯛願成就」の幟があったが、
ここではタイにエサをやることができ、
大願成就と掛け、願いを込めて投げ込めばご利益があるとのことだった。
「 江戸時代の高松城は、 内掘、中掘、外掘の三重の堀で囲まれていたが、明治初頭に外堀の埋め立てが行われ、 徐々に市街化が進み、現在約八万uのみが城跡に残っている。 城の北側も明治の度重なる築港工事に伴う埋め立て工事により、 海と接しなくなった。 現在、堀と海は唯一、堀の北側に通る国道30号の下に所在する水路でつながっている。 堀の水位は潮の干満で変わるが、水門により調整することも可能である。 海からの稚魚が潮にのって水門から堀に入り、 成長したタイ、スズキ等が泳いているのを見ることができる。 」
その先、右側にあるのは披雲閣庭園である。
大正三年から六年(1914-17)、
高松松平家第十二代当主松平頼秀が三の丸に披雲閣(ひうんかく)を建築した際、
東京の庭師、大胡助蔵により作庭された庭園である。
説明板「披雲閣庭園」
「 江戸時代の寛文十一年(1671)、
松平頼常による高松城の大改修の際、二の丸御殿の旧披雲閣が三の丸に移された。
その際、御殿の北部に小規模な築山や植え込みがなされた簡素な庭が造られた。
現在の庭園は一部江戸時代の庭園を残しながら作庭されたと考える。
北東から南西に流れる枯川と、北東に二ヶ所、西方に一ヶ所、披雲閣蘇鉄の間北側に一ヶ所の築山があり、
枯川の周囲には多くの石造物がある。
特に枯川の中程には一つの花崗岩をくりぬいて造った石橋、
披雲閣の書院北側には高さ二メートル、重さ二トンの大手水鉢がある。
庭木は香川県の風土を最も適したクロマツとウバメガシを用い、
また庵治石という名石を近隣に持っていたことから、
庭園には経路に沿って飛石が縦横に配置され、
建物の軒先には沓脱石や手水鉢、井筒等が配置されている。 」
三の丸には披雲閣と呼ばれる書院風建物の御殿があったが、
明治五年(1872)に老朽化によって取り壊された。
現在の披雲閣は松平家高松別邸として、
当時の金額で十五万円と三年の歳月をかけて大正六年(1917)に竣工したもので、
江戸時代の半分の規模である。
大正時代の建造物として、平成二十四年(2012)に国の重要文化財に指定された。
「 披雲閣本館は建築面積千九百十六平方メートルの和風木造建築で、
一部を二階建とするほか平屋建、
表玄関、蘇鉄の間、槇の間、松の間、桐の間、杉の間などの諸室を渡廊下で結び、
大小の中庭を設けた複雑な平面構成になる。
百四十二畳敷の大書院の他、槇の間、
蘇鉄の間などの雅趣を生かした部屋があり、
波の間には昭和天皇と皇后陛下が宿泊された。
昭和二十九年(1954)に城跡と共に高松市に譲渡され、
現在は貸会場として市民に利用されている。 」
披雲閣庭園東口を出て対面の石垣越しに見えるのは、
月見櫓、続櫓、水手御門、渡櫓である。
江戸時代、この石垣の北側まで海だった。
藩主は水手御門から小舟で出て、沖に停泊する御座船「飛龍丸」に乗船し、
参勤交代に使用したり、遊覧を楽しんだりした。
「 水手御門があるのは北の丸の隅である。 北の丸は寛文十一年(1671)に松平氏による大改修で、 御殿である旧披雲閣が三の丸に移されたため、 防衛上、東の丸とともに増設された曲輪である。 」
通路状の曲輪には、延宝四年(1676)に隅櫓として月見櫓が建てられ、
その後、海城に特有の水手御門(みずのてごもん)、渡櫓、鹿櫓が建てられた。
月見櫓は日曜日の九時〜十五時のみ公開されている。
月見櫓も渡櫓も国の重要文化財に指定されている。
説明板「月見櫓」
「 月見櫓は松平氏が入封後、
新たに海面を埋め立てて造った曲輪の隅櫓として、
延宝四年(1676)高松松平二代目、頼常の時代に完成したものである。
渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられた。
月見櫓は城主の船が着くのを見る「着き見」が由来ともいわれるが、
建築前はこれらの櫓の外まで海で、船からこの水手御門を経て、
直ちに城内に入れるようになっていた場所であることから、
月見櫓は海戸出入りの監視防衛のための櫓だったと思われる。
月見櫓の特色としては、内部に初層から三層の屋根裏まで通じる四本の主柱が中央に通っていて、
それに梁をかけて組み立てていることや外壁に装飾的な長押を廻していること、
軒は樽木型をのり出さず一連の大壁としていること、
月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造などが挙げられる。
昭和三十二年(1957)に解体復元作業が完了した。 」
水手御門は直接海に向って開く海城独特の門で、
全国で唯一残る貴重なものから国の重要文化財に指定されている。
月見櫓の海側を見ると、その先は水城通りで、報時鐘が見えた。
「 報時鐘は、初代松平藩主頼重が承応二年(1653)に城下の人に時を知らせるために建立したもので、 当時は外堀土手に建てられていたという。 江戸時代、このあたりはとのようになっていたのかは分からないが、 現在は埋め立てられて、陸地のなかに建っている。 」
北の丸月見櫓の反対側の隅には鹿櫓が建てられていたが、今は残っていない。
江戸時代にその先にあったのは東の丸である。
「 東の丸は、北の丸と共に造した曲輪で、 三の丸の東側の中堀から外堀の東浜舟入りまでの間に築かれた。 北東隅に三重の艮櫓、南東隅に巽櫓、 北側に近郊から納入の年貢米を保管する米蔵曲輪、 南側に作事丸(土木建築工事関係の倉庫や小屋)が建てられた。 明治以降、艮櫓の櫓台と石垣以外は埋め立てられ、 現在は香川県民ホールや香川県立ミュージアムなどが建っている。 」
月見櫓から三の丸に戻り、 披雲閣の先にいくと石垣の下に「桜御門跡」の標柱があった。
「 桜御門は生駒氏の時代は大手門だったので、
その石垣は、大手門(正面玄関)を飾るに相応しく、
化粧石らしき巨石をうまく配置していた。
高松城は明治二年(1869)の藩籍奉還に伴い廃城となり、
昭和二十年(1945)の高松空襲で三の丸の桜御門などが焼失した。 」
石垣修理の案内板がある。
「 桜御門石垣は昭和二十年の高松空襲を受けて焼失した際、
大きく熱を受け、痛みが進んでいた。
高松城の石垣は花崗岩を多用して積んでいて、桜御門を例外ではない。
花崗岩の表面は熱で劣化していたが、内部は問題ないので、
石をボルトやかすがいで結着することで、古い石を出来るだけ残し、
平成二十九年一月積み直し作業は完成した。 」
桜御門跡を入ると江戸時代には桜の馬場だったところである。
「 桜の馬場(帯曲輪)はその名のとおり桜が植えられ、
馬場があったところで、 本丸、三の丸の南を守る部分を桜の馬場、
本丸、二の丸の西を守る部分を西の丸と呼ばれ、
それらが連なりL字型になっていて、帯曲輪と呼ばれていた。
桜の馬場は、南、東、西とも中堀によって囲まれ、
生駒氏時代には三の丸に連結する土橋から東は対面所と下台所、
大手門から西には近習者の屋敷や局屋敷が並んでいたので、馬場はなかったが、
松平頼常が三の丸に豪壮な御殿(旧披雲閣)を造営した時、
桜の馬場のこれらの屋敷を取り壊し、
その跡地の広大な広場を馬場(藩士たちの馬の訓練場)にすると同時に、
地割り替えを行った。 」
桜の馬場の南西隅には三重櫓の烏櫓、東南隅に三重の太鼓櫓、
そして虎櫓などが建てられたが、
明治以降に帯曲輪の半分は埋め立てられ中央通りになっている。
烏櫓、太鼓櫓、虎櫓も壊されて建物は残っていないが、
現在、太鼓櫓のあったところには国の重要文化財に指定された艮櫓(丑寅櫓)が
建っている。
「 艮櫓(丑寅櫓)は延宝五年(1677)、
高松城の東の丸の東北の隅に建てられた三重櫓で、
北東の方角の丑寅(艮)に建っていたことから、艮櫓と名付けられ、
帆船が出入りする港を監視する役目を果たしていた。
この櫓は日本国有鉄道が所有し、東の丸跡の香川県民ホールの近くにあったが、
昭和四十年(1965)、高松市に移管され、昭和四十二年(1967)に現在地移築された。
その際、石落としの取り付けなどの関係上、建物を九十度回転させている。
櫓の一階隅部に大型の石落とし(袴腰型石落とし)が設けられている。
屋根は三角形の千鳥破風や中央部を上にふくらんだ円弧状とし、
両脇部分を凹曲線上に反転させた形の唐破がある。
屋根の破風に取り付けられた妻飾りの蕪(かぶら)懸魚や、
兎毛通(うけのとうし)懸魚が、火伏せのまじないとして取り付けられている。
鉄砲狭間は窓下の壁に設けられ、五寸(約15cm)四方の大きさで、
壁は白漆喰の総塗籠の防火壁でかつ、優雅な姿を見せている。
艮櫓の内部は一本の柱が三階まで通しになっている他、
一階から二階、二階から三階へと二階ずつ通し柱になって、全体を支えている。
階段は敵の侵入を防ぐため、階段の傾斜がきつく設計されている。
また、千鳥破風のある破風の間には採光のために格子が設けられていて、
有事の際には射撃の小陣地になる。 」
松平頼常による寛文十一年の大改修の際、
東南隅に三重の太鼓櫓の先に旭橋が造られ、ここは枡形の地形になっていた。
左側にある石垣の上に楼門があり、その先の高麗門の旭門とで、
敵を三方から攻撃できる桝形虎口を形成していた。
桝形北面には埋門(うずめもん)があり、防備上の配慮が施されている。
「 隠門(かくしもん)の別称があるように、 石垣をトンネル状に構築した珍しい門で、普段は通路として使用されるが、 戦闘時にはここを土砂などで埋めることを想定して造られた小さな門である。 石垣の間に、あるいは石垣に空けた穴に小さな門を造り、 上に土塀を渡した城門で「穴門」ともいう。 狭くて大軍が通過できないようになっていて、 枡形に入った敵兵を背後から攻撃したり 藩主の非常時の脱出口として、また、裏口として使用された。 」
生駒親正が築城した時、桜の馬場の南中(現在の南西隅)に大手門があり、
桜御門と呼ばれていた。
松平頼常による寛文十一年の大改修で、御殿の披雲閣が三の丸に移された時、
南正面の大手門(桜御門)は、内城域の正面となったため、廃止された。
中堀に架かっていた橋も撤去し、東の桜の馬場東端に旭橋、西側には翠橋(みどりばし)を架け、
三の丸への防備を固めた。
「 中掘に架かる旭橋は堀を斜めに渡る筋違橋(すじかいばし)といわれるもので、
橋を渡る敵兵は狭い橋上で縦に並ばされることになり、
それを城内から狙い打ちにする横矢掛けが出来る仕掛けになっている。
寛文十一年(1671)に架けられた橋は木橋だったが、
明治四十五年に石造りの石橋になった。 」
旭橋を渡ると新たな大手門の旭門があるが、 敵を三方から攻撃できる桝形構造の虎口である。
「 旭門は高麗門で、その先の右側に櫓門があり、桝形を形成していた。 高麗門は、親柱(本柱)の背後に控柱を立て、本柱の大屋根に直交するように、 それぞれの控柱上にも小屋根が載る形式で、屋根はいずれも切妻屋根となる。 」
旭門が東側の高松城見学の入口である。
そこを出て橋を渡り、最後に内掘と艮櫓(丑寅櫓)を眺めて、
高松城の探訪は終了した。
高松城へはJR予讃線・高徳線高松駅から徒歩約5分
高松城のスタンプは高松城東入口、同西入口、玉藻公園管理事務所にある
栗林公園
平成三十年(2018)三月七日、前日泊まった瓦町から琴電で一駅の栗林公園を訪問した。
「 栗林公園は紫雲山の東麓に位置し、 紫雲山を背景に六つの池と十三の築山を配し、四百年近い歴史を有する大名庭園で、 北庭と南庭で構成されるが、 北庭は檜御殿が建ち鴨場だったところを大正時代初期に宮内省の市川之雄の設計により、 近代庭園の様式を取り入れた庭園に改変されたのが、今日の姿である。 」
入場料を支払い、北庭に向うと、「鴨引き堀と小覗」の説明板があった。
「 江戸時代の北庭は群鴨池を中心とし、藩主が鴨猟をするための鴨塚として使われた。
明治末期からの北庭大改修の際、鴨場の施設はほとんどなくなったが、
平成五年(1993)に鴨引き堀小覗(このぞき)等が復元された。
復元された鴨場の小覗は覗小屋とも呼ばれ、鴨の様子を窺うものである。
全国で鴨引き堀のある鴨場は、宮内庁埼玉鴨場、宮内庁新浜鴨場、浜離宮恩賜庭園、
宇和島市の天赦園と本園の五ヶ所で、本園の幅二・七メートル、
長さ約三十メートルの鴨引き堀は日本で最大規模である。 」
その先に「北梅林」の説明板がある。
「 本園には約百七十本の梅の木があるが、 特に見どころは北梅林と南梅林、一月の下旬から三月上旬にかけ、 紅白色とりどりに咲き誇る梅の花は香りと共にいち早く水温む春の到来を告げてくれる。 」
訪れた日は天気も良く、梅の花が満開で、美しく、多くの人が訪れていた。
江戸時代初期の大名庭園の姿を今日に伝えるているという南庭に向った。
日暮亭(きゅうひぐらしてい)の説明板が立っていて、その先に建物が見た。
「 江戸時代、日暮亭という名の茶屋があったが、
明治三十一年(1898)に石州流の茶室として再建された建物である。
旧日暮亭は、高松藩松平氏二代藩主頼常の頃、
吹上げの水流に隣接して建てられた考槃亭(こうはんてい)が、
五代藩主頼恭の時代に西湖の近くに移築され、
日暮亭に改名された入母屋茅葺き屋根の大名茶室である。
建物は元藩主より無償で頂いた旧藩士が園外に移築したため、
現在の日暮亭が明治三十一年(1898)、茅葺き草庵型の石州流の茶室として建築された。
武者小路千家の官休庵の茶室の姿を保つ建物とされる。 」
栗林公園の前身の栗林荘は高松藩松平家十一代の藩主が国元の下屋敷として、
二百二十八年間使用された。
延享二年(1745)、第五代藩主頼恭が「名所六十景」を撰名し、作庭が完成したとされる。
講武しゃは藩政時代に武を練った場所で、扇屋原ともいう。
(注)しゃの字は木へんに射るという字で、ホームページ語にない字のため、しゃとした。
もと矢場御殿、馬場御殿などがあり、馬に乗って弓を射たと伝えられる場所である。
掬月亭(きげつてい)は、江戸初期の頃(1640年頃)に建てられた回遊式大名庭園の中心的建物で、
数寄屋造りの純和風建築で、茶室を備える。
「 もとは七棟の配置が北斗七星に似ていることから、
星斗館(せいとかん)と命名され、
歴代藩主が大茶屋と呼び、最も愛された建物である。
明治初年に北側の二棟が取り払われ、五棟になったが、
東南の南湖に突き出る棟の「鞠月楼」にあやかり、「鞠月亭」に改名された。
鞠月亭は四方正面の造りで、床を低くし、壁は少なく、
風通しの良い夏向きの建物である。
南庭の中心的な存在の亭内からの眺めは絶景で、開放感にあふれるとされ、
舟をモチーフにした部屋は、へさきの雰囲気を醸し出す。 」
掬月楼(きくげつろう)の名は松平頼恭が延享二年(1745)、
中国の詩人、千良吏の詩の一句 「 水を掬すれば月手にあり 」 からとって、
命名したとされる。
掬月亭の脇にそびえる根上り五葉松は高さ約八メートル、
幹の周りの太さは約三メートル五十センチにもなる松の巨木である。
「 天保四年(183)に高松藩九代目藩主、頼恕(よりひろ)が、 徳川十一代将軍の家斉(いえなり)からいただいた鉢植えの盆栽を庭に植えたところ、 大きく成長したものと伝えられている。 松が多い栗林公園でも五葉松はこの一本だけである。 」
掬月亭の西にある涵翆池(かんすいち)は翆(みどり)を涵(ひたす)という意で、
石組みの素晴らしい中島の瑶島(ようとう)の木々だけでなく、
背景となっている紫雲山の自然を含めた意図で命名したものである。
渚山(しょざん)は十三大山坡(だいさんば)のひとつで、
渚山には美しい松が植えられていて、
汀線は優美な曲線を描いて伸びている。
ここから南湖を望むと、右には掬月亭、左は飛来峰と偃月橋のほか、
多彩な南庭のみどころを一望出来る景勝地となっている。
松平初代藩主、頼重が正保四年(1647)、
京都から御庭焼として招いた紀太理兵衛重利(きたりへいしげとし)が焼いた九重塔が建っていた。
南湖と北湖をつなぐ掘割に架かる迎春橋を渡ると、
藩政時代には留春閣という建物が西にあり、
この橋の周りには桜の木が多く植えられていたという。
以上で、栗林公園の見学は終了。 栗林公園を回って感じたことは松が多く、
立派な松が多かったことである。
時間の制約があり、公園の全部は見られなかったが、
藩主が住む高松城の披雲閣庭園とはスケールの大きなや造園の素晴らしさで、
比べるべきもないと思った。
栗林公園へは高松駅からバスで20分、栗林公園下車、すぐ
琴平電鉄「栗林公園」駅から徒歩約10分、JR栗林公園北口駅から徒歩約10分