|
長屋門の前には「藩老桑折氏武家長屋門」の説明板と標柱が建っていた。
説明板「藩老桑折氏武家長屋門」
「 宇和島藩家老桑折(こおり)氏の長屋門を中央町一丁目の桑折医院から昭和二十七年に移築したもので、
その際、左側の長屋の大部分を切り取ってしまった。
門に向って右の部屋は厩で、左の長屋には門番と家付きの使用人、中間、小者が居住していた。
江戸時代中期の建築と推定され、かなり原形を失っているが、
往時の壮大な規模と構造の特徴を知ることができる。 」
桑折氏武家長屋門は、市の文化財に指定されていて、現在は間口十五メートルだが、
当初は三十五メートルの堂々たるものだったようである。
長屋門をくぐると石垣の一部が残っている。 「三之丸跡」の説明板がある。
「 内掘をめぐらし、周囲を石垣と土塁で固めた堅固な城で、 慶長六年(1601)から延宝四年(1676)まで御殿が置かれ、藩の中枢の場所だった。 御殿移転後は側室の休息所などに使われたが、文久三年(1863)に取り壊され、調教場になった。 明治以降市街化が進み、当時の面影を残すのは石垣のみになった。 この平場は三の丸南にある山里御殿に続き、御殿を見下ろす位置にあることから、 藩主など特定の人のみの専用道として使用されたと考えている。 郵便局に面する石垣は自然石を積み上げた野面積みで、 横幅一メートル前後の大平石を意匠的にちりばめた見せる石垣である。 」
登城道の石段に歴史の重みを感じながら上っていく。
その先には「井戸丸門跡」の標柱が建っていた。
そこを過ぎると「井戸丸跡」の標柱と宇和島城の井戸の説明板があり、その前に井戸があった。
「 この井戸は、現在の城山に残る三つの井戸のうち、 最も重要視せられたものである。 ここを井戸丸といい、井戸丸御門、井戸丸矢倉などがあって、 有事の時のため、厳重に管理せられていたと推量せられる。 井戸の直径二・四メートル、周囲八・五メートル、深さ約十一メートルである。 ここは城山の北側の谷の中腹、三の丸から登り道に当たり、数少ない城山の遺構の一つである。 」
三叉路で左折して上って行くのが本丸への道である。
「三之門跡」の標柱が現れた。 江戸時代にはここに大手三の門があったのである。
また、その先(南)に「書物矢倉跡」の標柱があったが、
江戸時代にはこのあたりから本丸帯曲輪になっていて、
その先には太鼓矢倉があったようである。
三の門を過ぎると上りだが、その先に「二之門跡」の標柱があり、
門のあったところにも「二之門跡」の表示があった。
「 江戸時代には二の門と地角矢倉があった。
宇和島市が行った発掘調査によると、「 二の門は礎石の一部が残っているものの、
門と想定されう場所は現在は石段になっており、
この改変は幕末なのか明治以降なのか不明である。 」
江戸時代には二の門を入ると狭いが、二之丸があった。 二之丸の説明板がある。
「 二の丸は天守が建つ本丸の最終防衛施設として、 眼下の雷門周辺に侵入した敵を攻撃するために築かれたもので、 帯曲輪と連結していた。 」
その先(二の丸北端)に矢倉跡を感じさせるスペースに、 「御算用矢倉跡」の表示があった。
宇和島市が行った発掘調査によると、 「 御算用矢倉と塀庇は宇和島城絵図と現存する礎石がほぼ一致したが、 これも幕末に改修、修理が行われている。 二の丸の幕末の改修、修理は数回行われているが、 安政二年(1854)に起きた大地震との関係が考えられる。 」
江戸時代には二の門をくぐるとすぐ左にUターンすると櫛形門の一の門があった。
現在石段を数段上ると「一之門跡」の標柱がある。
一の門をくぐると本丸である。 本丸は想像していたよりかなり狭い。
江戸時代、一の門の両脇には櫛形門矢倉と北角矢倉、御鉄砲矢倉、御休息矢倉が続いていた。
一の門の左側に礎石の一部が残る場所に「櫛形門矢倉跡」の標柱が立っている。
反対側には「北角矢倉跡」の標柱がある。
長方形で、少し高くなっているスペースには「御大所(台所跡)」の標柱が立っている。 、
ここは、藩主に出す料理が造られる場所である。
その先に礎石から大棟までの高さ十五・七二メートル、
独立式層塔型三重三階の天守閣が建っていた。
天守の入口は唐破風屋根で、開放的な造りの玄関が用いられている。
妻飾りには伊達家の家紋が付けられ、
上から「九曜」、「宇和島笹」、「竪三つ引」の紋が見られ、
屋根瓦にも「九曜」が用いられている。
外観は長押形で飾られた白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、優美な入母屋造で
南面と北面に二つ、西面に一つの千鳥破風を配している。
説明板「天守閣」
「 藤堂高虎が創建した望楼型天守を宇和島伊達家、
二代目藩主宗利が、寛文年間(1661-73)の城郭全体の大改修にあわせて、
当時最新式の層塔型に新造したのが現在の天守である。
各階の装飾性の高い飾り破風や懸魚、いずれの面も左右対称になるように配置された武者窓、
またその上下に廻されている長押などから、
太平の世を象徴するものとして評されるとともに、
小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、
非常に格式を重んじた造りになっている。
万延元年(1860)、昭和三十五年(1960)に大修築を受けたが、
現存する十二天守の一つとして、国の重要文化財に指定され、
往時と変わらない姿を伝えている。 」
天守閣の中は狭く、階段は急である。
「 廊下の内側に障子戸が残る形式は現存唯一とされ、また畳敷きの名残である「高い敷居」があり、
これらは簡略化されがちとされる江戸時代中期の天守に、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての古い意匠が用いられたとされる。
壁には狭間や石落としなど戦いの備えが一切なく、窓には縦格子があるものの、
五角形にして外を眺めやすくしている。
使い勝手や装飾が重視されていることから、無防備な太平の世の建築であるといわれるが、
実際は全ての窓の下の腰壁には鉄砲掛けがあり、
腰程の高さにあけられた窓から直接射撃を行う設計だったと考えられている。 」
下を見ると、本丸跡の先に宇和島の市街と宇和島湾が見えた。
「 江戸時代の宇和島城は東側に海水を引き込んだ水堀、
西側半分が海に接している海城であった。
本丸はリアス式海岸の宇和海の最深部に位置する標高七十四メートルの丘陵の上に築かれ、
本丸を囲むように中腹に二ノ丸、その北に藤兵衛丸、
西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸)を配置し、
麓の北東に三ノ丸があり、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた。
かっては総郭の約半分(西側半分)が海に接する海城であったが、
明治以降に埋め立てられて今は海から隔てられている。 」
天守を降りると、本丸の約半分で、石垣の改修工事が行われ、
石に印が付けられて地面に置かれている。
梅の花が満開できれいだった。
「 現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものだが、 縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。 五角形平面の縄張り、空角の経始(あきかくのなわ)は四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、 幕府の隠密が江戸に送った密書(讃岐伊予土佐阿波探索書)には「四方の間、合わせて十四町」と誤って記されたという。 」
本丸の奥には「御鉄砲矢倉跡」の標柱があった。
本丸を跡にして三の門跡に立つ。 石垣の先に天守が見え、絶景と思った。
「 本丸北石垣下の三の門は、その南(左)に本丸帯曲輪北端の書物櫓、
更に上の本丸縁の弓櫓とで、三方から敵の襲撃に迎撃するようになっていて、
藤堂高虎の巧みな縄張りである。 」
その先の三叉路で籐兵衛丸へ向う。
先程本丸へ向かう三叉路を反対にとると「雷門跡」の標柱が立っている。
その先の白い塀に囲まれた一角に、「籐兵衛丸矢倉跡」の標柱があった。
「 雷門は籐兵衛丸から本丸へ向かう門だった。
籐兵衛丸は城を守るために造られた出丸で、城番屋敷が建っていたところである。
籐兵衛丸の周囲は土塁でなく、石塁で囲まれていた。
その下の長門丸や代右衛門丸も石塁で囲まれていた。 」
現在ある城山郷土館は麓の山里にあった山里倉庫(武器庫)を移築したものである。
山里倉庫は弘化二年(1845)に建てられたもので、元は三の丸の調練場にあった。
その奥に「 穂積陳重、八束兄弟の生家長屋門」の説明板があり、立派な門があった。
「 穂積陳重、八束兄弟は旧宇和島藩士の出生で、 法学博士、東京帝国大学教授として日本の近代法学の開祖的業績をあげたという人物である。 この門は宇和島市中の町十一番地(現京町1番34)に天保十三年(1842)頃建てられたもので、 兄弟が幼年期を過ごした当時の建物である。 格子出窓は明治四年に改造された。 」
籐兵衛丸の石塁に沿って石段を下ると長門丸である。
坂を下りずに南に行けば代右衛門丸へ行ける筈だが、危険通行止めになっている。
「 宇和島城には本丸天守から原生林の中を抜ける間道が数本あり、
西海岸の舟小屋や北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。
長門丸は広いスペースで、児童公園と駐車場になっていた。
ここには下からの車道があった。 」
駐車場いたおじさんにこの先、苔が多くすべりやすいので、
道の中央を歩くようアドバイスをうけ、
宇和島城本丸への登城道の一つ、搦め手道を下っていく。
注意しながら降りていくと、左手に番号が振られた石を築いた石垣があった。
ここが式部丸だと思ったが、
傍で眺めていた人の話では数日後に完成後、番号が剥がされるとのことで、
貴重な機会にいたことになる。
途中に、幕末から明治にかけて活躍した宇和島藩八代目伊達宗城が祭神になっている
南予護国神社の社殿があった。
道を下ると上り立ち門があった。
「 薬医門形式の切妻、本瓦葺き、 丸瓦の先端には伊達家の紋章の一つ、丸曜の紋が付いている。 建造時期は定かでないが、城郭全体が修復された寛文年間(1661〜1672)と推定される。 」
門をくぐると伊達宗城侯像が建っていた。
「 宇和島城は明治三十三年(1900)頃から櫓や城門などが解体されたが、
天守と大手門(追手門)そして、上り立ち門と一部の石垣だけが残された。
昭和九年(1934)に天守と大手門が当時の国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されたが、
大手門は昭和二十年(1945)七月の宇和島空襲で焼失してしまった。
また、天守は昭和二十五年(1950)の新法により重要文化財に指定替えされた。 」
天赦園に向うと左に「菓子処畑田本舗」、その先の右側に宇和島東高校があった。
その先の交叉点を越えた左側に伊達博物館があり、その先に天赦園がある。
「 天赦園一帯は宇和島城の西南を囲んだ海だったが、 寛文十二年(1672)、 伊達氏二代目藩主伊達宗利の時、ここを埋め立て、居館と藩庁機能を持つ御浜御殿が造られた。 七代藩主、伊達宗紀(むねただ)は浜御殿の南寄りの一角に隠居所を造るため、 文久二年(1862)に工事を起こし、 同年十二月、潜淵館、明神楼、春雨亭、月見亭の建築が完成したので、居を移し、 南御殿といった。 翌文久三年(1863)年二月、時の勘定与力五郎左衛門に命じて庭造りに着工し、 慶応二年(1866)に完成し、天赦園と名付けた。 」
天赦園の名は、初代藩主秀宗の父である伊達政宗が隠居後詠んだ
「 馬上に少年過ぎ 世は平かにして白髪多し
残躯は天の赦す所 楽しまずして是れを如何せん 」
という漢詩から採ったものである。
書院式茶亭である潜渕館(せんえんかん)は、
宗紀が八代宗城、九代宗徳の背後にあって、
真の実力者としてしばしば家臣と会して、幕末維新の国事を論じた所で、
明神楼の附属建物として建てられた居宅である。
「 伊達宗紀はここで明治二十二年(1889)十一月百歳の天寿を全うした。 大正十一年、昭和天皇陛下が皇太子の時、天赦園にお越しになった折、御座所になった。 さらに昭和四一年(1966)には、昭和天皇、皇后両陛下がおいでになり、 この庭園を散策され、ここにお泊まりになったという。 」
天赦園は徳川末期における大名庭池泉回遊式庭園として、 国の名勝に指定されている。
「 樹林で大半が囲まれた大池は、園面積の三分の一を占め、
美しい池庭護岸石組のもとに、
そこに浮かぶ蓬莱島、東屋岬、交差した出島と顕著な陰陽石、
白藤太鼓橋を透す景観は何れの眺めからも絶景である。
また、池の西側対岸にはソテツのある山を設け、一枚の蓬莱石が配されており、
東屋岬から対岸へは大きい白藤太鼓橋が架かり、神仙・浄土の境地となっている。
これより少し北に子持ちの三尊石組があり、
さらに園北側に鬼門を飾る守護三尊石組がある。 」
東側の芝生には庭を眺める拠点だった明神楼があったが、 明治二十九年に取り取り壊された。 今は広々として、マツを数本残すのみである。
「 芝生南部は、この借景として鬼が城山系を見、
その源を想定した幽雅な枯川と、下流は大河となり大海に注ぐという、
雄大な枯流れを見せる独特の枯山水となっている。
川畔には選りすぐられた大きい拝石、子持石、獅子石、臥牛石、
起牛石や灯籠が配され見るものが多い。
北側芝生には潜淵館と近くの池辺に春雨亭(書屋)があり、
書院造系庭園の風景を見せている。
また花菖蒲園の近くには月見亭がある。 」
以上で宇和島城と御浜御殿の探訪は終了した。
宇和島城へはJR予讃線宇和島駅から徒歩約15分で登り口、登り口から天守まで約20分
宇和島城のスタンプは宇和島城天守(9時〜17時)にて