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城に向って内掘に架かる立派な道を進むと、正面と左右は多聞櫓がある石垣で囲まれている。
「 今治城は外掘、中堀、内堀と三つの堀に囲まれた海城だったが、
埋められず残っているのは内掘だけである。
内掘の幅は五十メートルから七十メートルで、
多聞櫓や武具櫓の石垣は九メートル〜十三メートルで、野面積みで築かれている。
石垣の下には細長い土地が石垣に沿って続いているが、
これは藤堂高虎が行った地盤強化策の犬走りと呼ばれるものである。
海岸に城を築くには軟弱な地盤だったので、
石垣の下に細長い面積を設け、補強したのである。 」
江戸時代には橋を渡ったところに高麗門があり、 門をくぐると右に曲がる枡形構造になっていて、 右側に三の丸表門である鉄御門があった。
「 多聞櫓と鉄御門に囲まれた枡形により、
敵は四方から攻撃を受けて壊滅するしくみだった。
鉄御門(くろがねごもん)は楼門といわれる構造も規模もしっかりしていた門で、
守りの堅い枡形虎口を守っていた。
現在の門は平成十九年(2007)に江戸時代の史実に基づき、
門と石垣そして隣接する東多聞櫓五棟ともに復元されたものである。 」
発掘調査で二つの礎石は検出された。
「 二つの礎石は鉄御門の正面鏡柱と背面控柱を支える礎石で、 梁間寸法五・七十メートルあった。 建て替える際、その石は脆いので使用せず、脇に展示した。 」
鉄御門をくぐると、正面に階段があり、 二の丸北隅の武具櫓に入れるようになっていた。
「 武具櫓は明治二年(1869)の廃城の際には残されたが、 明治四年(1871)に発生した火災の際、内部にあった火薬に引火し爆発炎上し、 破壊されてしまった。 現在の武具櫓は昭和五十五年(1980)に再建したものである。 」
木造建築の内部に入ると、格子窓は敵兵が頭を入れない大きさながら、
内部からは鉄砲や弓矢で攻撃できる幅になっていて、石落しも備えていた。
今治城の説明板があり、広場になっているところに藤堂高虎の像が建っている。
高虎の像が建っている広場が三の丸で、左側(東側)には側近の武士の屋敷があったようである。
その奥、吹揚神社の社務所のあたりが二の丸で、藩主の館が建っていた。
本丸跡には吹揚神社の社殿や猿田彦神社、吹揚稲荷神社の祠が建っている。
説明板「吹揚神社」
「 廃城後、市内より蔵敷八幡宮、厳島神社、夷宮を城内に合祀し遷座、
明治五年に旧城名をとり、吹揚神社と称した。
後に藤堂高虎と久松家祖神の平松定房を奉遷した。 」
「今治城の特徴は」という説明板があった。
「 @ 今治城の別名は吹揚城という。
城が築かれた場所が砂が吹き揚げた砂浜だったからである。
A 堀と石垣の間に犬走りがある。
犬が走れる程度の狭い空間という意味である。
敵に攻め込まれる時、足場にされる欠点があるが、
軟弱な地盤の上に高石垣を築く場合には石垣の基礎部分を固める有効な土木技術上の工夫である。
B 堀の水は海水である。
堀は北側の海と繋がっていて、海水の満ち引きによって、堀の水位が変わる。
鯛やヒラメ、よく目にするのはチヌとボラで、サヨリやうなぎ、海老類が生息する。 」
天守と接続する再建された門をくぐると、目の前に天守閣が現れた。
日本100名城の公式ガイドブックには下記のように記されている。
「 今治城の本丸には日本初の層塔型の五重天守が建てられた。
飾りの破風をもたず、各階を規則的に逓減させ、
内部には攻撃用の武者走りを巡らせた当時最新式の天守であった。
高虎が転封になった時、天守は解体され、徳川家に献上されて、丹波亀山城天守となった。
現在の天守は昭和五十五年(1980)に市政六十周年を記念して、
五層六階の鉄筋コンクリートで建てられたもので、
内部は歴史資料館と自然科学館になっている。
亀山城天守の外観を参考にしたとされるが、
亀山城天守が層塔型の構造で最上重の唐破風と入母屋破風のみであるのに対し、
再建天守は望楼型の構造で大入母屋破風を基部としており、
張り出しや出窓など亀山城にはない意匠が施されている。 」
今治城の天守については建てられなかったという説もあり、論争になっている。
「 建設派は、藤堂家の家譜「国史」巻二に、
「 城中に五層の高楼を建て、府下を五街に開き 」という記述があるのを根拠とする。
一方、天守は天守台と呼ばれる基壇を造り、その上に建てられるもののため、
城内に天守台の遺構が確認されないことから天守は存在しなかったという説を唱える。
その主張に対し、天守台を築かず本丸中央付近の地盤に直に基礎を敷き、
建てることで、より整形された矩形を造る必要があった層塔型天守の建造を可能にした、という説もある。
建造された後、天守が亀山城へ移築されたとする説は 「寛政重修諸家譜」の「 慶長十五年丹波口亀山城普請のこと
うけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、かの城にうつす 」という記述が根拠になっている。
このため、存在したとしても慶長九年(1604)に竣工し、
慶長十五年(1610)頃に亀山城に移されているので、
最長でも六年程しか存在していなかったことになる。 」
天守の最上階からは内掘その先に今治市街、 しまなみ海道の来島海峡大橋が見えるなど、瀬戸内海を眺望することができる。 また、反対側には西日本最高峰の石槌山もあった。
「 江戸時代の二百二十年間、
天守のない今治城の本丸には天守の代用とされた北隅櫓が建っていた。
千鳥破風が一つだけ付けられた北隅櫓は天守を意識した外観になっていたという。
本丸には北隅櫓の他に二基の二重隅櫓が建てられ、
多門櫓によって連結されていたといわれる。
築城時の天守の位置は本丸の中央付近にあったと推定されるが、
再建天守はその北隅櫓跡に建てられている。 」
藩主の住む二の丸の東隅に立つ二重櫓は御金櫓(おかねやぐら)と呼ばれた東隅櫓で、 昭和六十年(1985)に再建された。
「 御金櫓の名称は、 今治城の古絵図に東隅櫓の中に御金蔵という蔵が併設されていたことによる。 外観は今治藩医の半井梧庵が残した写真をもとに復元されているが、 再建時に本来なかった石垣の反りが施されてしまっているといわれる。 御金櫓の内部は郷土出身作家による現代美術館になっていた。 」
「 山里櫓は平成二年(1990)に再建されたもので、 武具や古美術品の展示場になっている。 」
今治城の搦手には馬出があり、城に入る橋は木の橋で、
敵が攻め込んできた時には橋を落すことができるようになっていた。
三の丸の入口には山里門があった。
現在再建された高麗門があるが、江戸時代には枡形になっていて、
その先の楼門と付櫓、山里櫓で守っていたと思われる。
山里櫓の前にある椰子があるあたりに江戸時代には山里という庭園があり、
これが櫓の名前の由来のようである。
橋を渡り内掘の外に出て振り返ると、
楼門に多門櫓がつながりその右に再建された天守閣とそれにつながる多聞櫓が見えた。
また、内掘から海につながる水路も確認できた。
以上で今治城の見学は終わる。
今治城へはJR予讃線今治駅から瀬戸内バスで約10分、今治城前で下車、徒歩約5分
今治城のスタンプは今治城天守(9時〜17時)にて