mrmaxの城めぐり 愛媛県3 (松山城)


松山城は勝山山頂とその山麓を占めた広大な城で、 日本三大平山城に数えられている。 
山頂の本壇にある大天守は現存12天守の一つである。
日本100名城の第81番に選定されている。  


かうんたぁ。




松山城

平成三十年(2018)三月六日、松山城を訪問した。 
平成十七年(2005)三月九日にも訪れたが、天守閣付近は修理中で、 中に入らず終わったので再び訪れた。 

「 松山城は、別名金亀城(きんきじょう)、 勝山城(かつやまじょう)ともいい、 松山市の中心部にある標高百三十二メートルの勝山(城山)山頂に本丸をおき、 西南麓に二の丸と三の丸を設けた広大な平山城である。 
日本三大平山城の一つに数えられ、現存十二天守の一つだが、 天守に葵の瓦があるのは松山城だけである。 
加藤嘉明は関ヶ原の戦いの戦功により伊予国を与えられ、 慶長七年(1602)に松山城の築城を開始した。  松山という地名は加藤嘉明が慶長八年(1603)、 この地を「松山」と呼ぶこととしたことにより始まる。 
松山城は加藤嘉明の手で、わが国の築城史上、 最長の四半世紀という歳月を要し寛永四年(1627)に完成したが、 加藤嘉明は城の完成をみる前に会津藩へ転封となった。 
蒲生忠知が城主になったが、参勤交代の途中で亡くなり、 跡継ぎがなく改易になった。  寛永十二年(1635)、久松松平家の松平定行が十五万石で松山藩主になり、 明治維新までの二百三十五年間にわたり、 親藩大名・松平家の居城となった。 」 

幕末に近い文久四年(1864)の「亀郭城秘図」によると、 平地の西南部に三之丸、その東に二之丸が置かれ、勝山の頂上に本丸があったことが分かる。 
三之丸は六メートルほどの高さの土塁で囲まれ、北と東に石垣造の虎口が開き、北麓には北曲輪、南東麓に東曲輪があった。  現在、愛媛県立美術館になっているところである。
現在、二の丸跡には二之丸史跡庭園が造られている。 
二之丸から本丸に到る道には登り石垣を築いて囲み、 丘陵斜面からの大手城道への侵入を防ぐ構造にしていた。 

松山城古図
松山城全体図




本丸には二之丸史跡庭園から歩いていくのがよいのだが、 時間の都合で東部の東雲口からリフトに乗り本丸を目指した。 
中腹の長者ヶ平でリフトは終了し、道なりに進むと右側は高石垣である。 
松山城の石垣は朝鮮出兵での倭城の経験がある加藤嘉明により、 ほとんどのものが築かれており、 特に本丸の高さ十四メートルを超える屏風折の石垣などは壮大なもので、 軍事目的を超えた芸術性をも楽しむことができる。 

説明板 
「 主に花崗岩が使用され、隅部は算木積み。  本丸を囲む高石垣は高さ十メートルを越え、 美しい曲線を描く扇勾配と屈折を連続させることで、防御性を高めた屏風折が特徴である。  江戸時代に改修された部分はあるが、 加藤嘉明による築城時に築かれた石垣は、ゆるい勾配と上部のきつい反り、 一部自然石を使用した打込みハギの乱積みである。 」 

その先に「待合番所」の説明板がある。 

「 待合番所は東雲口からの登城道と二之丸からの登城道の合流する地点に、 警備のために設けられたが、その場所ははっきりしない。  古文書には三人が詰めていたと記されている。 
この場所は東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、 大手の入口で堅固な筒井門に続く要点で、戦力運用の重要拠点ともなっている。  古文書では、揚木戸門から大手門までの石垣の上に六ヶ所の石落し、 七十ヶ所の鉄砲狭間、十一ヶ所の矢狭間が設けられた渡塀(土塀)があったことが記されている。 」

続いて「揚木戸門跡」の説明板がある。 

「 揚木戸門は築城時に建てられた。  西の大手門とともに本丸大手の入口を固める重要な門である。  古文書や古絵図には揚木戸一ノ門と記されている。 」 

「大手門」の説明板があった。 

「 大手門は慶長年間(1596-1615)の築城時に建てられ、 山麓にある二之丸および三之丸(堀之内)に通じる重要な門である。  古文書や古絵図には尾谷二の門、待合御門、待合一ノ門などと記されている。  明治時代に揚げ木戸門とともに取り壊された。 」 

その先にある両側の大きな石垣は大手門跡である。 

高石垣
     待合番所跡      大手門跡
高石垣
待合番所跡の案内板
大手門跡



その先、右折して上る道を直進すると平坦な道がある。 
江戸時代には大手登城道の太鼓櫓の石垣下に、中ノ門が設けられていたが、 明治時代に取り壊された。 
現在は「中ノ門跡」の説明板がある。 

「 この門を設けることで、攻めきた寄せ手は、 門を通り過ぎて直進する者と戸無門へ行く者とに分かれることになるが、 直進したものは乾門の下で行き止まりになる。  太鼓櫓から乾門へ続く石垣は屏風折と呼ばれる石垣が屈折している。  これは寄せ手がどこにいても、弓や鉄砲で攻撃できる「横矢掛」といわれる、 防衛上重要な構造である。 」 

ここをUターンして上ると戸無門(となしもん)がある。 

「 戸無門は本丸の大手登城道に設けられた高麗門である。  門は両脇の寄掛柱をもたせ、脇戸はない。  江戸時代から戸無門と呼ばれていて、鏡柱に肩肘壺の痕跡がないので、 創建当時から扉を持たなかったと考えられている。  建築年代は明らかでないが、寛永から正保年間(1624-1648)の建立になるものと、 推定される。  また、寛政十二年(1800)に建て替えられたことを示す棟札が残されている。  昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、昭和二十五年(1950)の法改正により、 国の重要文化財になった。 」 

戸無門を過ぎて左折すると、 大手道で最も堅固な筒井門と隠門の防衛線に達する。 

「 筒井門は大手から本丸への通路にある重要な門で、 その守りを固めるため、東と西に続櫓が置かれ、その奥に隠門が隠れている構造で、 筒井門は三之丸、二之丸から本丸に向う敵への大手の固めを構成する重要な門で、 城中最重要かつ堅固な所となっている。 」 

中ノ門跡
     戸無門      筒井門
中ノ門跡
戸無門
筒井門と続櫓、隠門



筒井門は脇戸付きの櫓門で、慶長年間(1596-1615)の築城に際し、 正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられる。 

「 筒井門は城内最古の建物の一つだったが、 昭和二十四年(1949)に放火により焼失した。 
昭和四十二年、四十三年に両側の石垣が解体修理され、 昭和四十六年(1971)に総て栂で復元された。  門戸には楠の一枚板が使用されている。 」 

筒井門の右側の石垣の先に隠門がある。

「  隠門(かくれもん)は、 正門である筒井門の奥の石垣の陰に隠された埋門(うずみもん)形式の櫓門である。 
戸無門を通過して、筒井門に迫る寄せ手の側面を急襲する策略が秘められている隠門は、 戸無門と同様の格子欄間で、脇戸を持たず、 扉の鉄板張りの中に潜戸を仕組など、規模は小さいが豪放な構えである。 
二階は筒井門続櫓と隠門続櫓とを結ぶ渡櫓となっていて、 門上の続櫓外部の下見張板や格子窓形式の突揚け戸などとともに、 築城当時の面影を見ることができる。 
慶長年間(1596-1615)の築城に際し建てられたと考えられる建物は、 創建当時の技法が残されている貴重な建物で、 国の重要文化財に指定されている。 」 

ここを過ぎると太鼓櫓と巽櫓の防衛線に達する。 

「 太鼓櫓、太鼓門、同南北続櫓と巽櫓は高さ五メートルの石垣に一線上に構築され、 太鼓櫓と太鼓門との間には二十四メートルの渡塀があり、 二十一の狭間と二つの石落しが用意されていて、 筒井門から本丸南城郭に侵入してくる寄せ手に備える第二の防衛線となっている。 」 

筒井門
     隠門      太鼓櫓と太鼓門
筒井門
隠門
太鼓櫓と太鼓門



大手口から侵入してきた寄せ手は正面の渡塀から射撃されるが、 本丸に行くには塀の前で右折し進むと、 その先にあるのが本丸の南東にある巽櫓と太鼓門である。 

「 巽櫓(たつみやぐら)は本丸の南東(巽)に位置する二重櫓で、 本丸下の東側通路の監視とともに、 太鼓門に到達した寄せ手の背後を攻撃できる位置に建てられていて、 一重目の南面に千鳥破風が付けられている。  築城当時に建てられたと考えられるが、昭和二十年の戦災で焼失したため、 巽櫓、巽櫓西塀は昭和六十一年(1986)に復元された。 
太鼓門は本丸大手の正門と位置付けされる脇戸付きの櫓門で、 大手方面の眺めのよいところに建てられており、 戦の合図のための太鼓が置かれたことからこの名がある。 
太鼓櫓と同続櫓は昭和二十年の戦災で焼失したため、 昭和四十七年(1972)に門は欅(けやき)、階上は栂(つが)で復元された。 
門の両側の石垣には戦災による剥離が残される。  戦後、太鼓門南続櫓跡には朝六時、正午、夕方六時の時報にあわせて、 音楽を流すミュージュクサイレンが設置され、市民に親しまれてきた。 
太鼓門の前は、巽櫓と太鼓門南北続櫓で、枡形が形成されている。 
巽櫓と同西塀(太鼓門東塀という)は長さ七・八二メートルで、 六ヶ所の狭間が備えられている。 」 

太鼓門をくぐると本丸である。 

「 本丸は高さ十メートルを越える高石垣に囲まれ、 南北約八十メートルから百八十メートルという全国有数の規模を誇る。  高石垣は美しい曲線を描く扇勾配と屈折を連続させることで、 防御性を高めている屏風折が特徴である。  その上に石落しや狭間のある渡塀(土塀)が巡り、また、要所には櫓が配置された。 」 

城下からは塀や櫓に囲まれた天守が望めた。 本丸広場の右手に井戸がある。 

説明板「本丸の井戸」 
「 この井戸は築城時に谷だった場所が埋め立てるのにあわせて、 泉を掘り下げ、石を積み上げて造られたと伝えられる。  深さ四十四メートル、水深は九メートルあり、戦前は釣瓶が備えられ、 冷水を汲み上げて飲むことが許されていた。  上屋は昭和二十年の戦災で焼失したが、昭和二十七年(1952)に再建された。  井戸には @ 底がない A 天守と二の丸への抜け穴がある B 大こうもりがいる C 水をきれいにするため大判、小判が投げ込まれている、などの伝承が残るが、 いずれも事実ではないことは分っている。 」 

筒井門
     隠門      井戸
太鼓門、続櫓、巽櫓
太鼓門
井戸



本丸広場の左側(西側)にある二重櫓は馬具櫓である。 

「 二之丸方面の監視、防衛を太鼓櫓と共に担っていた。 
この櫓は明治四十三年(1910)に松山公園として開園する直前、 管理人宿泊所として改善された。  昭和二十年の戦災により焼失した後、 昭和三十三年(1958)に本丸の防災ポンプ操作室として鉄筋コンクリートで再建された。 」 

西側の石垣は高さ約十三メートルで、太鼓櫓から馬具櫓を過ぎて、 紫竹乾門から東に北隅櫓、十間廊下、南隅櫓が石垣の上に一線上に繋がり、壮観である。 
紫竹門まで来ると、天守閣を中心に一周したことになる。 
本壇は紫竹門から北が半分で、南側には細長く空地が続いている。 

「 馬具櫓は太鼓櫓とともに二之丸方面を防御する二層櫓である。  昭和九年に国宝に指定されたが、昭和二十年の戦災により焼失した。  昭和三十三年に鉄筋で復元し、 今は松山城防災施設の総合操作室として使用されている。 」 

西側石垣は高さ約十三メートルで、太鼓櫓から馬具櫓を過ぎて、 紫竹門西塀に達し、複雑な屏風折が続く総矢掛となっている。 

「 古文書には石垣上に十三ヶ所の石落し、九十五ヶ所の鉄砲狭間、 二十五ヶ所の矢狭間が備えられている渡塀(土塀)があったことが記されていて、 重厚な防備がなされていたことがうかがえる。   なお、渡塀は明治時代に取り壊された。 」 

広場には松山城のキャラクター人形があり、その先に天守が聳えている。 

「 本丸北側には松山城の中心である連立式の本壇が配置される。 
本壇には天守と小天守などの中枢となる建物が配置され、 本丸広場より更に約八メートル高く、石垣が築かれ、 出入口は一ヶ所に限定されるなど、防備は厳重である。 」 

入城料を支払い、紫竹門(しちくもん)に行く。 

「 紫竹門は本丸の大手(正面)と搦手を仕切る脇戸付の高麗門で、 本壇北側にあった中仕切門とあわせ、搦手を守る重要な門である。 
門の両側には紫竹門東塀と紫竹門西塀が接続し、 寄せ手に備えるため、北を正面としている。 
門の前面(北側)、小天守下に紫竹が植えられていたことからこの名が付けられ、 また、扉の上下は堅格子となっていて、そこから外が見えるようになっている。  紫竹門東塀と紫竹門西塀とともに、創建時期は明らかではないが、 天明四年(1784)、落雷で天守と共に焼失し、 嘉永年間(1848-1854)に再建されたと考えられ、 国の重要文化財に指定されている。 」 
 

馬具櫓
     天守群      紫竹門
馬具櫓
天守群
紫竹門



紫竹門の両側には紫竹門東塀と紫竹門西塀が接続している。 

「 紫竹門東塀は本壇入口の石垣上に設けられ、 長さは十六・五七メートルで、十一ヶ所の狭間が備えられ、 紫竹門前面と本丸広場の二ヶ所に向けられている外面は下見板張で、内面は漆喰塗籠である。  花崗岩製の控柱は後で改修されたもので、 もとは親柱二本おきに木製の控柱が設けられていたと考える。 
紫竹門西塀は本丸西側石垣までの間に設けられ、長さは十四・五六メートルで、 十ヶ所の狭間が備えられていて、紫竹門同様、搦手に対する構えになっている。  壁は両面とも漆喰塗籠で、控柱は東塀と同様、当初は木製だった。  東西の続塀の狭間は、弓矢や鉄砲で敵を狙うため、正方形や長方形の形をしている。 」 

紫竹門東塀前を右折すると枡形になっていて、 正面は大天守正面にある渡塀の筋鉄門東塀で、 右側に一の門がある。 

「 筋鉄門東塀は、一の門や一の門南櫓と小天守とともに、 一の門前に虎口を形成する役割を担っていた。
一の門は天守に通じる本壇入口を守る重要な門で、 上方からの攻撃が容易な脇戸附高麗門で、 下が見通せる構造になっていて、敵の様子が確認できた。  本壇の入口にあるので、この名があり、木割も大きく豪放な構えになっている。 
一の門とその先の二の門との間は、枡形という方形空間になっていて、 小天守、一の門南櫓、二の門南櫓、三の門南櫓の四方から攻撃して、 丸殺しにできる構えになっている。  天明四年(1784)雷火により天守閣と共に焼失したが、天明六年(1786)に再建された。  国の重要文化財に指定されている。 」 

紫竹門東塀
     一ノ門      一ノ門
紫竹門東塀
筋鉄門東塀、一の門
一の門



一の門をくぐると石段が現れるので、上っていくと左側に二の門がある。 

「 高麗門の一の門から二の門にかけては、 本壇入口に位置する単層櫓の一の門南櫓、一の門東塀、 本壇の南東に位置する単層隅櫓の二の門南櫓、二の門東塀、 二の門と筋鉄門(すじがねもん)、 東塀に接する単層櫓の三の門南櫓で仕切られた枡形となっている。 
石段の上にある二の門は本壇における第二番目の門で、薬医門の形式を持つが、 堅固な面堅板製で突破するのは苦労するだろう。 
天守、三の門東櫓から射撃される構えになっている。 
天明四年(1784)雷火により天守閣と共に焼失したが、安政元年(1854)に再建された。  国の重要文化財に指定されている。 」 

二の門をくぐり、振り返ると左側に見えるのは二の門南櫓である。 
これまで少し経験してきたが、 本壇石垣の隅々には櫓が配置され、渡塀や多聞櫓などで接続され、 それらには石落、狭間、突揚戸が設けられている。 
出入口から天守に到るまでには、両側を石垣と櫓や塀での囲まれた中を幾つもの門をくぐりながら、 幾度も屈曲する道を経なければならず、 侵入した寄せ手はあらゆるところから狙い撃ちされる仕組みになっている。 
二の門を通り抜けると少し広い空間で、本壇東北隅には天神櫓がある。 

「 天神櫓は鬼門(北東)を守るため、 久松松平家の遠祖にあたる菅原道真(天満天神)像を安置し、城の安全を祈ったのでこの名がある。  本壇上の北から西かけての北東面の防衛ラインの拠点にあり、 艮櫓、艮門および小筒櫓を防衛する役割を持っていた。  社寺建築に用いられる正面扉様式である蔀戸(しとみど)を持つ本壇天神櫓は、 全国的にもあまり例はないといわれる。 昭和二十年戦災により焼失したので、 昭和五十五年に古い資料に基づいて再建されたものである。 」 

二ノ門
     二ノ門南櫓      天神櫓
二の門
(左)二の門南櫓(右)二の門
天神櫓



天守は目の前にあるがすぐには着かない。 

「 二の門から三の門へは天守からの攻撃に耐えながら、 Uターンして進む。 
本壇における第三番目の門である三の門は、脇戸を省略した高麗門で、 三の門東塀とともに、二の門内側や天神櫓前の本壇内庭の東側の防備を固めている。 
また、三の門南櫓、天守閣から射撃される構えになっている。 
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失したが、 安政元年(1854)に再建された。 国の重要文化財に指定されている。 
三の門をくぐったところにある三の門南櫓は、 一の門、二の門、三の門を防衛する役目を持つ一重櫓である。 
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失したが、安政元年(1854)に再建された。 
国の重要文化財に指定されている。 」 

三の門を通過すると大天守正面と筋鉄門東塀に挟まれた通路に至るが、 ここも枡形で、四方から攻撃を受ける構造になっている。 

「 左側にある筋鉄門東塀は大天守正面にある渡塀で、 一の門や一の門南櫓と小天守とともに一の門前に虎口を形成し、 一の門、二の門、小天守閣を防衛する役割を担っている。 
  天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。  国の重要文化財に指定されている。 」 

三ノ門
     三ノ門南櫓      筋鉄門東塀
三の門
(右側)三の門南櫓
筋鉄門東塀



天守に入るには櫓門の筋鉄門を突破しなければならない。 
筋鉄門は脇戸付きの櫓門で、 大天守と玄関多聞を繋ぐ内門とともに内庭防備の櫓門として設けられたものである。 

「 筋鉄門は天守中庭を防衛する重要な門で、 天守閣と小天守閣への通路となり、 三の門から侵入する敵の正面を攻撃する構えになっている。  門の柱に鉄板が張ってあるのでこの名がある。 
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。  昭和八年に放火により焼失した。 昭和四十三年にもとの姿に復元された。  国の重要文化財に指定されている。 」 

写真の正面が筋鉄門で、手前の左側に筋鉄門東塀があり、 その奥に小天守が見える。 
その先にあるのは「本壇」と呼ばれる天守曲輪で、 大天守と北隅櫓・南隅櫓・小天守の三棟を渡櫓(廊下)で連結し連立式天守をなしている。 」 

「 内庭は左に南隅櫓と小天守、右に天守閣で、 四方を囲まれたスペースで、四方から攻撃できる構造になっている。 」 

正面にあるのは内門、右側には天守への入場口がある。 

「 天守は、 約四メートルの高さの石垣(切石を隙間なく積み上げる切込ハギで造られる)上に構築されている。 」 

江戸時代の天守への入口は玄関多聞だったが、 現在は天守閣の下の穀物倉からになっている。 
玄関多聞は内門の左側(内庭の北面)にあり、向唐破風屋根で妻入りの建物である。 
江戸時代には天守への玄関だったが、今は入れない。 

「 玄関多聞は南隅櫓と小天守閣とを連結する建物で、 南隅櫓と紫竹門を防衛する。  天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。  昭和八年に放火によって焼失したが、昭和四十三年に復元された。  国の重要文化財に指定されている。 」 

筋鉄門
     内門      玄関多聞
筋鉄門
(左)内門(右)天守への入口がある
玄関多聞



玄関多聞の対面にあるのは小天守と多聞櫓と南隅櫓である。 

「 小天守は天守に次ぐ大きさの二重二階の櫓で、 一の門の枡形虎口を見下ろす位置にあるとともに、 本丸大手方面や紫竹門を監視する役割があり、 大手、搦手を防衛する絶好の位置にある。  二階全部と一階上部が塗籠め白漆喰の外壁仕様となっていて、 純白の外壁が大天守の黒塗りの板壁と対比して美しい。  慶長年間創建当時は着見櫓といわれていた。  天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。  国宝に指定される直前の昭和八年に放火によって焼失したが、 昭和四十三年に昔日の姿に復元された。 
小天守と南隅櫓とを連結する多聞櫓は、南隅櫓と紫竹門を防御する。 
南隅櫓は本壇の西南隅に位置し、乾門方面を防衛するとともに、 二之丸、三之丸を監視する二重二階の櫓である。 
天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建されたが、 昭和八年に放火によって焼失。 昭和四十三年に昔日の姿に復元された。 」 

南隅櫓と北隅櫓は天守における搦手方面の拠点となっていて、 二階の窓には格式を高めるため飾りの高欄があるが、 多聞櫓形式の十間廊下で結ばれている。 
加藤嘉明が建てた大天守は五層五階だったが、 寛永十九年(1642)、松平定行により、三層三階回廊付きの天守に改修された。  

「 松山城の本壇は二つの山の間の谷を埋めたてて造られたといわれる。 
松平定行が加藤嘉明が建てた大天守をやめて、三層三階回廊付きの天守に改修したのは、 本壇がある標高百三十二メートルの本丸広場の一部は谷を埋め立てているため 地盤が弱かったからとも、武家諸法度の意を受けて、江戸幕府に配慮したためとも、 いわれているが、理由は不明である。 
この三重天守は天明四年(1784)の落雷で、本壇の主要建物とともに焼失した。  その後、嘉永五年(1852)、石垣普請とともに再建工事を着手し、 安政元年(1854)に完成したのが現在の天守である。 」 

現在の天守は、連立式三重三階地下一階構造の層塔型天守である。  

「 本壇の高さは八・三メートル、その上に高さ二十メートルの大天守の建物が建つ。  八間×十間の切込みハギの石積み天守台の内側には地下一階が造られていて、 江戸時代には穀物倉だったが、今は天守への入口になっている。 
建築材料には樟や欅また栂など一級と呼ばれる木材が使用された。  外部は一階、二階に黒塗下見板張り、塗籠角格子の窓には突上げ板戸などを配し、 屋根には千鳥破風や軒唐破風が付れられている。  三階は白漆喰塗りで、格子がない引戸窓の外には外廻縁と高欄が付けられている。 」

多聞櫓と南隅櫓
     十間廊下      大天守
(左)小天守(中央)多聞櫓(右)南隅櫓
十間廊下
大天守



天守の内部に入ると各階に武者走りがあり、 その内側の身舎(もや)には天井を張り、鴨居と敷居で仕切られた畳が敷ける床板張りで、床の間が付けられていた。 
破風部屋には二つの鉄砲破風が付けられていた。 
なお、鯱を含め屋根は瓦葺で、屋根瓦には建造主の家紋である三つ葉葵が付けられている。
天守には松山城に関する資料や武器などの展示があった。 
南隅櫓と北隅櫓を結ぶ廊下は十間廊下と呼ばれ、多くの狭間が設けられていた。 
北隅櫓は城兵の刀や槍が保管するのに使われていたという。 
南隅櫓と小天守との間には白漆喰が塗られた分厚い戸があるが、敵の襲撃に備えた他、類焼を防ぐ目的があったという。 

武者走り
     破風部屋      十間廊下
武者走り
破風部屋
十間廊下



わが国最後の完全な城郭建築と言われる大天守の最上階からは三百六十度眺望がひらける。 
松山平野や瀬戸内海などを見渡すことができる。 下を見ると、本丸広場が見えた。 
下に降りて、内門から外に出る。 

「 内門は天守閣の西側に位置し、仕切門との間は枡形になっている。 
上の櫓は天守閣と玄関多聞の通路で、 天守閣および玄関多聞の戦力によって防衛される。  天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。  昭和八年に放火によって焼失したが、昭和四十三年に復元された。 」 

内門から外に出ると右側にある白壁の塀は仕切門内塀である。 

「 仕切門内塀は乾門方面に対し、側防の構えとなっていて、 本壇北側の石垣に面するとともに、南に折れ曲がり玄関多聞櫓まで達している。  天守の南西にあるこの塀は土台が木で出来ていて、 有事には切り倒して、外側に塀を落し、 本丸北曲輪や北隅櫓下の石垣を上ってくる兵を壊滅させる役割を持つ凄い塀である。  
  天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。  昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十五年に法が改正され、重要文化財になった。 」 
 

眼下の風景
     内門      仕切門内塀
眼下の風景
内門
仕切門内塀



その先にあるのが仕切門である。 

「 仕切門は天守閣の北側に位置し、 本壇内庭の北側の防備を固める脇戸付高麗門である。 
内門との間が枡形になっていて、天守閣、玄関多聞によって、 天神櫓前の本壇広場に対する防備を固めている。   天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失し、安政元年(1854)に再建された。  昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十五年に法が改正され、重要文化財になった。 」 

仕切門を出て、本壇の北東にある天神櫓の脇の石段を降りる。 
右手に艮櫓(うしとらやぐら)と艮門東続櫓がある。 

「 天神櫓は本壇の北東、艮門は本壇の東に位置する。  艮櫓と艮櫓続櫓は東面の防備を担当するとともに、 虎口として寄手から長者ヶ平から搦木戸門に、 あるいはまた絡手の乾門方面に敵兵がせまった時、この門から出撃し、 寄手の側面をつく戦法を考慮していたものである。  これらの建物は天明四年(1784)雷火のため天守閣と共に焼失したが、 昭和五十九年(1984)に古い資料に基づいて昔日の姿に復元した。 」 

仕切門
     石段を降りる      艮櫓と艮門東続櫓
仕切門
天神櫓脇の石段を降りる
艮櫓と艮門東続櫓



ここからUターンして本壇を回って、本壇の西北部にある野原櫓に向う。 
搦手から本丸下の東側通路に侵入しようとする敵のために、 前述した野原櫓が築かれている。 

「  野原櫓は本壇の西北石垣に面して建てられ、 大入母屋屋根の中ほどに二間半の二階を載せていて、 石落とし、狭間など加藤嘉明の築城当時の仕様がほぼそのまま残る建物である。   大屋根の上に造られた物見櫓から天守建築が始まったとする望楼型天守の論拠となる構造物で、 日本で唯一現存している望楼型二重櫓(ぼうろうがたにじゅうやぐら)である。 
本丸の西北方および北側を防衛する重要な二重櫓で、騎馬櫓ともいわれた。  慶長年間の建造物で、その構造は戦国時代における望楼の面影を偲ぶ遺構として、 昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十五年の法の改正により重要文化財となった。 」 

その先には乾門(いぬいもん)があり、 門に続く乾門東続櫓、同西塀があり、右手には乾櫓がある。 

「 乾門とその続櫓は本丸搦手防衛の重要な拠点で、 重要文化財の野原櫓とともに強力な防衛ラインを構築している。 
乾門は搦手からのなかで最も重要な構えを持つ脇門付きの櫓門である。 
慶長七年(602)に、伊予国正木城城主十万石の大名だった加藤嘉明が関ヶ原の戦いでの戦功により、 二十万石に加増され、松山城の築城に着手したが、 その際、正木城(伊予郡松前町)から移築されたといわれる。  昭和十年に国宝に指定されたが、昭和二十年の戦災で焼失したので、 昭和五十七年に古い資料に基づき復元した。 
乾櫓は古町口登城道が本丸に達する地点に設けられた、 本丸搦手(裏側)方面の防備のための二重の隅櫓で、 本丸の乾(北西)の隅の鈍角の石垣の上に建てられた鈍角の櫓である。  窓は格子、突上げ構造で、腰袴式ではなく出窓式の石落としが設けられている。   乾門からは石垣と塀、南櫓と小天守が迫るように見える。 
敵兵は乾門を突破してもそこから攻撃を受ける仕掛けである。 」 

乾門から東に北隅櫓、十間廊下、南隅櫓が石垣の上に一線上に繋がり、 壮観である。 
紫竹門まで来ると、天守閣を中心に一周したことになり、松山城の探訪は終了である。 


野原櫓
     乾門と続塀、乾櫓      北隅櫓、十間廊下、南隅櫓
野原櫓
乾門と続塀、乾櫓
北隅櫓、十間廊下、南隅櫓



松山城へはJR予讃線松山駅から伊予鉄道「道後温泉行き」で約10分、 大街道で下車、徒歩約5分、城山ロープウエイで約2分、 山頂駅から天守まで徒歩約10分   
松山城のスタンプは松山城天守にて 




ご参考  「松山城の歴史」 

「 松山城は加藤嘉明の手で、わが国の築城史上、 最長の四半世紀という歳月を要し寛永四年(1627)に完成した城で 加藤嘉明が会津藩へ転封後、蒲生忠知が城主になったが、跡継ぎがなく改易になった。  寛永十二年(1635)、久松松平家の松平定行が十五万石で松山藩主になり、 明治維新までの二百三十五年間にわたり、親藩大名・松平家の居城となった。 
明治維新で高知藩の管理になったが、明治三年(1870)、三之丸は失火により焼失、 明治四年(1871)には二之丸が失火により焼失。 明治六年(1873)には廃城令により、主に麓の城門、櫓、御殿などが売却され、 明治七年(1874)、本丸一帯が聚楽園という公園になる。 
二之丸と三之丸は明治十九年(1886)に陸軍省の管轄になり、 三之丸は松山歩兵第二十二連隊の駐屯地となった。 
現在、三之丸は堀之内という地名になり、合同庁舎などが建っている場所になっている。 
二の丸には松山市民会館や美術館などの公共施設と二之丸史跡庭園がある。 」 




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