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大洲城は江戸時代初期、藤堂高虎等により大規模に修築がされ、
大洲は伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄した。
内掘の外には二の丸武家屋敷があり、外堀には三の丸から搦手門(西門)があり、
三の丸南隅櫓が建っていた。
内掘を渡ると二の丸大手門(櫓下御門)があり、その先に二の丸大手曲輪があり、
その先に二の丸表御殿と二の丸奥御殿があった。
説明板「櫓下御門(二の丸大手門)跡」
「 この門は二の丸の表門にあたる櫓門で、門前の石垣で囲まれた部分だけでなく、
堀に架かる土橋の先まで塀で囲った枡形を持つのが特徴。
東向きの門の上には渡櫓があり、
門の南側と北側の石垣の上にもそれぞれ櫓が建っていた。
現在も石垣の一部が残っており、当時の面影をしのぶことが出来る。 」
二の丸だったところは交流広場になっていて、駐車場もある。 その傍にある白い建物は県指定文化財の下台所である。
説明板「下台所」
「 大洲城で現在も残る建造物は重文の四つの櫓とこの下台所のみである。
城内の食料庫としての機能を果たしていたといわれている。
建物の内部は一部二階建、切妻造、本瓦葺、桁行19.82m、梁間7.90mの大きさで、
外部は軒裏をふくみ漆喰塗込の建物である。 」
ここから本丸を囲む石垣と天守閣が見えた。
古い石垣の前に「二の丸御殿跡」の説明板がある。
「 御殿は城主が政治を行う表御殿と城主の住まいにあたる奥御殿に分れていた。 下の曲輪は表御殿、上の曲輪は奥御殿が建ち並んでいた。 」
また、白い建物があり、「御門番長屋」という説明板がある。
「 この建物は曲輪内の仕切りの門に附属する長屋である。 名前の通り門番が詰めていた建物で、外観は絵図をもとに再現した。 」
川の見えるところに「玉櫓跡」の説明板がある。
「 二の丸西隅にあるこの櫓は付櫓を伴う二層の櫓である。
この付近は肱川越しの攻撃に備え、特に強固な防備がしかれていた。 」
「鉄砲櫓跡」の説明板がある。
「 二の丸北東端にあるこの櫓は付櫓を伴う二層の櫓である。 川越の攻撃に備えた櫓で、その名称から鉄砲などの武器を備えていたと思われる。 」
北の菱御門(二の丸搦手門)跡」の説明板もあった。
「 この門は二の丸の裏門にあたる櫓門である。 ここから帯曲輪を通じて表御殿や城山の北側に巡る曲輪へ至ることが可能で、 大洲城の防衛上重要な門の一つである。 」
本丸は上段と下段に分れ、井戸のある下段の曲輪は井戸丸と呼ばれていた。
井戸丸の西側には本丸下段の門とそれに付随する多聞櫓が建っていた。
井戸丸の南側には独立した二層のかま櫓が建っていた。
現在「かま櫓跡」の説明板があるあたりに建っていたのだろう。
井戸は本丸にある唯一の井戸で、直径約三メートル八十センチあり、
国内でも最大級の本丸井戸として知られる。
その先の上り道を進むと「暗り門跡」の説明板がある。
「 この門は天守に至る最後の城門で、城内で最も大きな櫓門である。 現在と異なり、かっては門の正面に石垣が 立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていた。 通常の櫓門と異なり、折れ曲がり部分に渡櫓が覆いかぶさり、 文字通り内部はくらがりになっていた。 仮に門が破られても突き進んできた敵兵の勢いをそぎ、 暗がりの中で混乱しているところを攻撃するしかけになっていたとおもわれる。 」
大洲城は明治維新により廃城となり、 城内のほとんどの建築物が破却されたものの、 本丸の天守や櫓の一部は住民の力で保存された。 しかし、天守閣は老朽化により明治二十一年(1888)に解体された。
「 天守は本丸の南東隅に建てられ、北に高欄櫓、西に台所櫓を配置し、
渡櫓で連結した複合連結式層塔型四重四階の天守(間口六間×奥行七間)で、
中央付近に心柱が通され、それに伴い二階の床には吹き抜けが造られていた。
外観は下見板張りで、比翼千鳥破風、千鳥破風、向唐破風で屋根を飾り、
窓には連子窓が多用されたが、二階には華頭窓のみが並べられていた。
現在の天守は、明治時代の古写真と江戸期の木組み模型などを基に、
当時の姿を正確に復元したもので、
平成十六年(2004)に市民による寄付によって完成したものである。
天守閣の高さが石垣の上から十九・一五メートルあることから、
建築基準法で木造の建築が認められない大きさだったため、
国土交通省や県は建設を認めなかったが、二年近い交渉の結果、
保存建築物として建築基準法の適用除外が認められ、
往年の複合連結式による木造の天守群の復元ができたという。
今後木造で復元を計画している市町村には朗報である。 」
<天守閣の内部は木のかおりがまだ残っていた。
城の木組模型や復元までの過程などを紹介していた。
また、石落としや挟間などが復元されているので、
築城後はこんな感じだったのだろうと思った。
三階から見た風景は平山城なのでそれほど迫力はないが、
地元で富士山と呼ばれる山やうかい船が係留された肱川が見えた。
台所櫓は天守閣と渡櫓で連結している。
「 江戸前期頃建てられた台所櫓は安政四年(1857)の大地震で大破した。
現在の台所櫓は安政六年(1859)に再建されたもので、
その名のとおり台所の機能が付属しためずらしい櫓で、
籠城時に城兵のための台所として使用されるため、
一階の三分の一が土間になっているほか、排煙用の格子窓なども取り付けられている。
櫓の大きさは六間×四間と大洲城の櫓の中で最大規模のもので、
小天守とも呼ぶべき様相を呈している。 」
天守と渡櫓で連結している高欄櫓は創建された年代は不明だが、 絵図から江戸前期頃にはすでに建築されていたことがわかるという。 現在の櫓は安政四年(1857)の大地震により大破したため、 江戸末期の文久元年(1861)に再建されたものである。
「 この櫓の最大の特徴は二階に窓の外へ出るための廻縁(まわりえん)が設けられ、 そこに本櫓の名前の由来にもなっている高欄と呼ばれる手摺(てすり)が付けられている点である。 高欄は天守につけられるのが普通で、櫓に設置された例はめずらしく、 天守に次ぐ高い格式を備えた櫓と考えられる。 」
市のホームページによると、
「 このような高欄を付した櫓は全国でも現存しているのは熊本城宇土櫓(うと やぐら)と本櫓のみです。 」 とのこと。
台所櫓と高欄櫓は国の重要文化財に指定されている。
なお、台所櫓と高欄櫓は昭和四十五年(1970)に解体修理が行われた。 」 とあった。
城山の東南山麓、肱川左岸石垣の上に建つのは、 国の重要文化財に指定されている苧綿櫓である。
「 大洲城の創建については諸説あるが、 慶長元年〜元和二年(1596〜1617)にかけての造営と推定される。 苧綿櫓がそのころからあったかは不明だが、 加藤家所蔵の元禄五年(1692)の古地図には記されていることから、 元禄以前に存在していたことは明らかである。 現在の櫓は棟木にあるとおり大破したので、天保十四年(1843)に改築されており、 実戦的というよりむしろ装飾性が強く、袴腰形石落し、北側の出窓等に表われている。 石垣は安山岩を使用した割石、乱石積、法勾配及反り付きで、 鯱は大洲藩お抱えの瓦師、原八兵衛の作である。 」
苧綿櫓の下に説明板がある。
「 この櫓は天保十四年(1843)に再建されたもので、二の丸東の位置する。 二層二階建て、本瓦葺、桁行5.90m、梁間4.94mで、 北東隅にある石落しに格子窓が備えられているのが特徴である。 昭和三十四年の解体修理で洪水に備え、石垣が2.6mかさ上げされている。 」
苧綿櫓のあるこのあたりの二の丸は、
肱川に接している様子が苧綿櫓とその下の石垣から感じ取ることができた。
戦争がなくなった時代の城だからといえるが、
戦闘的には厳しい城だったのではないか。
肱川に降りてあるくと河岸は城の石垣とその上に渡櫓のようになっていた。
「 江戸時代、外堀の橋を渡ると三の丸搦手門(西の門)があり、
三の丸南隅櫓が建っていた。
三の丸南隅櫓は現存していて、国の重要文化財に指定されている。
この櫓は二重櫓で、三の丸の外堀南隅に位置し、創建年代は不明だが、
棟札により享保七年(1722)の火災で焼失し、
明和三年(1766)に再建されたことがわかった。
要所には栂(つが)を使用し、柱には松を使用しているが、
藩の財政難を反映して切組に役人工匠を使うなど、
費用を切り詰めて再建されたことが棟札から読み取れる。
内部には太鼓壁と呼ばれる防弾壁に竹筒などが埋め込まれ、
さらに、外部からは見えないよう漆喰で覆った隠狭間(かくしざま)が三ヶ所施されていて、
外壁に袴腰形の石落しが三ヶ所に設置されている。
現存する大洲城の四櫓の中で最も古い櫓で、昭和四十年(965)に解体修理が行われた。 」
現在、この対面には裁判所、検察庁があり、
三の丸南隅櫓は御殿様公園になっていて、旧加藤家住宅が移築されている。
大洲城へはJR予讃線伊予大洲駅から徒歩約20分
大洲城のスタンプは大洲城台所櫓入口(9時〜17時)にて