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能島には花見の時期に渡船が出るだけなので、
大島の宮窪地区に平成十六年に開館した、
全国初の水軍に関する博物館「村上水軍博物館」へ行った。
曇り空の下、やけに大きな建物で存在感がある、立派な三階建ての博物館である。
「 村上水軍は三島村上氏と呼ばれ、三家に分かれ、
来島、因島そして能島を本拠地にしていた。
来島海峡にある来島城を本拠にした来島村上氏は守護大名の河野氏と結びつき、
因島村上氏は大内氏、その後、毛利氏の有力な水軍となった。
ここ宮窪に本拠を置く能島村上氏は独立性が高く、特に村上武吉は大に従わず、
独自の姿勢を貫き通したことで有名で、司馬遼太郎の小説は有名である。
「 この海域は古代から瀬戸内航路の最も重要な航路の一つで、 宮窪瀬戸の東側で能島と鵜島とが流れをさえぎるような位置関係にあることから、 干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害となっていた。 このため、平時には通過する船に対して水先案内人として行きかう船を案内し、 帆別銭を徴収、室町期以降この地に能島城が築かれ、 この海域の制海権を掌握していた。 」
博物館前には宮窪で毎年行われる水軍祭の舟があり、
村上水軍が使用したものの復元とある。
沖縄のサバニに似た軽快に走りそうな構造と思った。
展示室には水軍の軌跡やエピソードなどが映像で分かるようになっている。
海賊の歴史と戦い形法などの展示は工夫があり、面白かった。
「 当初は帆別銭を徴収し、 従わねば舟に乗りこんで積荷を強奪する仕事を生業にしていたが、 中四国の豪族が淘汰され、大名になっていく過程で、 瀬戸内の海賊もその組織に組み込まれ、水軍となっていったということ。 平家と源氏との戦い、毛利の陶氏の宮島の戦い、信長の石山本願寺との戦いなどで、 各地の水軍が駆り出されて重要な役割を演じた。 」
展望室からは激しい潮流と能島が目の前に開けていたが、
曇り空ですっきりは見えなかった。
博物館には能島城の想像図(復元図)があった。
「 能島城には本丸、二の丸、三の丸、出丸などがあり、
中世の水軍城としても規模が大きいものだったといわれる。
兵士は能島だけでは収容しきれないので、周囲の島に分散していたようで、
隣の鵜島の住民はその末裔である。
また、能島には水が得られないことから近傍の鵜島や木浦から補給していたとされる。
弘治元年(1555)、毛利元就と陶晴賢の厳島合戦の時、
村上武吉は宇賀島をはじめ、周防海賊衆を壊滅させようと、
毛利方水軍の総大将として、僅か二十三歳で出陣し大勝。
その結果、能島村上氏は西は九州、東は塩飽諸島と瀬戸内西部を完全に押さえ、
海上交通を掌握し、地方の有力大名に肩を並べる海の大名として勢力を張った。
この頃が村上水軍の絶頂期である。
戦国時代の末期、村上氏は毛利氏に加担し、豊臣秀吉との戦いに参戦したが、
敗北を喫し、豊臣秀吉から海賊禁止令(1588年)が出され、
水軍の歴史は終わりを告げた。
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦で敗退した毛利輝元は、
周防と長門二ヶ国に減封されたので、村上武吉も輝元に従って周防国に下り、
能島城は廃城となった。 」
村上武吉は周防国大島和田の地で三年後に没したが、
村上氏は毛利藩の船奉行として明治を迎えている。
能島は江戸時代以降無人島となったため、
その城塞遺構はよく保存されている。
「 昭和二十八年(1953)、能島城跡は国の史跡となり、
昭和四十八年(1973)、愛媛県は「能島水軍の里」を設置し、
たびたび文化財調査等を行なってきた。
昭和六年(1931)には宮窪村の有志により桜が植えられた。
満開の時には花見船が運航される。 」
小生が訪れた時はなかったが、博物館の前から能島付近の潮流を眺める観光船が出ているようである。
現在、桜の木を切り倒して、和田竜原作の村上海賊の娘を基に
村上水軍城(本丸、二之丸、三の丸、東南出丸、吊り橋、鯛崎出丸)の再現を進める計画があるようである。
大三島(おおみしま)
天然塩で有名な伯方島の先にある大三島は、
元東京芸術大学学長、平山画伯の故郷で、立派な美術館が建っている。
それはともかく、小生が訪れたのは水軍や戦いの神として有名な大山祇神社である。
「 大山祇神社は伊予国一の宮に定められ、 官幣大社に列せられた四国唯一の大社で、 古来、日本総鎮守、三島大明神、大三島宮と称し、 歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く、 奈良時代までに全国津々浦々に分社ができた程隆盛を極めた。 祭神は大山積大神、またの名を吾田国主事勝国勝長狭命と称する。 天照大神の兄で、わが国建国の神であると同時に、 和多志大神と称される地神の海神兼備の霊神である。 天照大神の孫の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の妻、 木花開邪姫命(吾田津姫)は娘である。 」
大三島にあったことから伊予を支配した河野氏の庇護を受け栄えた。
境内は、日本最古の原始林社叢楠群に覆われている。
天然記念物「能因法師雨乞の楠」は樹齢三千年とあり、悠久の時を感じた。
また、神社創建者が植えた乎知命御手植えの楠は樹齢二千六百年である。
「 大山祇神社の本殿は三間社流造り、屋根は檜皮葺き、外部は丹塗の社殿で、
天授四年(1378)に再建されたとあるが、はっきりしたことはわからない。
切妻造りの拝殿は、慶長七年(1602)の造営で、ともに国重要文化財に指定されている。 」
境内は掃き清められて静寂そのもの。
それ程大きな声で話しているわけでもないのに、声が響くように感じられる。 まずは参拝を済ませる。
それからお目当ての宝物館へ。
大山祇神社は戦勝の神として信仰厚かったといわれるだけに、
河野氏を始め源氏やその他の武将に篤く信奉され、
歴史に名を残す人々の多くの甲冑や刀が奉納されてきた。
全国の国宝、重要文化財の指定を受けた武具類の八割が、
この大三島に保存されているとあるから、驚き!!
「 宝物館には、国宝の源義経奉納の赤絲威鎧兜大袖付や斉明天皇の禽獣葡萄鏡
、河野通信の紺絲威鎧兜大袖付など、多くの刀剣・甲冑が展示されていた。
館内は撮影禁止である。 」
刀剣好きの娘はこれが見たくて旅行に参加したので丹念に見て回っていたが、
小生には刀の種類や価値が分からないので、奉納した人物の名前を目で追っていた。
護良親王、木曽義仲、平重盛、鎮西八郎為朝、武蔵坊弁慶、和田小太郎義盛、
河野道時、河野道有、・・・・・・
そのどれもが見事な細工で彩られ、見るものを魅了する。
「 館内の小さな明かりに、はるか昔、熱き闘志を燃やし、
その名をとどろかせた男達の、時空を越えた浪漫がよみがえるようだ。
義経が奉納した赤糸威鎧兜大袖付−
鎧は戦いの後をとどめたかのようにほころび、しみがついたまま。
赤糸威は昔の色をかすかに留め、見ていると、鬨の声が聞こえてくるようだった。
義経の刀はなぜか悲しみを湛えているように見える。
弁慶の薙刀は、苦しみ多かった主君との日々を語りかけているかのようだ。
日本最古の大鎧は藤原純友の乱を鎮めた越智押領使好方の奉納である。 」
このように多くの刀剣があるのは武将や兵士が
出陣に際しての戦勝祈願や勝利の謝恩にこの神社に詣でて、
武具を寄進したからと、娘から教わった。
ゆっくりと閲覧して、千古の昔から現代に戻ってきた。
この後、小生はこの島にある唯一の温泉「多々羅温泉」に入り、
妻と娘はゆっくりと御昼寝を決め込んだ。
能島城へはJR予讃線今治駅から大三島行き急行バスで30分、石文化公園下車、
大島島内バスに乗り換え10分、村上水軍博物館下車
能島城のスタンプは村上水軍博物館(月休、9時〜17時、入館は16時30分まで)にて