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平成十七年(2005)三月九日道後温泉に泊り、翌十日道後公園(湯築城跡)を訪れた。
公園は湯築城だったところを公園にしたので、大変広く地形は直径約三百五十メートルのほぼ円形で、
中央部にある見晴らし台の丘陵は三十一メートルの高さである。
公園の道は湯築城の外堀に囲まれ、丘陵部を取り巻くように内掘が巡っている。
「 江戸時代の絵図から東側が大手、西側が搦手と考えられる。 南側の動物園跡地を発掘調査したところ、 上級武士の居住地の遺構が見つかったという。 発掘調査の資料を中心とした資料館と外観を復元した武家屋敷が公開されている。 」
訪れた時は梅の季節で賑わっていた。 土塁の石垣を見付けた。
また、内掘に橋がかかり、見晴らし台に行けるようになっていた。
城跡の北側には湯釜地蔵が祀られ、湯釜があった。
説明板には 「 湯釜は浴槽内の温泉の湯出口に設置するもので、
この湯釜は現在の道後温泉本館ができた明治二十七年(1894)まで使用されていたもので、
直径166.7cm、高さ157.6cm、花崗岩製である。
奈良時代の天平勝宝年間(749〜757)につくられたと伝えられ、
湯釜上部に書かれた宝珠の「南無阿弥陀仏」の 六字名号は河野通有の依頼により、
一遍上人が刻んだものといわれている。
湯釜本体に刻まれた温泉の効験に関する文は天徳寺の徳応禅師の撰文になるもので、
享禄四(1531)年、河野通直が石工を尾道から招いて刻ませたものである。 」 とある。
鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、河野通信の孫にあたる。
「 しまなみ海道にある大山祇神社は、 河野氏を始め源氏やその他の武将に篤く信奉され、多くの甲冑が奉納されてきた。 全国の国宝、重要文化財の指定を受けた武具類の八割がこの大三島に保存されているというから驚き。 宝物館には、国宝の源義経奉納の赤絲威鎧 大袖付や斉明天皇の禽獣葡萄鏡、河野通信の紺絲威鎧兜大袖付など、 多くの刀剣・甲冑が展示されている。 河野道時、河野道有も奉納している。 」
この神社にある宝しょう印塔三基は河野水軍の将、
河野通信の孫にあたる一遍上人が本殿再建の祈りをこめて建立奉納したものである。
河野通信は三島神紋流旗を奉納しているが、これも重要文化財である。
源義経を勝利を導いたのは河野通信が潮の変化を進言したことによるとされ、
戦功の恩賞として所領を安堵、さらに伊予国守護職に準ずる伊予惣領職が与えられ、
河野水軍として瀬戸内を把握した。
公園の北側に正岡子規を紹介する松山市立子規記念博物館がある。
道後温泉は三千年の歴史を誇り、聖徳太子も訪れたといわれる。
その温泉を象徴するのが道後温泉本館。
明治二十七年(1894)に建築された木造三階建ての建物で、夏目漱石の坊っちゃんにも登場する。
湯築城へはJR予讃線松山駅から市内電車「道後温泉行き」で20分、公園前駅下車、徒歩すぐ
湯築城のスタンプは湯築城資料館(9時〜17時)にて