mrmaxの城めぐり 愛媛県6 (湯築城)


湯築城はこの地を支配した河野氏の居城で、家臣団屋敷を城内に取り込んだ先駆的な平山城である。 
日本100名城の第80番に選定されている。 


かうんたぁ。




湯築城(ゆづきじょう)

平成十七年(2005)三月九日、湯築城に訪れた。 

「 湯築城は二重の堀と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的平山城の形態をなす。 
南北朝時代の始め(十四世紀前半)、河野通盛によって築かれたといわれ、 中世伊予国の守護河野氏の居城として約二百五十年間存続した。 
通盛の祖先には十二世紀末の源平合戦の際水軍を率いて活躍した河野通信や十三世紀後半の蒙古襲来の際活躍した河野通有がいる。 
風早郡河野郷(現松山市河野)からこの地に移った。 
築城に関する文献は残っていないが、 河野郡の居館が、寺(善応寺)となった時期や忽那家文書などから遅くても、 室町時代の建武年間(1334〜1338)には築城されたと推定される。 
戦国時代の天文四年(1535)に河野弾正小弼通直が湯付堀を築造し、 二重の堀を巡らしより堅固な城になった。  河野通直は讃岐から攻め込んだ細川氏との戦いに敗れ、城は一時占拠されたが、 守護職と共に湯築城を奪い返した。  しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動や内紛をくりかえし、 その地位は安泰ではなかった。  天正十三年(1585)、全国統一を目指す豊臣(羽柴)秀吉の命を受けた小早川隆景に、 湯築城を包囲され、 最後の当主通直(牛福丸)は降伏し、 四百年の長きにわたる河野氏の伊予支配に終止符が打たれた。  福島正則が城主となるが、天正十五年(1587)国分山城に居城を移したため、 湯築城は廃城となった。  なお、慶長七年(1602)に松山城が築城された際、 湯築城の瓦等の建材が流用されたことが発掘調査により判明しているという。 」 

湯築城跡は、明治二十一年(1888)に県立道後公園として整備され、 平成十四年(2002)、国の史跡に指定される。 平成十八年(2006)四月六日、日本100名城(80番)に選定された。 

松山城古図
湯築城跡(道後公園)図



平成十七年(2005)三月九日道後温泉に泊り、翌十日道後公園(湯築城跡)を訪れた。 
公園は湯築城だったところを公園にしたので、大変広く地形は直径約三百五十メートルのほぼ円形で、 中央部にある見晴らし台の丘陵は三十一メートルの高さである。 
公園の道は湯築城の外堀に囲まれ、丘陵部を取り巻くように内掘が巡っている。 

「 江戸時代の絵図から東側が大手、西側が搦手と考えられる。  南側の動物園跡地を発掘調査したところ、 上級武士の居住地の遺構が見つかったという。  発掘調査の資料を中心とした資料館と外観を復元した武家屋敷が公開されている。 」 

訪れた時は梅の季節で賑わっていた。 土塁の石垣を見付けた。  また、内掘に橋がかかり、見晴らし台に行けるようになっていた。 
城跡の北側には湯釜地蔵が祀られ、湯釜があった。 

説明板には 「 湯釜は浴槽内の温泉の湯出口に設置するもので、 この湯釜は現在の道後温泉本館ができた明治二十七年(1894)まで使用されていたもので、 直径166.7cm、高さ157.6cm、花崗岩製である。  奈良時代の天平勝宝年間(749〜757)につくられたと伝えられ、 湯釜上部に書かれた宝珠の「南無阿弥陀仏」の 六字名号は河野通有の依頼により、 一遍上人が刻んだものといわれている。  湯釜本体に刻まれた温泉の効験に関する文は天徳寺の徳応禅師の撰文になるもので、 享禄四(1531)年、河野通直が石工を尾道から招いて刻ませたものである。 」 とある。 

土塁の石垣
     内掘跡      湯釜
土塁の石垣
内掘跡
湯釜



鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、河野通信の孫にあたる。  

「 しまなみ海道にある大山祇神社は、 河野氏を始め源氏やその他の武将に篤く信奉され、多くの甲冑が奉納されてきた。   全国の国宝、重要文化財の指定を受けた武具類の八割がこの大三島に保存されているというから驚き。   宝物館には、国宝の源義経奉納の赤絲威鎧 大袖付や斉明天皇の禽獣葡萄鏡、河野通信の紺絲威鎧兜大袖付など、 多くの刀剣・甲冑が展示されている。 河野道時、河野道有も奉納している。 」

この神社にある宝しょう印塔三基は河野水軍の将、 河野通信の孫にあたる一遍上人が本殿再建の祈りをこめて建立奉納したものである。 
河野通信は三島神紋流旗を奉納しているが、これも重要文化財である。 
源義経を勝利を導いたのは河野通信が潮の変化を進言したことによるとされ、 戦功の恩賞として所領を安堵、さらに伊予国守護職に準ずる伊予惣領職が与えられ、 河野水軍として瀬戸内を把握した。 
公園の北側に正岡子規を紹介する松山市立子規記念博物館がある。 
道後温泉は三千年の歴史を誇り、聖徳太子も訪れたといわれる。 
その温泉を象徴するのが道後温泉本館。 
明治二十七年(1894)に建築された木造三階建ての建物で、夏目漱石の坊っちゃんにも登場する。 

しょう印塔三基
     子規記念博物館      道後温泉本館
大山祇神社しょう印塔三基
子規記念博物館
道後温泉本館



湯築城へはJR予讃線松山駅から市内電車「道後温泉行き」で20分、公園前駅下車、徒歩すぐ 
湯築城のスタンプは湯築城資料館(9時〜17時)にて   




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