mrmaxの城めぐり 大坂府3 (岸和田城)


岸和田城は、楠木正成の一族・和田氏が、当時、岸と呼ばれていた地に、 城を築き、根拠地にしたことから、岸の和田氏と呼ばれ、 岸和田の地名の由来になったと、伝えられている。
小出秀政が 続日本100名城の第161番に選定されている城である。 


かうんたぁ。




岸和田城

令和四年(2022)十一月十八日、岸和田城を訪れた。 
南海電車のなんば駅発九時二十五分の急行に乗ると、 二十五分で岸和田駅に着いた。
荷物を駅のロッカーに預け、岸和田駅西口から線路に沿った道を南に向って歩く。
岸和田駅南交叉点で右折して、府道39号を進み、城見橋交叉点で左折する。
突き当たりを左折して進むと、岸和田市役所に出る。
市役所前の市役所バス停前の植え込みに「史跡 岸和田城跡」の石柱が建っていた。
手前の交叉点に戻り、左折すると、金網越しに城が見えてきた。

城見橋交叉点 x 「史跡 岸和田城跡」碑 x 金網越しに城
城見橋交叉点
「史跡 岸和田城跡」碑
金網越しに城が見えた


その先の右側に二の丸公園があった。
中に入って行くと、隅櫓のような建造物がある。
石垣に「二の丸多聞」との表示があるが、これは公衆便所であった。
反対側には、岸和田市二の丸広場観光交流センター・市民道場心技館がある。
二の丸公園は岸和田城の二の丸跡で、その周囲は水堀で囲まれている。

岸和田城の歴史
「 建武元年(1334)、楠木正成の一族・和田氏が、この地に城を築いた。
当時の城は今の二の丸広場の海につき出た小高い丘にあり、 近くまで潮が差し入っていた。 
永禄元年(1558)、三好長慶の実弟・三好実休が入城し、 永禄三年(1560)に大規模な改修をしている。 
その後、細川晴貞、松浦氏、織田信張、蜂屋頼隆が城主になった。 
羽柴秀吉は、紀州根来寺討滅後の天正十三年(1585)、叔父の小出秀政を城主とし、 最初四千石だった石高を文禄三年(1594)に一万石、 翌文禄四年(1595)に三万石に増やした。 
小出秀政により、城郭が整備され、この年から五重の天守が築城が開始され、 慶長二年(1597)に竣工したといわれる。 
小出秀政・吉政・吉英をへて、松平(松井)康重が城主になる。 
「古今重宝記」には、松平康重時代に 「 其以前ハ二之丸石垣迄、汐(しお)差入リ芦原ノ所、段々ト海退ニ付、 当時ノ伝馬口ヨリ坂口御門迄新郭出来、町家等建候由、 夫(それ)迄ハ南大手ヨリ東大手ヘ往環之所、 当時ノ通リ往来ニ相成候 」と書かれている。
元和九年には紀州街道が整備され、また、堺口門、内町門、伝馬口門が造られ、 城の表玄関は北大手門(今の市役所別館の入口付近)に変えられた。 
その後、松平(松井)康映が藩主になるが、 元和五年(1619)、紀州徳川家が誕生し、家康の十男・頼宣が和歌山城に入城すると、 寛永十七年(1640)、岡部宣勝(のぶかつ)が六万石(のち五万三千石)で岸和田城主になる。
以来、明治維新に至るまで、岡部氏十三代が岸和田藩を統治した。  」

堀側には、左側に、河野繁子がある。 
 「 めぐりつつ登り来りし 高殿の俯仰の視野に花あふれたり 」
中央には皆吉爽雨の句碑がある。
「 城山へ かつ天守へと 登高す 爽雨 」
二人とも地元出身で、小生は知らない人達であった。
その右手には「伏見櫓跡」の説明板があった。

説明板「伏見櫓跡」
「 ここには伏見城から元和9年(1623)に移築された伏見櫓があった。  伏見櫓は、福山城に現存し、江戸城(皇居)の二重橋からも見ることができる。  他には大坂城、膳所城、尼崎城などにも存在したことが知られる。
これらの中で、江戸城と大坂城は、実際には伏見城からの移築ではないようだが、 上記の城をみると、初期徳川政権は戦略上重要な城に対し、 公儀の城である伏見城から櫓を配置していることがわかる。  こういった状況下で、徳川将軍家から岸和田城にこの櫓が下賜されたという事実は、 当時の畿内における岸和田城の重要性が際立ったものであることを示しており、 天守に比肩する格式を持っていた。     」

二の丸多聞 x (左)観光交流センター(右)心技館 x 伏見櫓跡説明板
二の丸多聞(公衆便所)
(左)観光交流センター(右)心技館
伏見櫓跡説明板


二の丸跡の道を挟んだ反対が本丸で、周りを水掘で囲んでいる。
入口には「猪伏山」と「千亀利城」の行燈がある。
その先に復元された櫓門がある。
右手には復元された多聞櫓と隅櫓があった。
土橋を渡り、大手門(楼門)をくぐると、石垣の上に岡部氏記念碑があり、 その先に小天守と天守閣があった。

「 天守は天正十三年(1585)、 小出秀政を城主とし、秀吉によって城郭整備された時に、 築かれたが、文政十年(1827)に落雷により、焼失した。 
現在の天守閣は、昭和二十九年(1954)に建築されたもので、 三層三階建てである。 
以前建っていた天守は、絵図などに五層天守が描かれているので、 当時のものを復元したものではない。  」

その前にある庭園は作庭家の重森三玲による、枯山水・八陣の庭である。

「 昭和二十八年(1953)に作庭された砂庭式枯山水庭園で、 三国志の諸葛孔明の八陣法をテーマにしたとされ、 中央の大将と先端の天、地、風、雲、鳥、蛇、龍、虎の各陣に石組みが配されている。 
平成二十六年(2014)に国の名勝に指定された。 」

大手門 x 小天守と天守閣 x 八陣の庭
大手門(楼門)
隅櫓
小天守と天守閣 (前) 八陣の庭


天守閣の入口で、入場料300円を払い、中に入った。
入口に続日本100名城のスタンプがあったので、捺印した。
内部では常設展「岸和田藩と岡部家」が展示されていて、 岡部家から委託された品物が展示されていた(室内撮影禁止)

「  岡部氏は今川氏の家臣であったが、桶狭間の合戦で主君今川義元が討たれた後、 武田氏に仕えたが、武田氏も滅亡、徳川家康の家臣になった。
徳川家康の信頼が厚かったようで、丹波国亀山・福知山・美濃国大垣城主などを経て、寛永十七年(1640)に岸和田藩六万石として、入城した。
岸和田は、天下の台所の大坂に近く、大坂湾岸の南の防衛線として、 重要な地であった。  城構えからみても、大坂防衛の役割を担っており、参勤交代でも 岸和田藩主と尼崎藩主がともに国元に不在とならないように配慮されていた。  」

岡部宣勝が、岸和田城に入城したのは、 紀州の徳川頼宣(よりのぶ)に異心があるとして、そのおさえのためだったといわれる。 
紀州藩主・徳川頼宣は、浪人を多く召抱え、 慶安四年(1651)の由井正雪の乱ではその関係を疑われた。 

「  ある時、江戸城で、徳川頼宣が岡部宣勝に出会った際、頼宣は  「 君が和泉に居(お)られるのは、我らのおさえのためだと聞き及んでいるが・・・ 」 と問うたが、 宣勝は 「 大身(たいしん)のあなたをおさえるなど、とんでもないことです。  せいぜい足の裏に飯粒が付いたくらいのことでしょう 」 と答えたという。 
紀州藩のお目付役の宣勝は、岸和田藩を飯粒にたとえながらも、 小藩の意地を通したもので、 これを聞いた頼宣は唖然(あぜん)としたと伝えられている。 」

天守閣の上から関空などの遠景、そして、八陣の庭が見えた。
岸和田城は、明治維新で、櫓・門など、城郭施設を自ら破壊したため、 近世以前の構造物は、堀と石垣以外には残存していない。
天守を降り、大手門から外に出て、本丸の水堀を反時計まわりで回った。
隅櫓の右側に多聞櫓が続いているが、下をみると水堀に面して犬走りがあり、 裏の岸和田高校前まで続いていた。
道の右側に駐車場があるが、ここは岸和田城のあぶみ郭(馬出郭)跡である。
垣根の金網前に「岸和田藩薬園跡」の説明板があった。

説明板 市指定史跡 「岸和田藩薬園跡」
「 この場所は、岸和田岡部家第9代藩主岡部長慎(ながちか)が命じて作らせた 薬園跡である。 幼い頃、病弱だったとされる藩主のために、 あぶみ郭(馬出郭)であるこの場所に、様々な薬用植物が栽培されていたようである。 こういう背景から、長慎は本草学(今でいう薬学、動植物学、鉱物学) に理解があった。 <
隠居後、本草学における第一人者であった小野蘭山が行った研究内容を出版する費用 について、藩費で負担している。 こうして出版された「重訂本草網目啓蒙」と 「頭譜」は本草学書としてはじめて日本で広く普及し、本草学の発展に大きく 寄与した。 さらに長慎は隠居後、藩校の講習館を建てるなど、 教育政策にも力を注いだ人物であった。 」

八陣の庭 x 隅櫓の下に犬走り x 駐車場(あぶみ郭跡)
八陣の庭
多聞櫓の下に犬走りが続く
駐車場(あぶみ郭跡)


その先左折すると岸和田高校であるが、水掘の先には天守閣があり、 石垣の下の犬走りはこのあたりは幅が広くとられていた。
さらに行くと右側に和風建物と庭園があり、五風荘とある。

説明板「五風荘」
「 寺田財閥の寺田利吉が、旧岸和田藩主の新御茶屋などに、 昭和12年から3年の歳月をかけて造営した大邸宅である。
建物の延べ床面積は約300坪あり、木造階建てである。  昭和前期、日本建築の職人技術の粋と、 全室空調管理という当時の先端技術を集めた近代和風建築で、 木材は節のない最上質なものが使われている。  本来の正門は北側にある南木門で、 この門は奈良東大寺塔頭中性院から移築したものである。
南木門という名前は、岸和田にゆかりがある楠木氏の楠の文字をもじったものと言われる。
当時の金庫(非公開)が現在も蔵に置かれており、屋久杉の天井、規格外の大きな建具 などに歴史を感じさせる。
五風荘には客人をお茶でもてなす機能と寺田家の居住域機能とがあり、 ハレとケの空間が建物内に表現されている。 」

岸和田高校を通り過ぎると、岸城神社の鳥居が建っている。
その奥には本殿が見えた。

説明板「岸城神社」
「 岸和田城・三の丸に鎮座し、御祭神は天照大神・素盞鳴尊・品陀別命の三柱。  村・町・浜方三郷を氏地とする岸和田総鎮守。 旧・郷社。 岸和田祭発祥の宮。 
天照皇大神は往古より当地の産土神で、 現・境内地は慶長2年(1597)の小出秀政による  岸和田城天守竣工の頃に整備され、厄病退散に神威を発揮する素盞鳴尊(牛頭天王)が祀られると共に、品陀別命(八幡神)も併祀された。 
宮寺・日光寺(廃寺)の文書には、素盞鳴尊は正平17年(1362)に京都・感神(八坂神社) より勧請され、当初は隣邑地域に祀られたとある。  御宮の名称d崇敬された当社は、明治初年に岸城神社と改称。  宮座が現存し、旧暦では6月、8月、11月の13日に、新暦では月遅れで祭祀が営まれる。 例祭は9月15日。 神賑行事として各町から曳き出された地車は、 旧北大手門から城入りし、当社に宮入りする。 」

岸和田城の見学は終了なので、岸和田駅に戻り、南海電車の空港急行で関西空港へ 向かった。
空港には食事処や売店が多くあると思ったが、予想に反した。
日航ホテルのレストランで食事を取り、PEACH航空が出るビルに移動し、 15時10分発成田空港行きに乗り、16時30分に成田空港へ到着した。
成田空港は名古屋から米国に乗り継ぐ時利用したが、 国内線として始めての経験であった。

成田からは京成電車に乗り、六時半頃船橋に着き、今回の旅は終了した。

水掘の先に天守閣 x 五風荘 x 岸城神社
水掘の先に天守閣(下)犬走り
五風荘
岸城神社


岸和田城へは南海電車難波駅から岸和田駅まで30分、関西空港駅から15分、 岸和田駅から南へ徒歩約15分 
南海電車藁天神駅からは徒歩約10分
関西空港から阪神高速で15分、岸和田南ICを降りる



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