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一筆啓上茶屋前の駐車場に車を置き、歴史民俗資料館の脇の石段を登ると、
一寸とした広場があり、一角に丸岡城八幡神社が祀られている。
その先の入城券売り場で入城料を四百五十円支払う、
これは丸岡城、歴史民俗資料館、一筆啓上館の入場料だが、少し高いなあと思った。 100名城のスタンプはここの奥の休憩室にある。
その先が本丸だが、その先に天守が見えた。
「丸岡城天守閣 重要文化財 別名霞ケ城」と書かれた石碑があり以下のことが記されていた。
「 天正三年(1575)、織田信長が北陸地方の一向一揆の平定を期し、 豊原寺を攻略した。 信長は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊を豊原寺に派遣し、城を築かせた。 天正四年、勝豊は豊原城を丸岡に移した。 これが現在の丸岡城になる。 (中略) 本城は二重三層、外観は上層望楼を形成し、 通し柱をもたず、初重は上重を支える支台を成す。 構築法、外容ともに古調を伝え、屋根は石瓦で葺き、基礎の石垣は野面積み、 これはわが国城郭建築上現存の天守閣の中で、最古様式のものである。 」
石垣の高さは六メートルである。
野面積みの石段の石は小振りだが、天守が小さいので、バランスがよいと思った。
天守へ続く長い石段は急で、四十度もある。
石段の途中に石垣が残るが、ここに附け櫓があり、
天守の入口があったという説がある。
天守内の展示に城の模型があるが、それによると数重の堀が築かれ、
五角形をした内掘は幅は広く、その外の三の丸は武家屋敷、
その外は城下町を形成していた。 内掘内には本丸と二の丸のある平山城。
別名、霞ヶ城は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。
「 天守の高さは七十二尺六寸(約十二メートル)と、 入母屋の上に望楼を載せた天守で小振りだが、 一層目の入母屋破風、最上階は四方に窓が設けられて、四方が見張り台の機能を持ち、 北東の上杉軍を監視できるしくみ。 天守内の床は板張りで、丸岡城は戦う城として造られている。 」
丸岡城は大入母屋の上に望楼を乗せただけの天守であることから、
日本で現存する最古の天守と呼ばれ、
一重目の大きな入母屋破風や柱や長押を白木のまま見せる三階などが,
天守の古風な格式を高めている。
中に入ると、一階は約四十一・四四坪(百三十七平方米の広さで、
外側の一間は武者走りで、壁面に四角い箱型の狭間、格子の窓が交互にある。
格子窓の外の戸は棒で突き上げる古風の造りである。
南北西の中央には石垣より外に突き出た格子を持つ出窓の石落しがついている。
これは明り取りだけでなく、戦いでは弓を射たり、
鉄砲を打つのに使う目的だったと考えられる。
武者走りの内側は身舎(母屋)といい、約二十坪(約66u)の長方形で、
四部屋分の広さがあるが、敷居も鴨居も引戸も入っていない。
身舎の中央に天守を支えるちょうなで削ったような荒けずりの太い柱が六本立っていた。
一階から二階に行く階段は急で、補助用にロープ状のひもが付けられていた。
案内人によると、当時は階段ではなく、はしごだったので、足指が前に出せるので、
今より登りやすかったという。
二階は一階を土台として建てられ、
四隅の柱も中央の二本の柱も一階からの通し柱ではない。
大きさは一階の三分の一の十二坪(43u)で、武者走り(入側)はなかった。
二階の東西には一階屋根の破風を利用した狭い部屋があり、
南北には古風な切妻屋根の出部屋が造られている。
出部屋とは敵と戦う者が籠る場所である。
二階から三階への階段の角度は想像できないような急な六十七度、
背後は壁で、利便性は考えられていない。 敵兵の侵入は難しい。
三階も二階と同じ十二坪(43u)で、床は板張り、武者走り(入側)はない。
柱や長押を白木のまま見せる古風な造りになっている。
「 天正十年(1582)の清洲会議により、
柴田勝豊は近江国長浜城に移された。
丸岡城は安井左近家春、青山修理亮宗勝、青山忠元、今村盛次などが一時これを支配し、
その後、本多成重以下四代の居城になったが、元禄八年五月、有馬清純の入封以来、
明治維新に至るまで八代にわたって、有馬家が領有することになった。
平章館(現在の平章小学校)の創始者、有馬誉純(5代)は文教政策に力を注ぎ、文教の礎となる。
明治三年三月の版籍奉還後、同四年九月官有となり、さらに民有に移り、
明治三十四年八月、町有になった。
その間、周濠は埋められ、城門、武家屋敷等の建物は売却あるいは譲渡され、
現在は天守閣とその付近の石垣の小部分を残存するだけである。 」
天守閣は昭和九年に国宝に指定されたが、 昭和二十三年(1948)の福井震災により倒壊するも、 昭和二十五年に国の重要文化財に指定され、翌二十六年、復元に着手。 用材の八割近くは古材を使用し修理し、昭和三十年(1955)に復元が完了した。
「 四方に大きく開かれた窓があるが、 その際、最上階の窓が引き戸から突き上げ窓(蔀戸)に改変された。 廻り縁も新設、当時はそこに腰屋根が掛けられて、 雪除けと腐敗防止が図れていたという。 」
窓下に小学校の校庭が見えるが、そこが二の丸跡という。
天守の約六千枚の屋根瓦は粘土瓦ではなく石製である。
「 付近の笏谷石(しゃくだにいし)で造られたもので、 一枚の重さは約二十キロ〜五十キロで、 天守に石瓦を使用した現存例はここだけということだった。 寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる。 」
天守を下から見上げると、天守の一階は塗籠と下見板張で、
石落しと狭間が見える。
天守台に接するところには天守台を覆い被せるような腰屋根が掛けられている。
これは一階の建物が天守台より小さく、雨水が跳ね返り、外壁に当る工夫で、
当初の天守最上階にも同様なものが付けられていたと考えられている。
天守に多くの狭間が設けられていて、二階だけでも十六、合計三十七の狭間がある。
格子窓と狭間により、敵に対しどこからでも攻撃できる仕組みになっている。
使用できそうもない高い場所の狭間があったが、
これらは守りが堅固というイメージのため設けられた見せかけの狭間のようである。
本丸の巽(たつみ)に雲の井があり、その傍らに有馬勝利が雲井神社の小祠を祀った。
現在のは再建されたもの。
天守の石段近くにお静慰霊碑があるが、築城の際の悲話が残されている。
「 丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、 人柱を立てることとなった。 城下に住む貧しい片目の未亡人、お静は息子を士分に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出た。 その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、 天守の工事は無事完了した。 しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を士分にする約束は果たされなかった。 それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという。 毎年四月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、 人々はそれをお静の涙雨と呼んだ。 」
訪問当日、神官と地元民が神事を行っていた。
年二回、丸岡城八幡神社、雲井神社、お静の慰霊を参拝するのだということだった。
丸岡歴史民俗資料館には歴代藩主関係の歴史資料などが展示されているが、
わざわざ訪れる程のものではない。
一筆啓上館は日本一短い手紙で町おこしをし、
送られてきた手紙を公開する施設になっている。
「 徳川家康譜代第一の功臣で、
鬼作左と呼ばれた本多作左衛門重次が、陣中から妻に宛てた
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな、馬肥せ」と送った手紙は
手紙の手本として有名である。
文中のお仙とは嫡子仙千代で、
後の福井藩主松平忠直に仕え、幾度の戦いで武勲を立てた初代丸岡藩主の本多成重のことである。 」
丸岡城へはJR北陸本線福井駅から京福バス「本丸岡行き」で約40分、丸岡城下車、すぐ
丸岡城のスタンプは丸岡城入城券売場に置かれている。
東尋坊
丸岡城を見学した後、東尋坊を訪れた。
東尋坊は悪事の限りをつくした平泉寺の僧、東尋坊に由来するという話が残る。
「 困り果てた平泉寺の僧達は相談し、 東尋坊を海辺見物に誘い出すことに成功した。 そこでたらふく酒を飲ませ、酔って眠ったところを絶壁の上から海へ突き落とした。 東尋坊が波間に沈むやいなや、 それまで太陽の輝いていた空はたちまち黒い雲が渦を巻きつつ起こり、 青い空を黒く染め、にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え、 東尋坊の怨念が突き落した恋仇の真柄覚念も絶壁の底へと吸い込んでいった。 以来、毎年東尋坊が落とされた四月五日の前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、 荒波が立ち、雷雨は西に起こり東を尋ねて平泉寺に向ったという。 」
小生は三十年以上も前に数回訪れている。
当時、テレビの推理ドラマのフィナーレに犯人が罪状を告白する場面として登場していた。
落ちると命がないという絶壁が写し出されていて、そのイメージも作用してか、
かなりスリリングな場所だったという記憶があったが、
今回訪問すると観賞タワーが建っていたりして、
風景がかなり変わったという印象を受けた。
最近、NHKのタモリの番組で、
「 高さ約二十五メートルの岩壁が続く東尋坊を構成するのは、
輝石安山岩の柱状節理で、これほどの規模を持つものは世界に三箇所だけで、
国の天然記念物及び名勝に指定される。
千二百年〜千三百年前の新生代第三紀中新世に起こった火山活動で、
マグマが堆積岩層中に貫入し、冷え固まってできた火山岩が日本海の波による侵食により、
地上に現れた地質上極めて貴重とされる。 」 と放送されていた。
タモリの博学には何時も感心する。
東尋坊の岩壁を構成する五−六角形の柱状の割れ目は柱状節理であることを確認すると、
崖下への恐怖心は消えていった。
昨今観光地は外国人に占領されている感があるが、当日は少なく、
大阪を中心とした関西の人が多いと思った。
当日の宿はあわら温泉のまつや千千である。
「 あわら温泉は明治十六年に開湯した温泉で、 低湿地で灌漑用の井戸を掘っていた農民が、 うすい塩水を含んだ80℃の湯を掘りあてたのが始めという。 ナトリウムカルシウム塩化物泉で、温泉療法医が勧める名湯百選に選ばれている。 湯を共同管理し、各旅館に供給する温泉地が多いが、 あわら温泉は各自源泉を所有する方式なので、 所有する源泉により成分が微妙に違うという。 」
泊まったまつや千千は北陸最大のスケールの源泉大浴場、
大露天風呂を売り物にしている。
大きすぎて自分の存在が小さすぎると感じた。
仲居が若いイケメンのだったのには驚いた。
京都出身と言っていたが、なぜ当地で働いているのか気になった。
料理は良かったが、部屋食のせいもあったか、次の料理が出てくるのに間が多いのは問題である。
改善されるように望みたい。
東尋坊へはえちぜん鉄道三国駅からバスで15分