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福井城の敷地は二キロメートル四方に及び、五重の水堀が囲む本丸北西隅に
天守曲輪と天守台の二段の石垣を積んで、望楼型四重五階の天守が建てられた。
江戸時代、内堀にかかる御本城橋を渡ると桝型をした瓦御門があり、
その先に広大な本丸御殿が建っていた。
写真の石垣は瓦御門の一角であろうか? 「本丸御殿跡」には県庁が建っていた。
結城秀康の銅像がある。 傍らの石碑に「 結城秀康は柴田勝家に始まる城下町の大改造に着手し、
都市としての福井の原形を作り、今日の福井市発展の礎となった。 」 とあった。
県警本部は「表舞台跡」に建てられている。
県警本部の建物前を北に行くと、江戸時代には左手に山里口御門があり、 その先の内掘に渡御廊下橋が架かっていた。
説明板「山里口御門」
「 山里口御門は廊下橋御門(ろうかばしごもん)、
天守臺下門(てんしゅだいしたもん)とも呼ばれ、
福井城本丸の西側の入口を守る門である。
本丸の西に繋がる西二の丸には江戸初期から松林があり、
城内にあってのどかな山里の風趣を味わえる遊興の場であり、山里丸と呼ばれていた。
山里口御門はこの山里丸から本丸への入口の門として、
城の創建当時(1606年)につくられた。
寛文の大火(1669)で、天守閣や櫓とともに焼失しましたが、その後、再建された。
現在の中央公園の場所に御座所があった松平春嶽などの時代には、
藩主が御座所から御廊下橋を渡り、
山里口御門をくぐって本丸へ向かったと考えられている。 、
現在は当時の枡形石垣が残るとともに、石垣に柱の跡や屋根の傾斜跡が残っていて、
これを手がかりに復原工事が進められている。
なお、廊下橋はすでに完成している。 」
平成二十六年から平成二十九年まで山里口御門の復元工事が行われていて、
櫓門、廊下橋などが復元され、枡形が整備される予定で、
訪れた時は工事の最中だった。
右手の石段の先が天守櫓台で、本丸の北西角に位置する。
石段を上がると右手に井戸があり、「福の井」とあった。
石垣の前に「天守閣と福の井」という説明案内板がある。
「 ここは福井城の天守閣跡である。
福井城はもと北ノ庄城と称され、慶長六年、
福井藩祖徳川秀康が之を改築して、ここに天守閣を築いた。
爾来、明治維新まで約二百六十年、当城は福井藩主松平家の居城であった。
ここにある井戸は福の井と称せられ、当城改築以前からここに存し、
名井戸として知られていた。
寛永元年(1624)、当地の名称、北ノ庄が福井に改称されたが、
その由来はこの福の井の名に因んだものと伝えられる。
この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがある。 」
このあたり一帯は福井城内堀公園として整備されていて、 ここは天守台の上である。
「 福井城の天守は、天守台も含めて約三十七メートルの高さで、
外壁は白漆喰総塗籠の仕上げで、
最上重には外廻り縁高欄と西面に向唐破風があり、
元和大坂城天守に見られるような配置に破風が並べられていた。
残されている天守絵図によれば、外観は四層であるが、
最上層の階高を高くとって、二階分の床を張っており、内部は五階になっている。
絵図では高さが約二十八メートル、天守台を含めると約三十七メートルにもなる。
今に残る天守台と控天守台には大きな礎石が並んでおり、
天守台の北半分に天守閣が建っていたのだろう。
寛文九年(1669)に焼失した後は、
藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることなく、
その時類焼した本丸南西隅の二重巽櫓を三重で再建し、天守の代用としたという。 」
左側の両側に石垣があるところが天守があったところである。
石段を上って見ると広い空地で子供が遊んでいた。
「 明治維新後、福井城の建物は本丸御殿の一部が、 市内足羽5丁目の瑞源寺本堂及び書院に移築されたが、 その他の建物は廃却され、外掘も埋められた。 」
眼下には復元された御廊下橋が見え、
堀の向うには福井神社があり、松平春嶽像がある。
本来なら御廊下橋の下に水があるのだが、工事で水は抜かれていた。
また、城の北側を少し行ったところには、
松平家の別荘だったところに養浩館庭園があり、隣に福井市郷土歴史博物館がある。
天守跡の対面にあるのは控天守台である。
説明板に 「 この控天守台跡の石垣には、 福井震災(1948年6月)等による崩壊の跡が残っています。 悠遠の時の流れに思いをはせることができます。 」 と書かれていた。
天守の先の道を下ると、「石垣に残る塀の痕跡と刻印」という説明板がある。
「 下から三段目の石にみられるハの字の形の溝は、 ここに取り付いていた塀の屋根の垂木あるいは屋根瓦が食い込んでいた跡です。 一段目の右に彫られた十字形の印は刻石といいます。 石を切り出したり、納入した石工の目印、 あるいは石段を築く時の目安などといわれています。 」
福井空襲や福井地震で福井城は全てなくなったと思っていたので、
天守の石垣を見ることが出来ただけで満足した。
福井城へはJR北陸本線福井駅から徒歩5分
福井城のスタンプは福井県庁1F受付にある。
県庁休館時は、押印済みの用紙が山里口の櫓門2Fに置かれている
北ノ庄城
福井駅北西の駅前商店街の奥に鳥居があるのは柴田神社である。
鳥居を通り抜けて、反対の大通りに出ると、
「北の庄城址、柴田公園」の石碑が建っている。
奥には「瓶割り柴田」と称された柴田勝家の銅像があり、
左手には柴田神社の社殿と北ノ庄鎮守稲荷大明神の祠があった。
槍を持つ堂々たる姿の柴田勝家像はまさに「鬼柴田」である。
「 織田家筆頭家老の柴田勝家は、
越前国の戦国大名、朝倉氏を滅亡させた功により、
織田信長から越前国四十八万石を与えられ、
天正三年(1575)、北ノ庄に九階の天守閣を持つ日本最大の城を築いたとされる。
柴田勝家によって築城された巨大な近世城郭、北の庄城は、
ルイスフロイスの記録によると、
「屋根は丸岡城と同じく石瓦葺(福井名産の笏谷石)で、
街の規模は安土城の二倍はあった」という。
本能寺後の天正十年(1582)の清須城での清洲会議で、勝家は秀吉と対立し、
翌天正十一年(1583)、賤ヶ岳の戦いに敗れ、勝家は北の庄城まで撤退するも、
秀吉軍に城を包囲されてしまう。
追い詰められた勝家は自ら城に火を放ち、妻のお市と共に最後を遂げた。
ここはその北の庄城の跡地である。 」
柴田神社周辺は柴田勝家が築いた北の庄城(1575-1583)天守閣跡と伝えられるが、
後に北ノ庄に入った結城秀康が跡地の上に近代城郭(後に福井城と改名)を築城したため、
柴田氏北ノ庄城の遺構は殆ど残っていない。
「北の庄城址」碑の裏側に門の礎石らしき跡がある。
説明板によると、 「 福井城 三の丸南曲輪にあった「日向門」の礎石がここから見つかったため、 礎石の痕跡を標示している。 」 とのこと。
勝家公銅像の向かい側に、大きな穴の中に石がいくつか露出している部分がある。
説明板によると、「 これが北の庄城の石垣と堀の遺構で、
発掘調査で出土した北ノ庄城の堀跡とのこと。
発掘調査により、この石垣は本来は高く積まれていたが、
江戸時代、結城秀康の福井城築城に際し、取り除かれ、
石垣の礎石のみ残ったと考えられる。
石垣はここより南でも発見され、石垣の前面は掘が広がっていた。 」 と、ある。
柴田神社拝殿下の石垣は発掘された状態で展示されている。
「 この石垣は福井城の三の丸の南に位置する曲輪の南西にあたり、
当時は今の石垣よりさらに数段高く積まれていた。
堀はここより西の約百五十メートル続き、堀の幅は約十八メートルあった。 」
「柴田勝家 お市の方 三人娘」 の説明板がある。
「 北近江の戦国大名だった浅井長政(小谷城主)に嫁ぎ、 三人の娘を産んだお市の方は浅井氏滅亡の際、小谷城から逃れ、 信長の元で暮らすも、清洲会議後に柴田勝家と再婚し、 三人娘と共にここ越前北ノ庄城で暮らしたという。 」
お市の方の銅像と「北の庄城 お市の方 殉報将士慰霊碑」があり、
三姉妹の像と三姉妹神社の祠があり、若い人たちのお参りが多いようである。
なお、福井鉄道福武線公園前駅の北法にある西光寺は勝家とお市の方の菩提寺。
また、同線本田四ツ辻駅の北法にある自性院はお市の方の菩提寺である。
九十九橋(つくもばし)は北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋である。
「 朝倉時代からあったが、柴田勝家が半石半木の橋を架けたと伝えられる。
江戸前期の「越前国地理指南」では 「 大橋長八拾八間、幅三間、板橋四拾七間、
石橋四拾一間 」 と記されている。
架け替えは江戸時代に十回以上行われ、明治七年(1874)に半石半木の橋として、
最後の架け替えが行われた。
明治四十二年(1909)に木造トラストの橋に架け替えられた。
ここにあるのはそれをイメージして公園に設置されたもので、
欄干の部分は往時から残された旧石材である。
なお、現在の九十九橋は鉄筋コンクリート製。
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」の「ゑちぜんふくゐの橋」に、
江戸時代の半石半木の橋の様子が描かれている。 」
柴田神社の本殿の左手に「北の庄城址資料館」がある。
以上で北の庄城の見学は終了した。
福井駅周辺
福井駅前には数体の恐竜の動く置物があり、平面は恐竜が描かれていた。
福井からは今まで発見されなかった新種の恐竜もあり、
勝山地方は恐竜王国として子供に人気があり、
そのためのPRとして駅前を賑わせているのだろう。
福井を訪れた目的の一つにソースかつ丼がある。
小生がソースカツ丼に出逢ったのは南会津の田島である。
その後、栃木県の旧会津街道の沿線や桐生、足利で食べた。
これらはご飯の上にキャベツがのせられ、その上にソースをかけたカツがのっていた。
栃木の単身赴任が終わり、
愛知に帰ると愛知県東部と南信濃の駒ケ根でソースカツ丼に出逢ったが、
キャベツのないものだった。
当時そのルーツを探すため、
ホームページの旅楽に「ソースカツ丼のルーツを探る」というコーナーで投書を受けると、
東京とする意見があったが、福井のヨーロッパ軒とする意見も寄せられた。
その後、テレビでソースカツ丼が取り上げられ、
駒ケ根の町おこしとしてソースカツ丼と発祥とされる福井のヨーロッパ軒が
放映された。
一度福井へ行かねばと思っていたが、千葉県船橋市に転居したので、
未訪問のままだった。
今回の城訪問のついでに訪れることができた。
ヨーロッパ軒のソースかつ丼は豚肉の薄いものをカツにしたもので、
軽いソースであっさり味付けものをご飯にのせたもの。
これまで食べたもので、一番シンプルだった。
そのため、追加できるソースが用意されていたが・・・
関東育ちの小生にはもの足りなかったが、関西圏の福井ではこの味なのだろう。
店内は訪れた有名人の色紙で一杯だった。