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「 山城は全長1.5キロメートル、北西の低い場所に小見放城という出城が築かれ、 馬出しなどが設けられ、 標高四百十六メートルに本丸(千畳敷)、東南へ尾根伝いに一の丸(443メートル)、二の丸(463メートル)、 三の丸(473メートル)と合計四つの曲輪があったという。 曲輪は幅二百メートル、主郭部分はおよそ六百メートル× 二百メートルで、各曲輪は堀切により区切られた連郭式城郭である。 」
資料館で登頂ルートの案内をもらうが、登頂に一時間かかり、
合計三時間で山行きの服装が必要といわれた。
同行の娘は登る気があったが、それだけの用意と時間がないことからあきらめた。
登った人達の話では、現在も、曲輪、空堀、堀切、竪堀、
土塁や伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っているという。
道幅も狭く、曲輪も小さいので、見張台の役割は果たせるが、
戦闘に利用するには不十分ではなかったかとのこと。
天正元年(1573)八月十六日、朝倉義景は刀禰坂の戦いに大敗し、
一乗谷を放棄し大野へ逃れるが、山城の防備がしっかりしていれば籠城も可能だったと思った。
その先、右側に塀で囲まれた建物群が城下町の復原町並である。
「 城下町は南北を城戸に囲まれた約一・七キロの谷間に形成され、
百尺(約三十メートル)を基準に計画的に町割がされて、
京都のように町並みは整然としていた。
一乗谷は応仁の乱を逃れてきた京都の公家などの文化人たちなどにより、
最盛期には人口一万人を超え、越前の中心地として栄えた。 」
天正元年(1573)八月十六日、朝倉義景は刀禰坂の戦いに大敗し、
翌日、信長の軍勢により放たれた火により、一乗谷の集落は灰燼に帰した。
現在の町並は平成七年(1995)に発掘結果や史料等を基に、
二百メートルにわたって当時の町並みとして復元されたものである。
当時、この一帯は周囲を土塁をめぐらし、大屋敷が立ち並ぶ地区だった。
それらのうちの一軒を史料等を参考にして、
三十坪の主殿を中心に門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠まですべてを再現している。
「 この屋敷は約三十メートル四方の広さをもち、
西の道路に向って建つ表門の周囲を土塀で囲んでいる。
中に入ると左半分の奥に板蔵、
左側に使用人が居住していたと思われる納屋や中央に井戸、
その右手に厠(便所)があった。
右半分の奥の方に主人が住む主殿があり、
その広さは六間x四間で、台所、たたき、納戸、主室は三部屋、
それに接して東西隅に離座敷と庭が設けられていた。 」
屋根は割板で葺かれ、室内には畳も敷きつめられ、
舞表戸、明障子等の引戸も多く用いられている。
木材の加工にはかんな、やりかんな、ちょうな等が使用された。
道の反対にある門を入ると、広大な空地が広がっていて、
「大規模武家屋敷群」の説明板が立っていた。
「 この地区は、一乗谷古絵図に朝倉氏の有力家臣の名が多く見られる場所で、
発掘調査で計画的に作られた道路とこれに沿って整然と配置された多くの大規模武家屋敷跡が確認された。
道路は戦国時代特有の鉤型に曲がる道で、
西の山裾側の屋敷の方が東の川側の屋敷に比べて、数倍大きくなっていた。
各屋敷は幅1.2m〜1.8mの石垣を持つ小土塁で区分されていて、
間口十尺(3m)の門が道路に面するところに設けられていた。
山裾の大きな屋敷の門は礎石四個を用いた四本柱の薬医門なのに対し、
川側の屋敷の門は掘立柱二本の棟門と格式の差が見られる。 」
城下町には町民が住む小規模な建物が細く並んでいた。
城戸の近くもびっしりと町屋が並んでいて、人口密度が相当高かったとされる。
現在、復原町並内に十軒の町屋が復元され、裏庭、井戸、厠なども再現されている。
「 数軒が連なる長屋形式で、屋根は板葺きその上に枝で抑えたり、 石が置かれた構造である。 長屋内は職人により、配置や道具などが違っているが、 復元町屋では木工、ろくろ師、染物屋などがあった。 」
当時一乗谷にはいろいろな職種の職人や商人が集まっていたのだろうと思った。
少しだけだが、当時の繁栄ぶりが分かった気がした。
道を隔てた反対に一乗谷川が流れ、その先には朝倉館が建っていた。
「 朝倉館は一乗谷の中心部に位置し、朝倉家当主が居住した館である。 東側後背に前述の山城があり、 西、南、北の三方を高さ一・二メートルないし三メートル程の土塁で、 その外側を幅約八メートル、深さ約三メートルの堀で囲っていた。 三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門があった。 西方にある門が正門(御門)で、現在は唐門が建てられている。 」
唐門は朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わる松雲院の山門で、
現在の門は江戸時代中期頃に再建されたもので、
幅二メートル三十センチの唐破風造り屋根の門である。
なお、この場所は朝倉義景館の西正門があったとされ、
門標には朝倉家の三ッ木瓜の紋が刻まれている。
唐門をくぐると、礎石が残る広大な空地に出た。
朝倉館の全体図は下のようだったという。
「 館は山城を背に西を向き、三方に掘と土塁を巡らし、
門を開き、隅櫓を構え、平坦部の面積は約六千四百平方メートルだったといわれる。
内部には十七棟の建物があり、これらを大きく二つに分けると、
一つは主殿を中心に南半に位置するもので、
会所、数寄屋、庭園花壇など接客用の施設群があった。
もう一つは常御殿を中心に北側に位置するもので、主人の日常生活の場となり、
台所や持仏堂、湯殿、蔵、厩など日常生活のための施設群が存在していた。
常御殿は館内最大の建物で、
東西約二十一・四メートル、南北約十四.二メートルの大きさである。
建物は全て礎石の上に角柱を立て、舞良戸、
明障子といった引戸を多用し、畳を敷きつめた部屋が多かった。
屋根は柿板等を葺れていたと考えられる。 」
主殿跡の右手(東南隅)に五代義景公の墓所があった。
「 天正四年(1576)に村民が建てた小祠の場所に、 寛文三年(1663)、福井藩主、松平光通が墓塔を建立した。 」
昭和四十三年(1968)に常御殿の南側中庭で花壇の遺構が発見された。
説明板「花壇」
「 東西九・八メートル、南北二・八メートルの長方形をなし、
花粉分析等により、春にはシャクナゲやボタンなどが、
秋にはキクやハギなどが植えられていたことが判明した。
花壇としては現在のところ、日本最古の遺構である。 」
その先の丘陵の麓に造られたのが義景館跡庭園である。
「 完全に埋没していたが、
昭和四十三年(1968)の発掘調査で発見された。
護岸石を館の礎石に兼用し、庭園を囲むように接客用の館が建てられていたと考えられる。
庭池は数寄屋跡南の山すそにあり、滝口前方には水分石がある。
滝石組が中央に配されており、付近には橋挟石と石橋の残片が遺存している。
池には大きくて平らな川石が敷きつめられている。
東側の急斜面には導水路があり、庭池へつづら折れ
に流れ落ちるようになっている。 」
写真はこの部分であるが、庭という実感に乏しい。
数寄屋跡西には小砂利を化粧敷きにして庭石を数個配置した枯山水がある。
庭園の庭石の一部には海石である安島石や青石が使われている。
右手の坂を登ると中の御殿跡に行ける。
義景館跡の南隣にあり、空堀を隔てて湯殿跡庭園とほぼ同じ高さの場所にある。
「 足利義秋から従二位に叙せられた朝倉義景の母・光徳院が、
居住したと伝えられている御殿跡である。
昭和四十七年(1972)以降の発掘調査により、門や庭園跡、建物跡の一部が発見された。
庭園としてはこの他、南陽寺跡庭園、湯殿跡庭園、諏訪館跡庭園が発見されていて、
この坂を上り、峰沿いに回遊できるようだが、時間もないので一乗谷の見学はここで終了となった。
なお、湯殿跡庭園以外は石組の形式などが類似しているため朝倉義景時代の作庭と考えられている。
一乗谷城へはJR越美北線一乗谷駅から徒歩約30分
JR福井駅からは京福バス東郷線で約30分、武家屋敷下車、徒歩すぐ
一乗谷城のスタンプは一乗谷朝倉氏遺跡資料館にて