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七尾城は、七尾畠山氏の初代当主・能登国守護の畠山満慶が、 正長年間(1428〜1429)頃に築城したと推定されるが、 当時の城は砦程度の規模と見られ、行政府である守護所などは府中(七尾市府中)に置かれていた。
「 五代当主の畠山慶致と七代当主の義総(よしふさ)が統治した永正〜大永年間(1504〜1528)、 畠山義総は積極的な国作りを行ない、居城を七尾の城山に移し、五大山城と称される名城七尾城が建設され、 守護所も府中から七尾城へと移されたといわれる。 」
七尾城は後に上杉謙信の猛攻を一年以上耐え切ったことからもわかるように、 天下で屈指の堅城として讃えられた。
「 畠山義総は優れた文化人でもあり、 応仁の乱の戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師などの文化人を積極的に保護し、 さらに商人や手工業者にも手厚い保護を与えて、 義総治世の七尾城下町は小京都とまで呼ばれるほどに発展したといわれる。 」
七尾城図を見てもスケールが大きく、
この城を畠山氏から奪った上杉謙信はその眺めの良さに感嘆したと伝えられる。
駐車場は、七尾城図では長屋敷とあった場所で、
そこから林の中を歩くと「調度丸跡」に出た。
案内板には 「弓矢などの武具(調度)をととのえた場所。
多数の出土品がここで発見されている。 」 とあり、
復元CGがその下に描かれていた。
その先に「←本丸跡160m 古道(旧大手道)390m↑」の道標があり、
その先には四段の石垣が見えた。
石垣の手前の右側には「国指定史跡 七尾城跡」 の説明板があった。
「 この城跡は室町時代、能登国の守護であった畠山氏が歴代居城とした所である。
石動山脈の北端、七尾湾が一望できる標高約三〇〇メートルの山頂部を削平して本丸を置き、
これを中心として急峻複雑な地形を利用し、東方に長屋敷、西方と北方にかけて
西の丸、二の丸、三の丸等を構えた規模雄大な山城である。
天正五年(1577)九月、上杉謙信がこの城を囲んで際、
折からの月明に感嘆して詠じたと伝えられる漢詩、
霜満軍営秋気清 教行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷懐遠征
が広く称賛されることで、本城の名を高めている。
その後、幸いにも自然災害や開発等の厄にもあわず、
各尾根上の郭跡や石垣が良く保存され、
山岳城郭史上優れた遺跡として、昭和九年十二月二十八日、国の史跡に指定された。 」
その先の石垣は野面積みで苔が一部生えていた。
階段を上ると、「←本丸跡80m 九尺石120m→」と 「←本丸跡、遊佐屋敷」の道標が現れ、 その先に遊佐屋敷跡の説明板があった。
「 この曲輪は本丸すぐ西側に接し、 七尾城跡の中心部にあることから、 城主に次ぐ守護代の地位にあった遊佐氏の屋敷跡と伝えられる。 」
更に進むと階段が現れ、両側には石垣が残っていた。
「 義総の時代が能登畠山氏の全盛期で、
義総が死ぬと重臣たちの主導権争いが始まり、畠山氏は急速に衰退していく。
天正四年(1576)、能登国に侵攻した上杉謙信に包囲されるが、
一年にわたって持ちこたえた。
しかし、重臣同士の対立の末に擁立されていた若年の当主畠山春王丸が、
長続連、遊佐続光、温井景隆らの対立を収めることができず、七尾城は孤立し、
最終的には遊佐続光の内応によって徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、
同年九月十三日に開城された。 」
階段を上り切ると七尾城本丸跡で、「七尾城本丸跡」の説明板がある。
「 七尾城の中心となる曲輪。 東西の長さは五〇メートル、南北の長さは四〇メートルあり、 二の丸までの一連の曲輪とともに主郭を構成する。 石垣は戦国期山城に多い野面積みの工法を用い、北側は三段に組まれている。 」
説明板の下に本丸のCGがあり、本丸の姿を想像することが出来た。
本丸跡には「七尾城址」の石碑と城山神社の右手に鳥居と祠があった。
本丸の最も奥まった所に天守閣が築かれていたとの説もあるようだが、
物見台のようなものだったのではないか?
高石垣ではないものの、二メートルほどの低い野面積の石垣を五段に積み上げた本丸の石垣は、
高石垣の役目を果たしている。
本丸は平に海にせり出していて、七尾湾と和倉温泉の町並が見えた。
その先の狭くなっているところに 「桜馬場、二の丸跡」の道標があるが、
かっては城門があったのだろうか?
下の杉林を抜け、更に下ると左右に石垣だったと思える崩れた丸い丘があり、
その間に道が続く。
更に下りると「桜馬場 二の丸→」の道標があり、桜馬場跡の説明板があった。
また、桜馬場のCGもあった。
「 この曲輪は東西の長さが四十五メートル、
南北の長さが二十五メートルあり、軍馬の調練が行われていた馬場などと言われる。
北側の石垣は五段に組まれ、七尾城跡では最大規模のを誇る。 」
七尾城は七つの尾根に造られた山城だが、各曲輪などの高低差がすごい。
これから進む先を含め全体図は下記である。
桜馬場はCGにある広場はなく、林に変わっているようだ。
左に降りる石段と直進した先に石段のある道が見える。
ここには「←本丸跡80m九尺石120m→」、「←本丸跡遊佐屋敷」の道標があるが、
下に降りたところには西の丸があったところである。
九尺石に向って進むと、
「←九尺石26m二の丸跡50m」の道標があるところに「温井屋敷跡」の説明板があり、
「 城主畠山氏を補佐する八臣(四臣四家)の一人温井氏の屋敷跡。」 とあった。
九尺石を見に行ったが、水害で通行不能になっていたが、説明板には
「 城の鎮護のかなめ石。 石の大きさにちなんでこの名がある。 」とあった。
道を戻り、進むと右側が上り坂、左には石垣があり、空地と林になっているが、
ここに温井屋敷があったと思われた。
坂道は二段の石垣を見ながらすすむと、空地に出る。
空地に「二の丸跡」の説明板があり、「 この曲輪は本丸に次ぐ第二の拠点であり、
尾根分岐点に置かれ、周囲をたくさんの曲輪が取り巻いている。 」 とあった。
途中の空地は曲輪跡だったようである。
「史跡 七尾城跡」の説明板があった。
「(前略)現在地は七尾城の中心部北端に位置する二の丸と呼ばれる曲輪です。 本曲輪は尾根を大規模に造成し、南斜面に二段積み上げておりますが、 このような造成段による曲輪を計画的に多数連ねていることが七尾城の特徴で、 その規模と構造は国内でも屈指と見られています。 また、七尾城の麓には、京都の禅僧が天文十三年(1544)に記した「独楽亭記」 にみる千門万戸の家々が軒を連ねる城下・七尾が、 連座奥氏手形成されていたことが明らかにされ、 山上の山城と山下の城下が一体になる北陸を代表する戦国都市であったことも 確認されています。 国宝・松林図屏風を描き、画聖とうたわれた長谷川等伯は、 天文八年(1539)に京風の畠山文化が開花する七尾で生まれ、その才能を育んでいます。 (後略) 」
二の丸のCGがある。
案内板の道の反対に「三の丸100m→」「安寧寺200m→」の道標が建っていた。
かなり急な階段を降り、山裾を左に廻りながら、地道を下っていく。
その先は急な上りであるが、石垣などなく、少し荒涼としている。
道脇に木柵があるので、迷うことはない。
どうやらここは堀切だったところのようである。
「←三の丸500m」「←案寧寺跡200m」の道標があり、更に上ると階段があり、
その上に空地が現れた。
ここが三の丸跡で、説明板には「 南北は百十メートル、東西は二十五メートルを測り、
曲輪の中で最大規模を誇る。
南側の二の丸とは深い堀切で仕切られ、
本丸を中心とした主郭とは別の曲輪を構成する。 」 とあった。
近くに「安寧寺跡→」の道標があるが、安寧寺には崩れたような道を下り、 上りに変わると林の中の道になった。 林の中の明るい空地に「安寧寺跡→」の道標があり、 その先に「安寧寺跡」の説明板があった。
「 畠山氏の墓碑や七尾城攻防戦で滅んだ武士達の慰霊碑などがある。
七尾城攻防戦とは、織田信長と上杉謙信の北陸侵攻をめぐる争いに巻き込まれて畠山氏が滅んだ戦いである。
織田信長の越前侵攻に危機感をつのらせた越後の上杉謙信は、
信長との同盟を破棄して幼君畠山春王丸が家督を継いだことで不安定化していた畠山氏への介入を開始した。
天正五年(1577)、上杉謙信は大軍をもって能登に侵攻し、七尾城を攻めたが、
家臣の長続連(ちょうつぐつら)等は七尾城に籠城し、
その攻勢を一年にわたって持ちこたえた。
謙信は周りの支城を落城され、七尾城を孤立させる。
そして、謙信支持派の遊佐続光の内応により、
徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、七尾城は開城し、畠山氏は滅んだ。
謙信の死後の天正七年(1579)、遊佐続光は上杉勢を排除して城主になり、織田信長の軍門に下った。
織田信長は遊佐続光の行動に不審ありとして斬首し、能登国を制圧し、
七尾城には信長の部将前田利家が入城した。
既に山城の時代ではなくなっていたので、前田利家は拠点を小丸山城に移したため、
子の前田利政が城主になっていたが、天正十七年(1589年)に七尾城は廃城となった。
小丸山城址公園がその跡地で、桜の名所になっている。
七尾の城下町も同城付近に移り、城下の備えとして寺院が配置されたが、
今も十六の寺が約二キロの道の両脇に並んでいる。 」
案寧寺跡を過ぎると「駐車場まで530m→」「←三の丸跡190m」の道標があり、
七尾湾が展望できるところに出た。
眼下には高速道路が横断して、その先に小山がいくつか見える。
その先に沓掛の道標があり、三叉路に出るが、
沓掛から下る道は資料館から上がってきた大手道である。
以前はこの道を上り、ここで左折すると本丸、
右折すると三の丸を経て二の丸へ行っていた。
「三の丸→」「←本丸 七尾資料館」の道標があった。
駐車場に車を置いたので、本丸への道をとる。
尾根を横断するように道が出来ていて、「本丸」まで300m 大手道100m」の道標がある。
その先に本当に小さな水たまりのようなものがあったが、「とよの水」といい、
城内の水源で枯れたことがなかったとある。
その先の杉に「←寺屋敷 本丸跡150m→」の道標と「本丸駐車場→」の道標があり、
「寺屋敷跡入口」の説明板があり、
「 寺屋敷跡はこの先代々の墓守を兼ねた僧兵が居住していた地。 」 とあった。
寺屋敷はこの下部にあったようである。
本丸への道を行くと、最初に見た四段の石垣の脇に出た。
前田利家が居城にしなかったため、開発や災害などによる遺構の損失を逃れ、
遺構が数多く残っていた。
曲輪の主要部に効果的に石垣が使われていて、
織豊期の特色がよく表われているという。
数段に積まれたこの石垣は調度丸から桜馬場へ至る通路の両脇にあり、
苔蒸しているが、いにしへの山城の凄さを感じ取ることができた。
七尾城へはJR七尾線七尾駅から市内循環バス「マリン号」東回りで13分、
城山の里下車、本丸まで徒歩約60分
七尾駅からタクシーで調度丸にある駐車場まで行けば20分程で本丸まで行ける
七尾城のスタンプは七尾城史資料館(月休、12/11-3/10休)にて