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その先の千歳台にある明治記念之標は、 明治十三年(1880)に西南戦争で戦死した石川県戦士四百人を慰霊するために建てられた 日本最初の屋外人物の銅像である。
「 中央に身長五・五メートルの日本武尊像、 左に石川県戦士忠碑があり、 両脇には京都の東本願寺、西本願寺の門跡から移された手向松が植えられている。 明治記念之標の土台となっている石は、金沢城玉泉院丸庭園にあったものである。 」
菊桜は三百枚以上もの花弁がつき、
初代は昭和三年(1928)に天然記念物に指定されたが、
昭和四十五年(1970)に枯死し、現在は二代目が花を咲かせている。
根上松(ねあがりのまつ)は、十三代藩主、斉泰が稚松を高い盛土にお手植えし、
徐々に土を除いて根をあらわしたものと伝えられる。
辰巳用水は、寛永十九年(1632)金沢城の堀の水や防火用水として、
ここから約十一キロの犀川上流から引かれた。
設計施工は小松の町人、板屋兵四郎である。
その先に芭蕉の句碑があり、その先の盛り上がっているのが山崎山。
金沢城には東西の内外計四つの惣構堀(そうがまえぼり)が掘られていた。
山崎山は惣構外郭土塁の一部で、その南側の池は水堀の名残りである。
成巽閣(せんそんかく)は、文久三年(1863)、十三代藩主、
斉泰が母堂真龍院の隠居所として竹沢御殿の一隅に造営したもので、
二階建て寄棟造り柿葺で幕末の武家造りの遺構として、
国の重要文化材に指定されている。
その先に梅林があり、その奥に舟の形をしたものがある。
舟之御亭というものだろうか?
そのまま進むと霞池に出て、池の中に茶屋があるが、
これは内橋亭で、左のこんまりしているのは栄螺山(さざえやま)である。
栄螺山の左を直進すると瓢池に出た。
瓢池の説明板には 「 昔、このあたりを蓮池庭といい、
兼六園の発祥の地である。
池は瓢箪形をしているので、後に瓢池と名付けられた。
前方の翠滝は安永三年(1774)に造られたものである。 」 とあった。
瓢池のほとりにある夕顔亭は、安永三年(1774)に建てられた茶室。
「 袖壁に夕顔(ひょうたんの古語)の透彫があることから夕顔亭という。
本席は3畳台目で、相伴畳を構えた大名茶室である。
藩政時代は滝見の御亭とも呼ばれていた。 」 と説明板にあった。
三芳庵の先の松濤坂を上ると噴水があった。
「 十三代藩主、前田斉泰が、 金沢城二の丸に噴水を上げるために試作したとされ、 日本に現存する最も古い噴水であるといわれる。 噴水のある場所より高い位置にある園内の水源、霞ヶ池から石管で水を引き、 水位の高低差だけを利用して、水を噴き上げさせている。 そのため、水が噴き上がる最高点はほぼ霞が池の水面の高さに相当する。 ポンプなどの動力は一切用いておらず、位置エネルギーのみを利用したものである。 」
この一角に「時雨亭跡」と書かれた木標があった。
「 時雨亭は五代藩主前田綱紀の頃からあった建物で、 明治時代に取り壊された。 平成十二年(2000)に復元された時雨亭は瓢池の左手に建てられ、 休憩処として来園者に開放されている。 」
以上で兼六園の見学は終了した。
兼六園へは、JR金沢駅兼六園口(旧東口)のバスターミナルより、
兼六園シャトルバスが運行している。
妙立寺
金沢城はあまり堅固な城とは言えず、
有事の際は城下町にて敵を迎え撃つため軍事拠点として多くの寺が建立された。
そのうちのひとつが日蓮宗、正久山妙立寺で、金沢城の左下の犀川の先にある。
「 加賀藩三代藩主、前田利常が寛永二十年(1643)、 金沢城近くから当地に移築し建立した寺である。 利常は徳川家から嫁を迎え、母親を人質に出し、鼻毛を伸ばして馬鹿殿様を演じ、 幕府を安心させる一方で、 多くの武士が起居できる寺院群を現在の寺町に新築した。 その中心に監視所の役割を持つ妙立寺を建立した。 」
見上げるような屋根、望楼、多くの隠し階段、切腹の間など、 種々の仕掛けがあるので、忍者寺の通称を持つ。
「 初代藩主、前田利家が金沢に入城して間もないころ、
金沢城近くに建立した日蓮宗の祈願所を移転したもので、
加賀藩歴代藩主が祈願所として武運長久を祈り、家紋の剣梅鉢を守ってきた。
建設当時は幕命により三階以上の建築は禁止されていた。
当寺は、外観は二階建てだが、内部は四階建て七層にもなっている。
しかも、その構造はきわめて頑強で、
台風や雪害などに耐えられる配慮が施されている。 」
拝観は予約制で、館内は撮影禁止であった。 二十人位のグループで見学するので、 予約時間までに訪問して案内人による説明を聞くことになる。
「 中二階、中中二階など複雑な建築構造の中に部屋数二十三、階段が二十九もあり、
最上階の物見台ともとれる望楼は各方面が遠望できる。
本堂の屋根の突つ端部分にあるギヤマン(現在はガラス)張りの望楼は、
見張り台になっていて、
金沢城へは光による交信も可能で、寺町台はもとより、
遠く加賀平野を遠望、敵の動きをいち早く知ることができた。
庫裏の中心にある大井戸は深さ二十五メートル位で茶水に使用されていたが、
水面上に横穴があり、金沢城まで続き、逃げ道にもなっていたともいわれている。 」
出城の要素を備え、また、忍者寺といわれる仕掛けが施されている。
「 正面から突き当たりにある蹴込(けこみ)の所に障子を張って明かりを取り、
外敵の足の影を見て、槍などで刺し倒すことができる。
本堂正面入口に埋め込まれた賽銭箱には落とし穴になる仕掛けが施されていた。
階段二十九のうち、六ヶ所は本堂に集中し、
特に左端は奥まったところにある階段は渡廊下に見せた階段で、
床板をはずすと落とし穴となり、下男部屋への通路となって
身が隠せるような仕掛けになっている。
本堂裏の物置の戸を開けて、床板をまくると階段がある。
身を隠して逃げられるようになっている。
床板には溝が刻まれ、戸を閉めると自動ロックになって開かなくなる。
床下には通路が作られている。 」
写真撮影禁止なので、この様子を紹介できないのが残念だが、一度訪問する価値はあると思う。
所在地:石川県金沢市市野町1−2−12
拝観は予約制 076−241−0888 にTEL
妙立寺(通称忍者寺)へはJR金沢駅からバスに乗り、広小路又は野町広小路下車
城下町を歩く
妙立寺のあたりは野町1丁目で周囲には寺院が多くあった。
カフェになっている寺院があったので、本堂に上がりフルーツパフェを食べた。
少し元気がでたので、城下町を歩いた。
近くに西(にし)茶屋街がある。
「 十二代藩主、前田斉広は文政三年(1820)、
金沢町奉行山崎頼母の口添えにより、公許を与えて鼓楼を区域を限定して集め、
茶屋街が出来た。
その時出来た茶屋街は三つで、にし茶屋街は高級を売り物にしたという。
茶屋街の入口には大門と番所があったというが、今は残っていない。 」
出格子の美しい茶屋形式の二階建ての家並が茶屋街の特徴で、
掛け行燈と格子、特に金沢の格子は桟が細くて、
間隔が狭いのが、京都の島原、江戸の吉原と異なる点で、
以前は紅がらの漆で塗られていたという。
以前訪れたひがし茶屋街の方が大きいなと思った。
かっては三味線の美しい音色が流れ、芸の町、
金沢の趣ある一角を作り出していたのだろう。
犀川に架かる橋を渡り、百万石通りを直進すると片町商店街で、
香林坊に入っていく所に「香林坊」の石柱があり、
かって金沢城の外掘があったような雰囲気があった。
その一角に祀られていた地蔵尊の石碑に以下の話が刻まれていた。
「 越前朝倉氏に仕えた向田兵衛は天正八年(1680)当地に移り、 町人となって薬種商を営む。 比叡山の僧だった縁者の香林坊を婿養子に迎え、 店の名も香林坊にする。 ある夜、兵衛の夢枕に現れた地蔵尊のお告げにより処方した目薬が藩祖の前田利家の目の病を治し、 香林坊は大いに名を上げる。 夢で見た地蔵尊を造り、店の小屋根に安置し、商売が繁盛する。 寛永の大火のとき、この地辺りで不思議と火が止まったため、 香林坊の火除地蔵尊とも呼ばれるようになった。 」
香林坊の東急スクエアの左手に入った長町一帯は武家屋敷が建っていた地区で、 前田土佐守家資料館や野村家武家屋敷、足軽資料館がある。
「 長町地区は加賀藩士が群居した屋敷跡の一つで、 広い敷地を囲う土塀が道にそって長く連なりを見せ、 入口には家格に応じた門構えになっている。 これらの屋敷構えは武士階級だけに許された。 そのためか、長町界隈は江戸時代を通じて、 一度も大火の被害を受けることなく、その当時のたたずまいを今日に残している。 」
金沢はその他にも、城下町の雰囲気を残しているところが多く残っていて、
歩いていて楽しい。