mrmaxの城めぐり 富山県1  (高岡城)


高岡城は加賀藩二代藩主、前田利長が自らの隠居城として、慶長十四年(1609)に築城した城である。 
日本100名城の第33番に選定されている。 


かうんたぁ。




高岡城

平成二十九年(2017)九月二十三日、高岡城と高岡大仏を訪問した。 
高岡城は加賀藩二代藩主、前田利長が慶長十四年(1609)に自らの隠居城として、 小矢部川と庄川に挟まれた高岡台地上に築城した城である。 

 「 加賀藩二代藩主、前田利長は慶長十年(1605)六月、 富山城に隠居したが、四年後の慶長十四年(1609)、 富山城下から出火した火災で、 城内の建築物の大半が焼失したため、魚津城に移り、 大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に関野の地に築城する許可を貰い、 前田家の客将だった築城の名手、高山右近に縄張(設計)を頼み、 新たな居城として六ヶ月で築城するとともに 城下を整備した。  同年九月に関野を高岡と改め、九月十四日、高岡城に入城した。  殿閣は先代利家が豊臣秀吉から賜った(豊臣秀次失脚に伴い破却された) 伏見城秀次邸の良材を使って建てられたとも伝えられる。 
慶長十九年(1614)、利長が没したので、隠居城として使われたのは 六年ほどの短さだった。  翌元和元年(1615)、一国一城令により、高岡城は廃城となったが、 加賀藩の米蔵、塩蔵、火薬蔵、番所などが置かれ、 高岡町奉行所の管理下で維持された。  明治維新後は公園に整備されて、今日に至っている。 」 

南外濠に架かる赤い欄干の駐春橋を渡ると古城公園で、 敷地は約二十一万u、その1/3は堀である。 
その先には護国神社があり、慰霊碑が建っていた。  護国神社は本丸跡にある射水神社の末社とあった。 
このあたりは二の丸跡で、左手の高岡市立博物館には 高岡城を築城した前田利長の書状などの歴史資料が展示されていて、 日本100名城のスタンプは本館受付に置かれている。 
二の丸の東側にあるのは鍛冶丸で、そこから堀越しに二の丸から本丸への土橋を見ると石垣が見えた。  この石垣は築城当時のものという。 

護国神社
     高岡市立博物館      石垣
護国神社
高岡市立博物館
高岡城石垣



高岡城は西南向きに築かれ、本丸を馬出と呼ばれる四つの郭(二の丸、三の丸、鍛冶丸、明丸)で囲み、 郭を囲う広大な水堀は本丸西側が一重で、その他は二重である。 
本丸の南は二の丸(西の丸)、北はは小竹藪、東側には南から北へ鍛冶丸、明丸、 三の丸が一列に並んでいた。  本丸を他の郭でコの字型に囲む形の縄張りにしたことで、 本丸の東と南は堅固に防御された。 

 「 当時は本丸の北から北西にかけては沼沢地だったので、 それを背面の護りとしてした。  西側は濠をめぐらすだけだが、本丸は段丘の上にあり、 崖の上から前方が見渡せる上に、深い沼田が連なり、 はまりこんだら最後、進退の自由を失う難所だった。 」 

南側に大手口、東側に搦手口を設けていた。  また。郭は土橋によって結ばれているが独立性が高く、 富山城との共通性も指摘されていて、その発展型とみることができるという。 

高岡城全体図
高岡城全体図



二の丸と本丸の間には土橋があり、そこのは西内濠があるが、 そこの石垣も築城当時のもので、石に刻印が記されている。 
本丸には射水神社の青銅製の鳥居があり、右手前の奥に相撲場があり、 相撲を取っているブロンズ像があった。 

 「 射水神社はもともとは高岡市の二上山南麓にあった神社で、 式内名神大社、越中国の一宮である。  創建時期は不詳だが、奈良時代以前にあったとされ、 二上山を神奈備とし、太古よりその麓に鎮座したが、 養老元年に行基が勅命を受けて、二上山麓に別当寺を建立し、 二上神を二上権現と称して祀ったという。  明治八年に高岡城本丸跡の現在地に遷座したが、 明治三十三年(1900)の高岡の大火で焼失。  明治三十五年(1902)に現在の神明造の社殿が再建された。 
最初は伊也頭国造の祖神とされる二上神だったが、 現在の祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)である。 」 

屋根の上には千木や鰹木が乗っている。  なお、元の鎮座地である二上山南麓には二上射水神社がある。 

石垣
     鳥居      社殿
西内濠の石垣
射水神社の鳥居
神明造の社殿



本丸北西部には芝生の本丸広場があり、歌碑や現代美術のブロンズ像が点在している。 
高岡城には飲水用として数ヶ所の井戸が掘られたが、その内の一つ、本丸の井戸が残っている。 
本丸広場の南側には発掘された高岡城の石垣の石が十三個並べられていた。 
説明板には「 明治初頭に護岸工事で持ち出されていたもので、 平成十三年に河床から出てきたものを設置した。 」、とある。 
本丸広場の北側には高岡城を建てた加賀藩二代目藩主、前田利長の騎馬銅像が建っていた。  慶長十四年(1609)九月十三日、高岡城へ入城した晴姿を模したものとあった。 

本丸の井戸
     石垣の石      騎馬像
本丸の井戸
石垣の石
前田利長騎馬像



本丸広場から内濠沿いに東に行くと赤い欄干の朝陽橋があり、 内濠に浮かぶ中の島には緑翆亭がある。 
その先は三の丸で、民部の井戸がある。 

説明板「民部の井戸」
「 高岡城があった頃、越中の飲水用として数ヶ所に井戸を掘られ、 そのひとつが体育館横の昔、今枝民部の屋敷があったところの井戸である。   井戸の中でも最も大事なものだったようで、その後、 屋形を建て今日まで保存されてきた。 」 

その先には動物園があり、その周囲には枡形濠と呼ばれる堀がある。 
動物園は明丸だったところだろうか?  その先は鍛冶丸、 そして二の丸跡で、城内を一周したことのなる。 
高岡城は市街地でありながら、堀や郭が当時のまま良好に残っており、 近世初頭の政治、軍事の状況や築城技術を知るうえで貴重な史跡であるとして、 平成二十七年に国の指定史跡になった。 
ただ、建築遺構は現存せず、一部の土塁や石垣、堀や井戸が残るのみであるが・・・・ 

朝陽橋
     民部の井戸      動物園
朝陽橋
民部の井戸
動物園



高岡城へはJR北陸本線高岡駅から徒歩10分 
高岡城のスタンプは高岡市立博物館本館受付(月休、9時〜17時)に置かれている 




高岡大仏

「 高岡大仏まつり 10年振りの修理 この秋 」 というポスターを見て、 高岡駅へ戻る途中なので、行ってみることにした。 
城から三百五十メートルなので、すぐに着いた。  入口に祭の看板があり、屋台が並び、人が群がっていた。 

 「高岡大仏は平安時代に二上山の麓に建立された木造大仏が始まりで、 その後焼失するが、再建され、また、焼失することを繰り返したという。  明治三十三年(1900)の高岡の大火で焼失後、火に強い大仏の再建を望む声が高まり、 高岡銅器の職人の手により、昭和八年(1933)に銅製の現在の大仏が完成し、開眼供養が行われ、 昭和三十三年(1958)には光背が取り付けられた。  全体の高さは十五メートル八十五センチ、坐像の高さは七メートル四十三センチ、顔の大きさは二メートル 二十七センチとあり、銅造阿弥陀如来坐像として高岡市指定有形文化財に指定されている。 」 

大仏の周囲に白い装束の人々がいて、大仏の清掃を行っていたが、 これが大仏まつりのメイン行事で、一年間の汚れを落とす「お身ぬぐい」であった。 
台座の中には回廊があり、地獄絵などが展示されていて、 中央の部屋には明治三十三年(1900)に焼失した木造大仏の頭部が鎮座していた。 
高岡大仏は高岡銅器の職人の技術の結晶と言えるものといえよう。 

高岡だいぶつまつり
     お身ぬぐい      大仏の頭部
高岡大仏まつり
お身ぬぐい
木造大仏の頭部



高岡大仏所在地:富山県高岡市大手町11−29
高岡大仏へはJR高岡駅から徒歩10分




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